.80日間世界一周 ..第一章:フィリアス・フォッグとパスパルトゥーが主従契約を結ぶこと  時は千八百七十二年、フィリアス・フォッグという人がバーリントン・ガーデンズ・サヴィル街七番地に住んでいた。彼自身はいつも人目を避けるようにしていたのだろうが、彼はリフォーム・クラブのメンバーの中で注目に値する人物であった。フィリアス・フォッグは、上品なふるまいをする紳士であるという以外にはほとんど分からないことだらけという、なぞめいた人物であった。人々は「彼は詩人バイロンにそっくりだ。少なくとも、彼の頭はまるでバイロンのようだ。」と噂していた。もっとも、彼はひげを生やしており、穏和で、千年生きていても年をとらなかったバイロンのようであった。  まちがいなく彼は英国人であった。しかしロンドン生まれであるかどうかは疑問が残る。取引所でも銀行でも、シティーのいかなる商店でも、その姿を見ることはなかった。ロンドンのドックに彼が船主である船が来たこともなかったし、いかなる役職にも就いていなかった。彼は弁護士学校に通ったことはなく、二つのテンプル、リンカーンズ・イン、グレース・インのいずれの会員にもなっていなかった。彼は大法官府でも財務府でも王座裁判所でも宗教裁判所でも、弁論を繰りひろげたことがなかった。彼はもちろん職人ではなかったし、商人でも農場経営者でもなかった。彼の名前は科学者の間でも他の意味での学者の間でも知られておらず、王立研究所でもロンドン協会でも熟練工の組合でも芸術や科学の協会でも(議論の中でさえも)知られていなかった。事実彼は、英国の中心地にうじゃうじゃ発生した、多くの集団のどれにも属していなかった。  フィリアス・フォッグはリフォーム・クラブのメンバーであり、そしてそれが彼の肩書きのすべてであった。リフォーム・クラブという高級なクラブに、フィリアス・フォッグが入会を許された理由はごく単純であった。ベアリング商会によってクラブに推薦されたのだ。フィリアス・フォッグは、確実な信用をそこに積み重ねていた。彼の小切手は常に彼名義の当座預金から正確に決済されていたのである。  彼は金持ちだったのか? もちろんそうである。しかし、彼をもっともよく知る人でも、どうやってその財産を得たのかは想像できなかった。その情報を得るのに彼ほど不適当な人物はいなかった。彼には浪費癖はなく、さりとて欲深ではなかった。何か高尚なことや有益なことや慈善目的のためにお金が必要なことが生じたときには、無言で、時には名前を明かさずに寄付をしていたのである。彼は要するに口数の少ない男であった。本当に少ししか話さず、その寡黙な態度によってよりミステリアスに見えた。彼の習慣は観察しやすい。というのは、いつも自分が以前にしたことを正確になぞっていたからだ。ものずきな人々は、このことに大いに当惑していた。  彼は旅をしたことがあるのだろうか? たぶん、その答えはYesであろう。というのは、彼ほど世界をよく知っている人は他にいなかったからだ。どんなに浮世離れした土地であっても、彼はそこに関する独自の知識を披露した。行方不明の旅行者に関してクラブの会員たちが議論しているときに、彼はしばしばわずか数語でもって議論を修正し、別の方向からまるで真実を見通しているかのような予言を表明してきた。すると事態は彼の予言どおりに進んだのである。きっとあらゆる場所を旅行してきたに違いない。少なくとも想像はしてきただろう。  ここ数年、フィリアス・フォッグがロンドンを離れなかったことは間違いない。彼のことをよく知る人たちは、いつもいる場所以外の所にフィリアス・フォッグが姿を見せたと宣言できる人はいないだろうと言っていた。彼の趣味といえるものは、新聞を読むこととホイストで遊ぶことであった。彼はこのゲームでよく勝ったが、その時もいつもの習慣に従ってもの静かであった。ただ、その勝ち分が彼の財布の中にはいることはなく、チャリティーのための資金として取り置かれていた。フォッグ氏は、勝つためではなく遊ぶために遊んでいた。ホイストは彼にとっては競技であり、困難を伴う闘いであるにもかかわらず、体を動かすことがなく、疲れない闘いであることから、彼の趣味にあっていた。  フィリアス・フォッグに妻子がいるのかどうかは明らかでない(これは誠実な人によく起こりうることである)。そして親類はともかく友人さえもいない、これは確かに異常といえる。彼はサヴィル街にひとりで住んでいた。誰も訪ねてはこなかった。彼は朝晩の食事をクラブで食べていた。その時間は毎日同じであり、食べる部屋やテーブルまで決まっていた。他のメンバーと食事をすることも、彼がお客を連れてくることもなかった。そしてきっかり夜中の十二時に、ただ寝るためだけにサヴィル街の屋敷に帰るのであった。  フィリアス・フォッグは、クラブがメンバーのために用意した、いごこちの良い寝室を決して使わなかった。二十四時間のうち十時間は、寝たり身支度をしたりするために自宅で過ごしていた。ときどき散歩をすることもあったが、その時も規則正しい歩調で、モザイク模様にしてある表玄関か、丸い屋根がついている円形の回廊(十二本のイオニア様式の柱で支えられており、青く塗られた窓で明かりを取り込んでいる)を歩くのだった。彼が食事をするときには、クラブの持つすべての台所や貯蔵所や出入りの商人たちによって提供された、最もみずみずしい食べ物が、テーブルの上に所狭しと並べられるのだった。彼のために、燕尾服に身を包み、羽毛付きの白鳥皮で覆われたソールを持つ靴をはいたウエイターが給仕をした。給仕たちによって、素晴らしい陶器製の食器にのったごちそうが、リンネル製のテーブル掛けの上に運ばれてくるのである。クラブのデカンターには、彼がキープしているシェリー酒、ポートワイン、シナモンなどの香料入りのクラレットなどが保管されていた。飲み物は氷で常に冷やされていた。そのための氷が莫大なコストをかけてアメリカの湖水から運ばれていた。  もしもこのスタイルで生活するのか偏屈というのならば、偏屈にも良いところがあることを認めなければなるまい。  サヴィル街の屋敷は、豪邸とはいえないまでも、きわめて便利にできていた。フィリアス・フォッグは従者をひとりだけ雇っていた。従者に対してフォッグ氏は何も言わなかったけれども、ただ超人的な正確さと規則性だけを要求した。この十月二日に、フィリアス・フォッグは従者として雇ってきたジェームス・フォスターを解雇した。その理由は、この不幸な青年が、ひげそり用のお湯として華氏八十四度のお湯(本来は八十六度でなければならなかった)を持ってきたからだった。フィリアス・フォッグは後任の者を待っていた。その人は朝十一時から十一時三十分のあいだに家に来るはずであった。  フィリアス・フォッグは肘掛け椅子に四角ばって座っていた。パレードの歩兵のように閉じていた足の、そのひざに手を置いていた。頭から腰までピンと立っていた。彼は絶え間なく、日付・時刻を正確に刻む時計を見ていた。フォッグ氏は十一時半きっかりに、それまでの習慣通りにサヴィル街からクラブへと出かけていくのである。  その時、フィリアス・フォッグは小さなほうの客間にいた。部屋のドアをノックする音があって、ジェームス・フォスターが現れた。  「新しい従者でございます。」とジェームス・フォスターが言った。その後ろから三十代と思われる青年が進み出て、一礼した。  「たぶん君はフランス人だね。」フィリアス・フォッグは尋ねた。「名前はジョンだね?」  「失礼ながら、ジャンでございます。」新しく来た男は答えた。「ジャン・パスパルトゥーと申します。このパスパルトゥーという姓は、私がどんな状況であっても仕事を進めることからついた、あだ名でございます。ムッシュー、私は自分があなたの信用に値するものと信じていますが、ずばずばものをいう気性からか、職業を転々としてきました。私は歌手として旅をしていたことがありますし、サーカスの軽業師となったこともあります。レオタールがやるようなこともいたしましたし、ブロンダンがやるような綱渡りをしたこともあります。それから、自分の才能を生かすべく、体操の教師をしていました。その後にはパリの消防士をしておりまして、多くの火災に出動いたしました。しかし、急に家庭的な雰囲気が味わいたくなりまして、五年前にフランスを後にして、ここイングランドで従者として勤めてまいりました。たまたま職を辞しておりましたときに、この連合王国ではフィリアス・フォッグ、つまりあなた様のことですが、もっとも几帳面なおかたであり、昔と変わらぬ生活を送る紳士であるとお聞きしまして、あなた様とともに静かな生活を送りたいと考えたのでございます。できますれば、『パスパルトゥー』という名前を捨て去りたいと願っております。」  「パスパルトゥーとは気に入った。」フォッグ氏は答えた。「推薦状では君のことを大変よくほめてある。私の条件は知っているね?」  「はい、ムッシュー。」  「上出来だ! ところで今何時かね。」  聞かれたパスパルトゥーは、ポケットから巨大な銀時計を取り出して、「十一時二十二分過ぎであります。」と答えた。  「遅れてるぞ。」 とフォッグ氏は言った。  「しかし、まさかそんな――。」  「四分遅れている。大丈夫、遅れを確認しておけばいいんだ。今この瞬間、十月二日木曜日十一時二十九分になったら、君は私の従者だ。」  フィリアス・フォッグは立ち上がり、左手をあげて、機械のような感じで帽子を取って頭にのせ、何もいわずに出ていった。  パスパルトゥーは通りに面したドアが閉まる音を聞いた。それは、彼の新しい主人が外出した音だった。再びドアが閉められる音がした。それは彼の前任者、ジェームス・フォスターのものであった。彼は回れ右をして出ていったのだ。パスパルトゥーは、サヴィル街の屋敷にひとり取り残されたのである。 ..第二章:パスパルトゥーがようやく理想の主人を見つけたと確信すること  「間違いない。」パスパルトゥーは呆気にとられた。「前にマダム・タッソーの所で今度のご主人のような人を見たことがあったな。」  マダム・タッソーの「人々」といわれるものは、ろう人形であり、ロンドンでは多くの人がマダム・タッソーろう人形館を訪問するのである。その様は、まるで話をするのではないかとまで思うほどだ。  フォッグ氏と話していたわずかの間に、パスパルトゥーは慎重に彼を観察していた。そしてパスパルトゥーは、フォッグ氏に関して以下のような意見を持った。年の頃は四十くらいかな。顔は上品でハンサムといった感じだな。背は高い方だな。よく引き締まった体をしているな。髪もひげもブロンドだ。小さくてしわのない額だな。顔はかなり青白くて、歯も立派だな。人相学者たちがいうところの「動中の静」という感じがぴったりといった表情だなあ。静かで無表情で、すんだ目だな。連合王国でよく見受けられる典型的なイギリス人といえるな。アンジェリカ・カウフマンがとても巧みに描いた肖像画を思い出させる風貌だなあ。  ところで、彼の日常生活においていろんな状況で見られるように、フィリアス・フォッグは完璧にバランスがとれた考えを持っていた。それはまるで、ルノウがつくりあげたクロノメーターで管理されているようであった。実際、フォッグ氏は「精密さ」の権化といった感じであったし、そのことは氏の手足にまであらわれていた。というのは、人にとっても、動物の四肢のように手足それ自身が内なる精神を表現しているからである。  フォッグ氏は物事を非常に正確にこなすので、決して急ぐことはなかった。なにしろ常に準備万端整えていて、動き・ステップともに全く無駄がないのだった。彼は多くの段階を踏むことなく、いつも最短の道を通って目的を達成するのだった。彼は余分な動きは決しておこなわず、憤慨したり煽動されたりすることもなかった。彼は世界で最も慎重な人ではあったが、いつも正確な瞬間に目的地に着くのであった。  フォッグ氏は孤独な人であり、(いずれ話すつもりだが)すべての社会的関係から外れていた。彼は、「この世界では社会的関係によって必ず摩擦が起こり、そのことによって物事は必ず遅れる」と悟っていたので、人とつきあおうとはしなかったのである。  一方パスパルトゥーは生粋のパリジャンであった。彼自身の国からイングランドへ去って以来、従者の仕事に従事してきた。しかし、目的にかなう人を捜して失敗しつづけていた。パスパルトゥーは決して、モリエールによって描写されたような、生意気で馬鹿げた人ではなかったので、じろじろと人を凝視したり、鼻で笑ったりすることはなかった。彼は信頼できる人間だった。彼は唇が少し突き出たおもしろい表情をしていた。腰が低くて行儀が良く、何かと重宝な男であった。彼は丸い頭を持っていた。こんな頭が友達の肩の上にのっていたらいいなあと思える頭であった。その目は青く、顔色はバラ色であった。太ってはいたものの、若い頃の鍛錬によって、筋肉質でものすごい力を秘めている体を持っていた。彼は茶色の髪をいくぶん倒していた。古代の彫刻家は、ミネルヴァの長い髪を整える方法を十八も知っていたといわれているけれども、パスパルトゥーは、髪を整える方法をひとつしか知らなかった。大きな歯を持つ櫛で三回すけば、それで完成しているのだった。  パスパルトゥーの活発な性向が、フォッグ氏のそれと調和するかどうかを考えるのはまだ早い。パスパルトゥーが、主人が要求するような絶対的秩序を作り出せるかどうかを予測することは不可能である。実際雇ってみないとそれは分からないだろう。パスパルトゥーは、若い頃には一種の放浪者であったので、現在は休息状態にあこがれていた。しかし、これまでイギリスで十軒もの家に勤めたのだが、それを見つけることができなかった。つまり、どこの家にも根を張ることができなかったのである。残念なことに、彼が今まで使えてきた主人は、ことごとく気まぐれであり、従って不規則な生活を強いられてしまったのだ。つまり、いつも国じゅうを動きまわっていたり、冒険を志したりする人に仕えてしまったのである。彼が最近仕えた主人、ロングスフェリー卿は、若い下院議員だった。卿はいつもヘイマーケットの居酒屋で夜を過ごしており、朝になって警官が卿を肩に担いで、家につれてくることがたびたびあった。パスパルトゥーは仕えた主人を尊敬したかったので、そのような行為を穏やかにいさめた。しかし、そのことを悪いように受け取られたので、パスパルトゥーは暇をとったのだった。  そうした中で、フィリアス・フォッグが従者を求めていることを聞き、そして彼の生活が完全な規則性そのものであること、旅行をしたり家の外で一夜を過ごしたりしない人であることを知ったのだ。パスパルトゥーは、フォッグ氏こそ仕えるにふさわしい人と確信したのだ。そして自分自身をフォッグ氏に見せ、そして受け入れられた。以上の次第はすでに見てきたとおりである。  十一時三十分を過ぎたとき、パスパルトゥーは自分がサヴィル街の屋敷にたったひとりでいることに気がついた。すぐに点検を始め、地下室から屋根裏部屋まで見てまわった。大変きれいで、整っていて、厳粛な邸宅であることを確認して、大満足だった。カタツムリの殻のように見える邸宅は、ガスで明かりと暖房を十分にまかなうことができるようになっていた。パスパルトゥーは三階に上がってすぐに彼のために用意された部屋を見つけた。彼はその部屋に満足した。電鈴と伝声管が部屋に取り付けられていて、それによって下の部屋と会話することができるようになっていた。マントルピースの上にフォッグ氏の寝室にあるものと同じ電気時計が置いてあって、二つの時計は秒に至るまで同じ時刻を刻んでいた。  こりゃあいい所だ、とパスパルトゥーは考えた。  ふと彼は、時計の上に掛けられたカードに気づいた。よく見ると、そこにはこの家における毎日の日記が書かれていた。カードには従者に要求されるすべてが書いてあった。フォッグ氏は八時に起床し、十一時半にリフォーム・クラブへ出かけていくのだが、その間にたとえば以下のことをしなければならない。  八時二十三分 紅茶とトーストを持っていく。  九時三十七分 ひげ剃り用のお湯を持っていく  九時四十分 主人の髪の手入れ    カードには朝十二時半から夜十二時(これはかの規則正しい紳士が帰宅する時間である)までに起こることもすべて管理され、書いてあった。  フォッグ氏の衣装ダンスは完璧に整理され、素晴らしい趣味を見せていた。ズボン・コート・ベストの各ペアには番号がふってあり、彼が年ごと、季節ごとに着ようとする順番をその数で示していた。靴にも同じ方法が使われていた。  要するに、このサヴィル街の屋敷は、かつて名士ジュリダンの元では無秩序と争乱の殿堂であったに違いないのであろうが、今は快適で、理想的な住まいであった。書斎や書物はなかった。というのは、フォッグ氏にはこういったものは必要なかったからだ。リフォーム・クラブには二つのライブラリーがあり、ひとつは一般的な文学を、もうひとつは法律と政治関連の本を集めていた。必要ならそれらを使えるのだった。手頃な大きさの金庫が寝室にあり、火と泥棒を寄せつけないようにしていた。見たところ、銃器のたぐいは見受けられなかった。家の中すべてが、その主人の冷静かつ平和的な気質を表していた。  上から下まで屋敷を探索した後、パスパルトゥーは満足げにもみ手をして、満面の笑みを浮かべた。そしてこうつぶやいた。  「これこそ俺が欲しかったものだ! きっとあの方と一緒にやっていけるだろう。それにしても、なんて家庭的で、規則的な紳士なんだろう! まさに機械だ。まあ、俺は機械に奉仕するくらい何でもないさ。」 ..第三章:フィリアス・フォッグが高いコストを負担するであろう会話が始まること  フィリアス・フォッグは十一時半に屋敷のドアを出た。左足の前に右足を五百七十五回踏みだし、右足の前に左足を五百七十六回踏みだしてリフォーム・クラブに到着した。クラブはペル・メル街に建っており、素晴らしい大建築物であった。その建築費は少なくみても三百万ポンドはかかっていた。  フィリアス・フォッグはすぐに食堂へ行った。食堂には趣がある庭のほうを向いた九つの窓があり、そこからすでに秋色に染まった木々が見えるのだった。食堂にはすでにセッティングをすませたフォッグ氏専用のテーブルが置かれていた。  フォッグ氏の食事メニューを紹介すると、オードブル、ボイルドフィッシュのリーディングソース風味、ローストビーフのスライス・マッシュルーム添え、大黄とグズベリのタルト、チェシャーチーズとなっている。フォッグ氏はそれらすべてを、クラブでも評判の紅茶でもって流し込むのだった。  フィリアス・フォッグは十二時四十七分に立ち上がり、大ホールの方へ歩いていった。豪華なホールには、絵画が惜しげもなく飾られていた。さて、ボーイに新しいタイムズを手渡されると、フィリアス・フォッグは慣れた手つきで慎重に封を切り、三時四十五分までタイムズを読みつづけた。それから夕食の時間まではスタンダードを読むのが日課であった。朝食と同じメニューの夕食を食べた後、フォッグ氏は再び読書室に行き、五時四十分に座るのだった。  三十分後、リフォーム・クラブのメンバーが読書室に入ってきて、石炭によって燃えつづけている暖炉の近くにやってきた。彼らはフォッグ氏がホイストをするときのいつもの仲間であった。名前はアンドリュー・スチュアート(エンジニア)、ジョン・サリヴァンとサミュエル・フラナガン(ともに銀行家)、トーマス・フラナガン(醸造業者)、ゴージャー・ラルフ(イングランド銀行の取締役)。いずれも財産家であり、英国の産業界・金融界の巨頭で構成されるクラブの中でも別格扱いの人たちであった。  「よう、ラルフ。」トーマス・フラナガンが声をかけた。「泥棒はどうなったんだい。」  「ああ、イングランド銀行はお金を失うに違いない。」とスチュアートが応じた。  「それは違うな。」ラルフが割って入った。「私たちは泥棒が捕まるだろうと期待している。優秀な探偵がアメリカや大陸の方の主な港に出むいているんだ、もし捕まらなかったら奴はよっぽど頭がいいんだろうよ。」  「しかし、泥棒について何か分かっているのかね。」フラナガンがスチュアートに尋ねた。  「そもそも奴は泥棒じゃない。」ラルフがきっぱりと断言した。  「なんだって! 五万五千ポンドを持ち去った奴が泥棒じゃないんだって?」  「そうだ。」  「なら、奴は工場主なんだろう。」  「デイリー・テレグラフには、彼は紳士だと書いてあるよ。」  最後の言葉は、新聞から頭を上げたフィリアス・フォッグが発したものだった。それが彼の批評だったのだ。友人におじぎをした後、彼は話を始めた。  ここで交わされている話の元であり、街じゅうで噂になっている事件は、三日前にイングランド銀行で起こったものだった。五万五千ポンドが入った包みが銀行の窓口カウンターから持ち去られたのだ。それは会計係が三シリング六ペンスの預け入れを処理している間に起こった。しごく当然の事ながら、会計係はすべてに目を配っていることができなかったのである。ここでイングランド銀行が人々の正直さに対していかに信頼を置いているかを見てみることにしよう。そこにはお宝を守るための警備員も格子も存在しないのである。金・銀・札束は、初めてやってきた人の前にもありがたくさらされているのだ。なぜこんな無防備なのかと、英国の風習を熱心に観察してきた人に聞けば、ある日、銀行の一室で起こったことを話してくれるだろう。彼はその日、重量およそ七〜八ポンドと思われる金塊を調べたいと思ったのだそうだ。彼はそれを取り上げ、詳細に調べ、隣の男へ渡した。するとその男は次の男へ、またさらに次へと、次々と金塊が手渡されていって、薄暗い入り口の端まで移動していったのである。そして三十分経って元の場所に戻ってきたのだが、その間会計係は一度も頭を上げなかったのだそうだ。  しかし、現在の例ではそううまいこといかなかったのだ。一日の会計をまとめる事務所に備え付けの、重々しい雰囲気を持つ時計が五時の鐘を鳴らしたときには、例の札束は見つからず、イングランド銀行は五万五千ポンドを損益勘定にまわしたのである。  札束の紛失が明らかになってすぐに、探偵が選抜され、リヴァプール、グラスコー、ルアーブル、スエズ、ブリンシジ、ニューヨークなどへと派遣された。そして、探偵たちに対して二千ポンドおよび損害復旧額の五%が報酬として提案された。そのうち何人かは、ロンドンを出入りする鉄道を徹底的に見張るよう命令され、すぐに配置についた。  泥棒は組織的犯罪集団には入っていないであろう、とデイリー・テレグラフは記事に書いていた。それには立派な根拠があった。犯罪が起こった日に、立派な服を着て、上品かつ裕福といった空気を漂わせた紳士があちこちの支払い部屋―つまり犯罪がおこなわれた場所―で目撃されていたのだ。その紳士の人相書きは簡単に手にはいり、探偵たちに配られた。事態を楽観的に見る人々(ラルフもそのひとりである)は、泥棒は捕まることまちがいなしと信じていた。新聞紙上でも他の場所でも、ロンドン中至る所で事件のことに関心が集中し、だれもかれもが犯人が捕まるかどうかを論じていた。リフォーム・クラブのメンバーも熱心に論じていた。なにしろ、メンバーの中には銀行の役員もいるのだから、当然といえるだろう。  ラルフは、探偵の仕事が無駄に終わるとは信じてなかった。なぜなら彼は、報酬が探偵たちの熱意と行動力を大いに刺激すると考えていたからである。しかし、スチュアートはそのことに関して疑問を持っていた。そして、メンバーたちがホイストをするテーブルに陣取った後も、そのことを議論していたのである。ゲームはスチュアートとフラナガンが組になり、フィリアス・フォッグはフォレンティンとパートナーになる、という組み合わせになった。ゲームの進行とともに会話は収束していった。しかし、ゲームが終了すると、メンバーは再び泥棒に関して話し出した。  「ぼくは思うに。」とスチュアートが切り出した。「チャンスは賊にほほえむだろうよ。奴はまちがいなく利口なはずだからね。」  「なるほど、しかしどこに逃げられるというんだ。」とラルフは応じた。  「あいつに安全な国などないよ。」  「フン!」  「なら、どこに逃げ場所があるんだい。」  「いやあ、ぼくには分からないがね、世界は広いからね。」  「昔は広かった。」フィリアス・フォッグが低いトーンでいった。そして、「切りたまえ。」といってトーマス・フラナガンにカードを手渡した。  勝負の間議論は中断したが、決着がついた後にスチュアートがフォッグの言葉を問いただした。「『昔は広かった』とはどういう意味だい? 世界は小さくなってしまったのか?」  「もちろんだ。」これにはラルフが答えた。「ぼくはフォッグ君の言葉は正しいと思うよ。世界は小さくなった。人類は今では百年前より十倍も速いスピードで移動できるんだからね。そのおかげで、あいつを捜すのは簡単になるだろう。」  「それは賊が簡単に逃げられるということなんだよ。」  「ゲームに集中しよう、スチュアート君。」フィリアス・フォッグはいった。  しかし、疑り深いスチュアートは信じなかった。彼は勝負が終わるとすぐに話し出した。  「おかしなことを言うね、ラルフ。世界が小さくなったことを証明できるのかい。今では三か月で世界一周できるという―。」  「八十日でいけるさ。」フィリアス・フォッグはスチュアートの発言をさえぎった。  「確かにそうさ。」ジョン・サリヴァンがつけ加えた。「八十日もあればいけるさ。大インド半島鉄道において、ロタール〜アラハバート間の路線が開通している今ならね。ここにデイリー・テレグラフ紙による計算がある。」  ジョン・サリヴァンは読み上げた。    ロンドンから、モン・スニ峠とブリンジシを経由してスエズまで 鉄道・汽船 七日  スエズからボンペイまで 汽船 十三日  ボンペイからカルカッタまで 鉄道 三日  カルカッタからホンコンまで 汽船 十三日  ホンコンからヨコハマ(ニッポン)まで 汽船 六日  ヨコハマからサンフランシスコまで 汽船 二十二日  サンフランシスコからニューヨークまで 鉄道 七日  ニューヨークからロンドンまで 汽船・鉄道 九日  合計:八十日    「うん、確かに八十日だ。」スチュアートは強く抗議した。彼は興奮のあまり、間違って勝負をした。「だけど、その計算には悪天候や向かい風や、難破や鉄道事故なんかは入ってないだろう。」  「すべて含むさ。」フィリアス・フォッグは答えた。彼は議論しながらホイストを続けるという離れ業をやっていた。  「しかし、ヒンドゥー教徒やインディアンが鉄道を止めたらどうなんだい。」スチュアートが返した。「そいつらが電車を止めて、荷物を奪ったり、来客の頭を剥いだりしたらダメだろう。」  「すべて含むさ。」フィリアス・フォッグは静かに言い返した。そして、「切り札二枚。」と言ってカードを捨てた。スチュアートはカードを集め、配れる状態にして、話しつづけた。  「君は論理的には正しいのだろうよ、フォッグ君。しかし実際には―。」  「実際にも可能だよ、スチュアート君。」  「君が八十日で世界一周するのを見てみたいものだ。」  「それは君しだいだ。一緒にいくかね?」  「とんでもない! ぼくなら四千ポンドを、そんな条件での旅行が不可能だという方に賭けるね。」  「全く可能だよ。君と違ってね。」フォッグ氏が返した。  「それじゃあ、やってみてくれ。」  「八十日間で世界を回ってくるんだね?」  「そうだ。」  「では、行ってくるよ。」  「いつのことだ?」  「すぐにだ。費用は君持ちでやるということにしたいが。」  「そんな馬鹿な!」スチュアートは叫んだ。彼は友人の頑固さに少々困りだしていた。「ゲームを続けようじゃないか。」  「それなら、もう一度配りなおしてくれ。」フィリアス・フォッグは言った。「間違って配っているよ。」  スチュアートは、思いつめたようにカードを取り上げた。それから急に、カードを机に置いた。そしてこう宣言した。「よかろう。君の言うとおりにしよう。ぼくは四千ポンドを賭けるよ。」  「落ち着くんだ、スチュアート君。」あわててフォレンティンが注意した。「単なる冗談だよ。」  「ぼくが賭を口にするとき。」スチュアートは答えた。「それは本気なんだ。」  「いいだろう。」フォッグ氏が返した。そして他の人たちに向けてこう話した。「ぼくは二万ポンドの預金をベアリング商会に持っている。喜んでそれを賭けよう。」  「二万ポンド!」サリヴァンが叫んだ。  「二万ポンド? たったひとつの事故で遅れたら、なくなってしまうんだよ。」  「そんな事態はないよ。」フィリアス・フォッグは静かに続けた。  「しかしねえ、フォッグ君。八十日というのは君が世界一周をするのに利用できる最小時間なんだよ。」  「世界一周をするにはそれで十分だよ。」  「しかし、それを超えないためには、君は船から汽船へ、再び船へと、それこそ正確に飛び移らなきゃならんのだよ。」  「飛ぶよ、正確に。」  「君は冗談を言ってるんだ。」  「真の英国人は冗談を言わないものだよ、賭のように重大なことを話しているときにはね。」フィリアス・フォッグは、まじめな顔をして答えた。  「ぼくは二万ポンド賭けるよ。君たちの予測に反して、八十日以下で世界一周をする方にね。つまり、千九百二十時間、十一万五千二百分で。君たち、受けるのかね?」  「受けよう。」そこにいたみんなが答えた。つまり、スチュアート、フォレンティン、サリヴァン、フラナガンである。もちろん、お互いに話をした後のことだ。  「よし。」フォッグ氏は言った。「電車は九時十五分前にドーバーに向けて発車する。ぼくはそれに乗るよ。」  「今夜乗るのか?」スチュアートが尋ねた。  「今夜乗るよ。」フィリアス・フォッグが答えた。そして、ポケット年鑑を取り上げて、ページを見ながらこうつけ加えた。  「今日は十月二日、水曜日だ。十二月二十一日土曜日、午後八時四十五分に、ロンドンのリフォーム・クラブのこの部屋に帰ってくることにする。その時刻にぼくがここにいなかったら、ベアリング商会にぼくの名義で預けてある二万ポンドは君たちのものだ。実際的にも法律的にもだ。ここに総額を書いてある小切手がある。」  賭の覚書が、さっそく六人の当事者によって作成された。署名する間もフィリアス・フォッグは冷静沈着な態度を崩さなかった。その態度から見て、明らかに勝つための賭けをしていなかった。ただ賭けをするために二万ポンドを賭けたのだ。なにしろ、二万ポンドというのは彼にとっては財産の半分に相当するのだ。しかも彼は、この「難しいけれども実行不可能とはいえない計画」を実行するためには、残り半分の財産を使わなければいけないだろうと考えていた。一方、賭の相手となった人々は非常にいらいらしているように見えた。彼らの賭けた額はそれほど多くなかったので、親友にとって不利になるような条件で賭をすることに良心の呵責を感じていたのだ。  時計の針が七時を指した。誰かがゲームをここで終わりにしようと提案した。きっと、フォッグ氏が出発する準備をする必要があるだろうと考えたのだろう。  「ぼくの準備はすでにできている。」その提案に対し、フィリアス・フォッグは静かにこう告げたのだ。  「ダイヤが切り札だ。楽しく遊ぼうよ、君たち。」 ..第四章:フィリアス・フォッグがパスパルトゥーを仰天させること  フィリアス・フォッグは、ホイストで二十ギニー勝って、友人と別れた。クラブを後にしたのは七時二十五分であった。パスパルトゥー――彼は自分の職務予定を忠実に覚えようとしていた――は、主人が自ら行動予定をやぶって、普通でない時間に現れたことに非常に驚いた。なにしろ、渡された予定表では夜十二時ぴったりにならなければサヴィル街の屋敷に帰ってこないはずだったのだ。  フォッグ氏は自分の寝室へ行き、従者を呼んだ。「パスパルトゥー。」  パスパルトゥーは答えなかった。主人が自分を呼ぶなんてことは時間的にありえなかったからだ。  「パスパルトゥー!」  声を高めずに彼は繰りかえした。  パスパルトゥーは主人の部屋に姿を見せた。  「二度、呼んだよ。」主人は従者にいった。  「しかし、真夜中ではありませんが。」従者は答え、主人に時計を見せた。  「知ってる。君をとがめはしない。ぼくたちは十分後にドーバー、カレーに出発する。」  パスパルトゥーの丸い顔に困惑の表情が広がった。主人の言葉の意味が理解できなかったのだ。  「ご主人様、でかけられるのですか?」  「そうだよ。」フィリアス・フォッグは答えた。「ぼくたちは世界一周旅行に出発する。」  パスパルトゥーは目を見開いた。眉をつり上げ、腕を広げた。その表情には虚脱感がありありと見えた。驚きのあまり、彼は卒倒しそうになった。  「世界一周!」彼は思わずひとりごちた。  「八十日でやるんだ。」フォッグ氏はそう告げた。「だから一刻も無駄にできない。」  「しかし、トランクは?」パスパルトゥーはあえぎながら言った。無意識に頭を左右に振っていた。  「トランクは持たない。旅行鞄で十分だ。下着を二枚、靴下を三枚、それだけあれば十分だ。君も同じだけあればいい。途中で服を買う予定だからね。レインコートと旅行用の外套を下ろしてきてくれ。あと、頑丈な靴も頼む。ほとんど歩きはしないだろうが、一応はいていこう。急いで頼むよ。」  パスパルトゥーは何か言おうとしたけれども、何も言えなかった。彼は外へ出て、自分の部屋にのぼり、椅子にたおれこんで、こうつぶやいた。「世界一周とは上出来だ。ただ、俺は静かに暮らしたかったんだ。」  彼は機械的に出発の準備にとりかかった。八十日で世界一周! あの人は気が狂ったのか? それはない。なら、これは冗談なのか? 自分たちはドーバーに行く。それはいい! カレーに行く。それもいい。結局、パスパルトゥーは五年もフランスから離れていたから、再び自分の国に足を踏み入れるのは悪いことではなかった。たぶん、パリまでは行くだろうし、もう一度パリの景色を目にするのはいいことだ。しかし、まちがいなくあの出不精なご主人はそこにとどまるだろう。そうに違いない。しかし、あの、家に引きこもりがちなご主人が、旅行をしたくなったというのもまた真実なのだ。  八時までに、パスパルトゥーは適当な鞄に主人と自分の持ち物を詰めこんだ。そして、まだ心にわだかまりを持ってはいたが、慎重に部屋のドアを閉め、フォッグ氏のところへ降りていった。  フォッグ氏はすでに準備ができていた。彼は、ブラットショウが発行した、大陸での蒸気機関車やその他一般的交通機関のガイドの、赤い装丁をほどこした抄本を見ていた。そのガイドには、汽船と鉄道の到着時刻と発車時刻のタイムテーブルが書いてあるのだ。彼は旅行鞄を受け取り、それを開いて、中に相当な量の札束(もちろんイングランド銀行券である)をつめていった。旅の途中で必要になったら、いつでもそれを渡そうというのだ。  「何も忘れなかったね?」フォッグ氏は従者に聞いた。  「何もございません、ご主人様。」  「ぼくのレインコートと外套は?」  「ここにございます。」  「よし! 鞄を持ってくれ。」フォッグ氏はパスパルトゥーに鞄を手渡した。  「慎重に取り扱うんだよ。その中には二万ポンド入っているからね。」  パスパルトゥーは危うく鞄を落としかけた。そのさまはまるで、二万ポンドが金塊で、彼を押しつぶそうとしていたかに見えた。  主人と従者は下に降りてきて、ドアに二重に鍵をかけた。そしてサヴィル街の端で辻馬車を拾い、チャリングクロスまでのっていった。辻馬車は八時二十分過ぎに駅の前に止まった。パスパルトゥーは席から飛びおり、主人に手を貸した。フォッグ氏が御者に代金を払い、駅に行こうとしたそのとき、貧しい身なりをした女のこじきが、腕に子どもを抱えてフォッグ氏のもとへ近よってきた。女の足は泥まみれだった。裸足だったのだ。ぼろぼろのフードに頭を包み、これまたぼろぼろの衣装を身にまとい、肩にみすぼらしいショールを掛けていた。彼女は悲しげに施しを求めた。  フォッグ氏は、先ほどホイストで勝ちとった二十ギニーを取り出し、手渡しながらこう言った。「ちょうどいい人にあった。あなたに会えてうれしく思いますよ。」  そしてその場を後にした。パスパルトゥーは目に涙を浮かべていた。主人の行動が彼のナイーブな心に触れたのである。  パリ行きのファーストクラス用切符を素早く購入し、フォッグ氏が列車の駅を歩いていると、リフォーム・クラブの五人の友人が駅にいるのが見えた。  「やあ君たち。」フォッグ氏が声をかけた。「見てわかるように、ぼくは出発する。戻ってきたときにパスポートを調べてくれれば、ぼくが君たちに約束した旅行を成し遂げたかどうかを確認できるだろう。」  「ああ、その必要はないよ、フォッグ君。」ラルフが丁重に応じた。「君の言葉を信じるよ。ぼくたちは名誉ある紳士だものね。」  「ロンドンに帰ってくる予定を忘れてないだろうね。」スチュアートが尋ねた。  「千八百七十二年十二月二十一日、午後八時四十五分だ。では諸君、ごきげんよう。」  フィリアス・フォッグとその従者は、八時四十分にファーストクラスに落ち着いた。  5分後、汽笛が鳴りひびき、列車がゆっくりと動きだした。  空は暗かった。細かい雨が降りつづいていた。フィリアス・フォッグは座席に寄りかかり、口を開かなかった。パスパルトゥーはいまだ呆然としていた。ただ無意識に、莫大な金が入った旅行鞄を抱きしめていた。  列車がシドナムを通過してカーブにさしかかったとき、パスパルトゥーが突然絶望的な叫び声をあげた。  「どうした。」フォッグ氏が尋ねた。  「ああ、大変急いでおりましたもので、私…、忘れてしまっていました…。」  「何をだね。」  「私の部屋のガスを止めることをです。」  「よろしい。では―。」フォッグ氏は平然と従者に告げた。「そのガス代は君が払うんだ。」   ..第五章:新しい有価証券がロンドン市場に現れること  フォッグ氏は、自分のロンドン出発がウエストエンドに強烈なセンセーションを巻き起こすだろうと想像していた。彼は正しかった。この賭けに関する話は、まずリフォーム・クラブ内に広まっていき、メンバーに興味深い話題を提供していた。そして、クラブを情報源としてイングランドで発行されているあらゆる新聞で報じられた。この、だれにでも自慢できる「世界旅行」に関して、人々は非常な熱心さでもって話し、論じ、批評した。そのさまはまるで、アラバマ号問題がもう一度起こったかのようであった。  フィリアス・フォッグの側に立つものももちろん存在した。しかし、非常に多くの人が頭を振った、つまりフォッグ氏に反対したのである。ばかばかしく、不可能だ、フォッグ氏に反対するものはこう宣言した。反対派によれば、八十日間で世界を回るなんて、理論上、あるいは紙の上でなら作れるけど、それはいまある手段で世界一周するために必要な最低水準なのである。タイムズ、スタンダード、モーニングポスト、デイリーニュースや、その他二十紙に及ぶ立派な新聞が、フォッグ氏の計画は狂気のさただと断じていた。デイリー・テレグラフ紙は、あいまいな態度ながら、彼を支持していた。一般の人たちは、フォッグ氏が狂人であると考えており、リフォーム・クラブに残った彼の友人たちを「精神異常をきたしたとしか思えない提案に対する賭けを受けいれた」という理由で非難した。  数々の熱狂的・論理的な記事が新聞紙上に発表された。なにしろ、地理学は英国が得意とする分野なのだ。フィリアス・フォッグの冒険に関する記事を、立派な人も卑しい人も、皆がむさぼり読んだ。  最初のうち、向こうみずな人たち(特に女性に多かった)の中にはフォッグ氏の主張を支持するものもいた。その人たちは、イラストレイテッド・ロンドンニュースが、リフォーム・クラブにある写真をコピーしてきたフォッグ氏の肖像画を掲載してから、より積極的に支持するようになった。デイリー・テレグラフの読者たちの中には、こういって挑発するものさえ存在した。「結局さあ、なぜできないんだ? もっとおかしいことが次々に実現したじゃないか。」  さて、十月七日、ある長文の論説が新聞に載った。その記事は王立地理学会の会報に掲載された論文であった。論文の中でその著者は、あらゆる角度からこの問題を取り扱い、フォッグ氏の企てが完全なる愚行であることを示したのだった。  著者はこう言う。すべては旅行者にとって不利であり、人為的にも自然からもあらゆる障害が彼に強いられる。八十日間で世界一周を成功させるためには、交通機関の到着時刻と出発時刻が奇跡的に一致しなければならない。しかしそれはありえないことだ。もちろんヨーロッパでは列車の到着予定時刻を当てにできるかもしれない。それに行程の距離も比較的手頃である。しかし、インドを横切るのに三日、アメリカ合衆国を横切るのに七日というフィリアス・フォッグの計算は、それが正確に行われるという期待のもとに計画できるのであろうか? それに、機械の故障というのがある。列車の脱線・衝突ということもありうる。悪天候や雪による足止めもありうる。私たちが想像できないような障害もあるのではないか? 汽船にも問題がある。冬に汽船で旅行するときには、風や霧によって日程がよく狂ってしまうことを、彼自身分からなかったのか? 最高の状態であっても、二、三日到着が遅れるという事態は珍しいことではない。たとえ一カ所で遅れるだけでも、このようなスケジュールをめちゃくちゃにするのに十分である。フィリアス・フォッグがもし、汽船が出航する時間に遅れた場合、彼は次の便を待つしかないわけだ。たったそれだけのことで、彼の無謀な試みに取り返しのつかない打撃を与えるのだ。  この記事は大変な反響をまきおこした。論文はすべての新聞に転載され、むこうみずな企てを支持する人に深刻な反省をさせたのだった。  誰もが知っているように、英国人は賭けを好む人々の集まりである。ただ、単なるギャンブラーだというよりも、より高い次元で賭けをするのだ。いわば、「賭ける」という行為は英国人の習性なのである。リフォーム・クラブのメンバーだけでなく、一般大衆までもがフィリアス・フォッグの企てに対して賭けを始めた。まるでフィリアス・フォッグが競走馬であるかのごとくに賭けは行われた。証券が発行され、市場で流通するようになった。「フィリアス・フォッグ証券」は平価だったりプレミアムがついたりという取引がなされ、その取引規模はだんだん大きくなっていった。しかし、出発して五日後に、王立地理学会の会報に例の論文が載った後は、需要が落ち込み始めた。「フィリアス・フォッグ証券」も値下がりしだした。そして束で取引されだした。最初は五束、それから十束、二十束、五十束。ついに百束という単位でも買い手がつかなくなってしまった。  今や、フィリアス・フォッグを支持するのは、老アルビマール卿だけとなってしまった。卿は体に麻痺を抱えていたため、一日中椅子に座りっぱなしの生活を送っていた。卿ならば、たとえ十年かけてでも世界一周をなしとげた人には財産を分け与えたであろう。卿はフィリアス・フォッグが計画を達成する方に五千ポンドを賭けた。冒険は無益であり、馬鹿げているという忠告を卿に告げるものがいると、卿は満足げにこう答えるのだった。「もし計画が実行できるのならば、はじめに実行するのは英国人であるべきだよ。」  さて、フィリアス・フォッグに賭ける人はますます減りつづけた。ほとんどみんなが計画は失敗すると見ていた。賭けの比率は一:一万五千二百となっていた。そして、フィリアス・フォッグが出発して一週間後、とある出来事が起こり、そのために彼の支持者は全くいなくなってしまったのだ。  警視総監がオフィスで席に着いていると、夜9時になって、以下に示す速達電信が、スエズからロンドンの総監宛に届けられたのだ。  スコットランドヤード  ロウアンケイシソウカンドノ    ワレギンコウゴウトウフィリアスフォッグハッケンセリ  シキュウタイホジョウヲボンペイニオクラレタシ    フィックス    この電信の効果はてきめんだった。上品な紳士は消え、銀行強盗が現れた。リフォーム・クラブに他のメンバーとともに掲げられていたフォッグ氏の写真が詳細に調べられた。その写真は、警察に提供された泥棒の人相書きと一致していた。フィリアス・フォッグのミステリアスな習性が思いだされた。フォッグ氏は孤独であり、しかも突然出発していった。今やフォッグ氏の目的が明らかになったように思われた。つまり、賭けという名目で世界一周に着手したのは、探偵たちから逃れるためであり、それ以外になんの目的もないのであるから、みずからが明らかにした進路からフォッグ氏が外れていくのはまちがいないように見えたのである。 ..第六章:フィックス探偵が全く自然な苛立ちを表すこと  前にあげたような速達電信が送られた理由は次のとおりである。  十月九日水曜日午前十一時、半島・極東株式会社に所属しているモンゴリア号(鉄製・二千八百トン積み、五百馬力)が、スエズに入港する予定だった。モンゴリア号は、ブリンシジからスエズ運河を経てボンペイに至る航路を規則正しく往復しており、会社が所有する船の中で最も船足が速かったので、ブリンシジ〜スエズ間を時速十ノット、スエズ〜ボンペイ間を九.五ノットをそれぞれ超える速度で運行していた。  波止場を二人の人が歩きまわっていた。もちろん他にも現地人や外国人は大勢波止場にいた。ここはかつて集落が散在しているだけの場所だけだったけれども、M.レセップス氏のおかげですざましい勢いで発展していたのだ。  ひとりはスエズに駐在している英国領事であった。スエズ運河は、英国政府やスチーブンソンの悲観的な声に負けずに開通し、英国とインドの距離を、喜望峰経由で迂回するのと比べて半分にしたのである。その偉大なる運河を通って、いろいろな場所へ向かう船を、領事館の窓から眺めているのが領事の習慣であった。もうひとりは背が低く、知的ではあるが神経質な感じを漂わせていた。眼光は鋭く、眉を絶え間なくピクピク動かしていた。明らかにいらだっていた。神経質にあちこち動きまわり、少しも静止することはなかった。この男はフィックスといい、例の銀行強盗を捜し出すために英国から急きょ派遣された探偵の一員であった。フィックスは、スエズに到着する乗客を丹念に見ていくよう命じられていた。そして、疑わしかったり、犯人の特徴と一致している人物がその中にいたら、尾行するように、という職務命令を受けていた。彼は以上の命令を二日前にロンドンの警察本部で受けたのだった。  フィックスは、莫大な成功報酬を得られるという確信を持って、モンゴリア号を(苛立ちをみせなから)待っていた。  「領事殿、確かなんですね。」フィックスはもう二回も同じことを繰り返していた。「モンゴリア号は決して延着しないんですね。」  「遅れませんよ、フィックスさん。」領事は言い返した。「船は昨日ポートサイドから通信してきました。残りの距離は、あの船にとってものの数ではないですよ。先ほどから何度も言っているとおり、モンゴリア号は会社が決めた時間よりもいつも早く到着しているんです。それで賞をもらっているんですよ。」  「船はブリンシジから直接ここへ来るんでしたね。」  「直接来ます。ブリンシジでインドへの手紙を積み込んで、土曜日の午後五時に出発したんです。我慢ですよ、フィックスさん。船は遅れませんよ。しかしですね、私はあなたが持っている人相書きから、そのような男を見つけられるとは思いませんよ、彼がモンゴリア号に乗っていたとしてですが。」  「領事殿、そのような男の存在は、見るというよりも感じとるのです。においをかぎ取らなくてはなりません。聞く・見るといった感覚を司《つかさど》る、第六感でつかむのです。私は今まで、紳士づらした奴らを何人も逮捕してきました。もしも泥棒が船に乗っていたら、答えはおのずとでてきます。彼は私の手に捕まるのです。」  「そう願っていますよ、フィックスさん。なにしろ賊は大量に盗んでいったんですから。」  「大した賊ですぞ、領事殿。五万五千ポンド! こんな賊にはめったに出会えないですぞ。近ごろの賊はみみっちくなったものだ! ほんのわずかな金で絞首刑となってるんですからな。」  「フィックスさん。」領事が言葉をはさんだ。「あなたのおっしゃることには共感できますし、あなたが成功することを望んでおります。しかし、私には簡単にことが運ぶとは思えませんね。あなたが持っている人相書きを見ると、いかにも善良な人間と私には思えるのですが。」  「領事殿。」探偵は断言した。「偉大なる泥棒は善良に見えるものなのです。卑しい顔を持つ奴にはひとつしか道はありません。正直なところを見せるしかないのです。さもなければすぐに捕まってしまうのです。正直さを装う賊の仮面をはぐのは、いわゆる芸術なのです。それが簡単な仕事でないことは私も認めます。しかし、それは真のアートなのです。」  フィックス氏は明らかに自信過剰気味であった。  波止場が少しずつ活気づいてきた。様々な国籍を持つ船員、商人、船のあっせん屋、ボーイ、農夫たちが、汽船がすぐ着くだろうということで、あちこち駆けまわっていた。天候は良かった。ただ肌寒くはあった。街の高等が、太陽のぼんやりとした光のもとで、家の上にぼうっと見えていた。二千ヤードほどの長さの防波堤が、停泊地にのびていた。小型漁船や海岸をいく船の数(何隻かは古代ガレー船の様式を残していた)を、紅海の上で数えることができるような雰囲気であった。  フィックスは、忙しく立ち回っている群衆の間を歩きまわった。その間にも熱心に通行人を調べ、怪しいやつがいないかと、ひとりひとり見ていった。  港にある時計の鐘が十時半を告げた。  「船が来ない!」フィックスが叫んだ。  「すぐ近くに来てますよ。」領事がフィックスに言った。  「スエズにはどれくらい寄港するのですか?」  「四時間です。石炭を補給するためです。スエズから紅海の終わりにあるアデンまでは千三百十マイルありますから、新たに石炭を追加しないといけないのです。」  「スエズから直接ボンペイに来るんですね?」  「どこにも寄りません。」  「よろしい!」フィックスは言った。「やつが乗っているならば、まちがいなくスエズで降ります。それから、別の道を使ってオランダかフランスの植民地に向かうでしょう。やつはインドに安息の地はないものと心得ているはずです。インドは英国の植民地ですからね。」  「思うに、やつは素晴らしく頭がいいのでしょう。」領事はフィックスに異を唱えた。「英国で罪を犯したものは、他のどこよりもロンドンに潜むのを常とするのは、あなたもご存じのはずですが。」  この意見に探偵は考えこんだ。一方、領事は自分のオフィスへ去っていった。フィックスはひとりになり、ますます落ち着かなくなった。泥棒はモンゴリア号に乗っている、という考えにとりつかれていたのだ。もし泥棒がロンドンから新大陸へ逃げこむつもりならば、きっとインドを経由する道を選ぶだろう。この道はほとんど見張られていないのだから、大西洋を渡るより簡単に逃げられるのだ。  フィックスがこのような考えにふけっているとき、汽笛が鳴り響き、我に返った。モンゴリア号が到着するのだ。かつぎ人夫や農夫たちが波止場に殺到し、一ダースほどの船が岸壁からモンゴリア号に向かっていった。まもなく、巨大な船影が防波堤の間を通過してきた。船が港に停泊したとき、十一時を告げる鐘が鳴った。船にはたいへん多くの乗客が乗っており、いく人かは、この街がみせる絵のような風景を味わおうと甲板に残っていた。他の乗客はボートで上陸し、波止場にやってきた。フィックスは配置につき、慎重に、上陸してきた乗客の顔や表情を観察してきた。ほどなくして、一人の男が、まとわりつく人夫たちを押しのけて、フィックスのいる場所にやってきた。その乗客はフィックスに、英国の領事館はどこにあるのでしょうかと尋ねてきた。同時に、査証してもらうために持ってきたパスポートをフィックスにみせた。フィックスは本能的に、パスポートをうけとって、その記述をすばやく読んだ。彼は驚きの表情を無意識に押さえ込んでいた。パスポートの記述が、スコットランドヤードから配られた銀行強盗の人相書きと、すべて一致していたのである。  「これはあなたのパスポートなのですか?」彼はパスポートを持ってきた人に聞いた。  「いいえ、私の主人のものです。」  「では、ご主人は―。」  「船に残っています。」  「ご主人が自ら領事館に出頭しなければなりません。パスポートが本人のものであることを証明する必要があるのです。」  「それは必要なことでしょうか。」  「絶対必要です。」  「それで、領事館はどこにあるのでしょうか?」  「あそこです、あの広場の角にあります。」フィックスは、二百歩離れた先の建物を指し示した。  「船へ戻って、ご主人様を連れてまいりましょう。しかし、あの方はさぞおっくうがることでしょう。」  乗客はフィックスにおじぎをして、船に戻っていった。 ..第七章:探偵を助けるためにはパスポートは役に立たないことを何度となく見せること  探偵は波止場を通り抜け、領事のオフィスに急いだ。すぐに彼は領事に面会を求め、そして許可された。  「領事殿。」探偵はいきなり要点を切り出した。「あの強盗はモンゴリア号の乗客の中にいます。確かな証拠があります。」そして、今さっきパスポートを見せた乗客のことを領事に話した。  「よかったですね。フィックスさん。」領事は答えた。「私も、そいつの顔を見たいとは思います。しかし、たぶんそいつはここには来ないでしょうな。つまり、その男が、あなたが言うような男だとしましょう。泥棒は、自分の足跡は残したがらないものです。それに、パスポートの査証を受ける義務はありませんからな。」  「領事殿、もし私が考えるようなしたたか者なら、必ずここに来ます。」  「査証を受けるためにですか?」  「その通りです。パスポートは、正直者にはじれったいものにすぎませんが、悪党には逃げる助けとなるのです。そいつが出すパスポートは正規のものでしょう。しかし、どうかパスポートを査証しないでいただきたい。」  「なぜ査証してはいけないのですか? パスポートが正規のものなら、私は査証しなければならんのですよ。」  「しかし、私はその男を、ロンドンからやつに対する逮捕状が来るまでここに引きとめておかねばならんのです。」  「ああ、それはあなたの仕事です。しかし私にはできま―。」  領事はその言葉を途中で止めた。ドアをノックする音が聞こえたのだ。そして二人の男がオフィスに入ってきた。そのひとりは、フィックスが波止場であった従者であった。もう1人は、その主人であった。彼は、パスポートを領事に差し出し、査証していただきたいと願い出た。領事はパスポートを受け取り、慎重にそれを読んだ。その間フィックスは、その人を観察していた。部屋の一角から見つめていたのだ。  「あなたはフィリアス・フォッグさんですね。」パスポートを読んだ後、領事が言った。  「そうです。」  「それでこの人は、あなたの従者ですね。」  「そうです。フランス人で、パスパルトゥーといいます。」  「あなたはロンドンから来たんですね。」  「はい。」  「これからどちらへ行かれるのですか。」  「ボンベイに。」  「分かりました。あなたは、査証は必要なく、パスポートを提出する必要はないということはご存知でしょうか?」  「知っております。」フィリアス・フォッグは答えた。「しかし、私はあなたの査証によって、私がスエズに寄ったことを証明したいのです。」  「分かりました。」  領事はパスポートに署名し、日付を入れた。そしてそこに、彼が公式に使用している印章を加えた。フォッグ氏は手数料を支払い、静かにおじぎをして、出ていった。従者が後に続いた。  「どうです?」  「そうですね。彼は全く正直な人のように見えましたね。」領事は答えた。  「そうでしょう。しかし、それは問題になりません。考えてみてください、領事。あの落ち着き払った紳士は、銀行強盗の人相書きと全くそっくりでしょう?」  「それは認めましょう、しかし、あなたは知っているでしょうが、人相書きというものは―。」  「それはこれからはっきりさせます。」フィックスはさえぎった。「従者は主人よりは怪しくありませんし、フランス人ですから、話をせずにはいられないでしょう。では、失礼します、領事殿。」  フィックスはパスパルトゥーを捜しに行った。  さてフォッグ氏は、領事館を出て波止場へ行き、パスパルトゥーに命令を与えて、ボートでモンゴリア号に帰り、客室へおりていった。フォッグ氏はノートを手にした。そこには以下のような覚え書きが書いてあった。 ロンドン発 十月二日水曜日 午後八時四十五分 パリ到着 十月三日木曜日 午前七時二十分 パリ発 木曜日 午前八時四十分 モン・スニ峠を経てトリノ着 十月四日金曜日 午前六時三十五分 トリノ発 金曜日 午前七時二十分 ブリンシジ着 十月五日土曜日 午後四時0分 モンゴリア号乗船 土曜日 午後五時0分 スエズ到着 十月九日水曜日 午前十一時0分 総所要時間 百五十八時間半 すなわち六日半  以上の日程が、表となった日程一覧に記入されていた。その日程表は、十月二日から十二月二十一日までの月日や曜日が記してあり、今回の旅行で通る場所(パリ・ブリンシジ・スエズ・ボンベイ・カルカッタ・シンガポール・ホンコン・ヨコハマ・サンフランシスコ・ニューヨーク・そしてロンドン)への到着予定を示していた。そして、余白に各場所へ到着した時間を書き込むことで、時間の損得が明らかになる仕組みになっていた。フォッグ氏はこのように系統的な記録をとっており、それによって、必要なことがすべて分かるようになっていた。フォッグ氏は、自分が予定に先行しているのか、遅れているのかをいつでも知ることができた。今日十月九日、フォッグ氏はスエズ到着の時刻を書き留めた。そして、時間を得も損もしていないことを知った。  フォッグ氏はキャビンで朝食をとろうといすに座った。町を見ることなどまったく考えていなかった。結局彼も、従者の目を通して外国を見ることになれた、英国人の典型ということなのだろう。 ..第八章:パスパルトゥーが賢明な人ならたぶんしゃべらないであろうことを話すこと  フィックスはすぐにパスパルトゥーを捜しあてた。パスパルトゥーはぶらぶらと波止場を見てまわっていた。少なくとも、自分が見物してはだめだというふうには感じていなかった。  「ああ、さっきの方。」探偵は彼のもとへ近づき、声をかけた。「査証はお済みですか?」  「おや、あなたでしたか。」パスパルトゥーは答えた。「おかげ様で、はい、パスポートは問題ありませんでした。」  「では、このあたりを散策しているわけですね。」  「はい。ただ、私たちはとても急いでおりまして、夢の中で旅行しているみたいです。それで、ここはスエズですね?」  「そうです。」  「エジプトですね?」  「そうです、エジプトです。」  「では、アフリカですね?」  「アフリカです。」  「アフリカですか!」パスパルトゥーは繰り返した。「考えてもみてください、あなた。私は、パリより先に来ようとは考えもしませんでした。私がパリを見たのは、朝の七時二十分から八時四十分の間だけなのです。北停車場からリヨン停車場の間、辻馬車のガラス越しに、雨が降る中のパリを見ただけなのです。ペール・ラ・シューズとか、シャンゼリゼーのサーカスをもう一度見たかったなあ!」  「では、あなたはとても急いでいるのですね?」  「私ではなく、主人が急いでいるのです。ところで、私は靴とシャツを買わなければいけないのです。私たちはトランクを持たずに、旅行鞄だけでここに来たんですよ。」  「あなたの欲しいものを売っている、いい店を教えてあげましょう。」  「ご親切に、ありがとうございます。」  二人は一緒に店に向かった。その間も、パスパルトゥーはぺらぺらと話していた。  「とりわけ、」彼は言った。「汽船に乗り遅れないようにしないと。」  「まだ時間はありますよ。今は十二時ですから。」  パスパルトゥーは、自慢の時計を取り出した。「十二時!」彼は叫んだ。「違います、今は九時五十二分ですよ。」  「あなたの時計は遅れてます。」  「私のが? あなた、この時計は私の曾祖父の代から受け継がれてきたんですよ! 年に五分と違わないのです。完璧な精密機械ですよ、あなた。」  「ああ、分かりました。」フィックスは言った。「これはロンドン時間のままですね。それではスエズではだいたい二時間遅れですよ。行く先々の正午に、あなたの時計をあわせなきゃいけません。」  「時計をあわせる? そんなことしませんよ!」  「そうすると、それは太陽と狂ってきますよ。」  「それは太陽が悪いんですよ、あなた。太陽の方が間違っているんです!」  そういって、根が善良なこの男は、反抗的な態度を見せて、時計をしまった。  少しの間をおいて、フィックスはまた話しかけた。  「そうすると、あなたは急いでロンドンを出たんですね。」  「まあ、そう言えるでしょうね! 先週の金曜日の夜八時にフォッグさんがクラブから帰ってきて、四十五分後には出発していたんですから。」  「では、ご主人はどこへ向かわれているのですか?」  「先へ先へ。あの人は世界一周をしているのです。」  「世界一周?」フィックスは叫んだ。  「そうです、しかも八十日間で! あの人は、それができるかどうか賭けたんだと言っています。しかし、私にはそんなこと信じられません。普通じゃありえませんよ。なんだか突然すぎます。」  「ほう! フォッグさんは変わり者なんですねえ。」  「そういうことになりますね。」  「ご主人はお金持ちですか?」  「間違いないですね。とてつもない額の金を、真新しい札束で運んでいますよ。それに、道中お金を惜しまないのです。あの人は、モンゴリア号の機関士に高額の報酬を申し出たんです。もし到着予定よりも早くボンペイに着いたら渡すつもりなんです。」  「それで、あなたはご主人を長いこと知ってるんですか?」  「ああ、違います。出発のその日に雇われたんです。」  この問答が、すでに疑いと興奮に包まれていた探偵にどう作用したかは簡単に想像できるだろう。銀行強盗が起こった後、急にロンドンから出発したこと。フォッグ氏が巨額のお金を持ち歩いていること。遠い国に行きたがっていること。風変わりで無謀な賭けを口実にしていること。いちいちフィックスの理論にぴったりなのである。  フィックスは、かわいそうなパスパルトゥーに質問を続け、彼が本当に主人を知らないこと、その主人はひとりでロンドンに住んでいること、お金持ちであると言われていること、しかし、その金がどこから来たのか誰も知らないこと、主人の仕事や生活があまりに奇妙で理解できないものであることを知った。フィックスは、フィリアス・フォッグはスエズに上陸せず、本当にボンベイに行くつもりだという確信を感じた。  「ボンベイはここから遠いのですか?」パスパルトゥーは尋ねた。  「かなり遠いですよ。ここから十日間航海するんです。」  「それで、ボンベイはどこの国にあるんでしょうか?」  「インドです。」  「アジアですね?」  「そうです。」  「なんてこった! ああ、実をいうと、ひとつ困ったことがあるんですよ―バーナーなんです!」  「バーナー?」  「ガスバーナーなんです。出かけるときに消しわすれたんです。今この瞬間も燃えているんですよ、私のお金で。私は計算してみたんです。二十四時間ごとに二シリング失うんです。私の給金よりも六ペンス多いんです。あなたにも分かるでしょう。私たちの旅は長いんです―。」  フィックスは、パスパルトゥーがガスのことを心配するのに注意を払っただろうか? そんなことはありえなかった。フィックスは何も聞いてなかった。これからどうしようか考えていた。パスパルトゥーとフィックスは店に到着した。フィックスは、彼の連れが店で買い物をするにまかせ、汽船に乗り遅れないように注意しておいて、領事館に急いだ。今や彼には、フィリアス・フォッグが銀行強盗だという確信があった。彼は落ち着きを取りもどしていた。  「領事、」彼は言った。「もう間違いありません。あの男を見つけましたよ。やつは、八十日間で世界一周をするなどという、風変わりな人間のふりをしているんです。」  「だとすると、頭のいい男なんですね。」領事は答えた。「つまり、両大陸の警察の目をくらませて、またロンドンに帰ってこようというのですね。」  「そういうことでしょう。」フィックスは言った。  「しかし、間違いないのですね?」  「間違いないですよ。」  「では、なぜその強盗は、スエズを通過したことを証明する査証を欲しがっていたんでしょうか?」  「なぜかは説明できません。しかし、ぜひ聞いていただきたいのです。」  そしてフィックスは、パスパルトゥーと交わした会話の要点を領事に話した。  「つまり、」領事は言った。「それは疑われて当然ということでしょうね。それで、あなたはどうするつもりなのですか?」  「ただちにボンベイへ逮捕状を送ってもらうよう、ロンドンに電報を打ちます。私は、インドに向かう強盗の後をつけて、モンゴリア号に乗っていきますよ。インドはイギリスの植民地ですから、いんぎんな態度でやつを逮捕してやりますよ。令状を見せながら、やつの肩に手をのせてやるんです。」  冷静かつひややかな雰囲気でもって、フィックスは言い残した。  探偵は領事館を出て電信局に行き、ロンドン警察に向けて速達電信を打った。その内容はすでに我々が見たとおりである。その十五分後、フィックスは、手に小さいバッグを持って、モンゴリア号へ乗り込んだ。それからまもなく、かの立派な汽船は、空いっぱいの蒸気をあげて、紅海へ出航していった。 ..第九章:紅海とインド洋がフィリアス・フォッグの計画にとって都合がよかったこと  スエズとアデンの間の距離は正確には千三百十マイルである。会社の規定では、汽船は百三十八時間でその間を航海することになっていた。モンゴリア号は、機関士がめざましい働きをしているおかげで、規定時間を大幅に短縮する速度で航行しているように感じられた。ブリンジシから乗っていたお客の多くはインドを目指していた。ボンベイへ向かう者もいたし、そこを経由してカルカッタに向かう者もいた。この道は今ではカルカッタへ行くための最短経路となっていた。陸路鉄道で大インド半島を横切ればいいのだ。  乗客の中には、様々な身分の役人や軍人もたくさん混じっていた。英国軍隊に所属するものもいれば、インド人兵の部隊を指揮する者もいた。彼らは、英国政府が東インド会社からその権力を引き継いでからは、高い給料を受け取るようになっていたのだ。  軍人たちと一緒に、イギリスの若者たちも、多くの金を持って旅行していたし、事務長《パーサー》の懸命な努力もあって、モンゴリア号での時間はまたたくまに過ぎていった。乗客が払った料金は、その多くが朝昼晩の食事や八時に出てくる夜食のために使われていた。日に二回服装を変えることにしている女性もいた。時間はめまぐるしく過ぎていった。海がないだ日には音楽会や舞踏会が開かれ、あちこちでゲームをする人がいるのだった。  しかし、紅海は気まぐれな海で、よく荒れ狂った。細長い海だから当然といえる。アフリカやアジアから吹いてくる風で、船体が長いモンゴリア号はひどい横揺れにみまわれていた。そういったときには、女性たちはすぐに下へ引きこもった。ピアノは沈黙していた。歌やダンスが突然取りやめられた。それでも、この素晴らしい船は風や波で速度を落とすことなく、バブ・エル・マンデブ海峡目指して突進していった。  普段から表情を顔に出さないあのリフォーム・クラブ員は、どんな出来事にも驚くことなく、船のクロノメーターみたいに同じことを繰り返していた。デッキに上がろうかと思うことさえせず、紅海という記憶に留めておくべき場所を、冷めた無関心といった態度で通りすぎた。彼は、由緒ある町や村が、水平線上にくっきりと、その美しい姿を映しだしているのも見ようとはしなかった。危険なアラビア湾も恐れていないように見えた。昔の歴史家はいつも、その湾がいかに恐ろしいかを書き記していたし、船乗りはそこを通るときにはいつも生け贄を神に捧げてきたという、とても危険な場所なのに、フォッグ氏はまったく恐れていなかったのだ。では、かの風変わりな紳士はどうやってモンゴリア号で時間をつぶしていたのだろうか?  フォッグ氏は毎日四回、汽船が絶え間なく縦揺れや横揺れを起こす中で、元気に食事をしていた。そして、飽きもせずにホイストで遊んでいた。そう、自分と同じくらいホイストにのめり込んだ遊び仲間を見つけたのだ。ゴアにある自分の職場へ行く途中の収税吏、ボンベイにある自分の教区に帰るデジムス・スミス師、それから、ベナレスにいる部隊へ戻る英国陸軍の准将である。彼らとフォッグ氏は、何時間も無言でホイストをしていた。  パスパルトゥーはというと、彼もまた船酔いから逃れていた。船首の一角を占め、きちんと食事をとっていた。いい食事といい部屋のおかげで、むしろ航海を楽しんでいた。そして、自分たちが通った場所に大いに関心を寄せていた。主人の気まぐれもボンベイで終わるだろうというはかない見通しでもって、自らを慰めていた。  スエズを出発した翌日、パスパルトゥーは甲板であの親切な人を見かけてとても喜んだ。そう、波止場を歩いていて、パスパルトゥーと話していたフィックスのことである。  パスパルトゥーは、この上なく気立てのいい笑顔でフィックスに話しかけた。「もしかして、あなたはスエズで領事館を教えていただいたお方でしょうか。」  「おお、全くそのとおりですよ。あなた、あの風変わりなイギリス人の従者でしたね。」  「それで、ムッシュー……。」  「フィックスです。」  「ムッシュー・フィックス。」パスパルトゥーは話しだした。「船であなたとお会いできて、とてもうれしいですよ。どちらへ行かれるのですか。」  「あなたと同じ、ボンベイですよ。」  「それは素晴らしい! ここを旅行したことはありますか?」  「何度かありますよ。私はペニンシュラ・カンパニーの社員なんです。」  「では、インドはご存じで?」  「あぁー、はい。」フィックスは慎重に答えた。  「インドという場所は、実に魅力的ですね。」  「ええ、とても魅力的です。モスク、ミナレ、テンプル、ファキアー、パゴダ。そして虎、蛇、象! 名所を見る時間があればいいですね。」  「私もそう思いますよ、フィックスさん。あなたは知ってるでしょうが、精神がまともな人は、船から汽車へ、汽車から船へ飛び移るような旅行をすべきじゃないですよ。ましてや、八十日で世界一周するなんて! こんな離れ技も、ボンベイで打ち切るに決まってますよ。」  「では、フォッグさんはお元気なんですね。」フィックスは、ごくごく自然に話しかけた。  「元気ですよ。私もそうです。飢えた怪物みたいに食べてますよ。海の空気はうまいですね。」  「しかし、ご主人は甲板には来ませんね。」  「来ないでしょう。あの人には、好奇心というものが欠けてるんですよ。」  「パスパルトゥーさん、その、八十日で世界一周すると言っているこの旅行には、裏の目的があるんじゃないですか―たとえば、外交関係の使者だったりとか。」  「フィックスさん、誓ってもいいですが、私は何も知らんのですよ。それが分かるとしても、半クラウンも払う気はないです。」  この会話のあと、パスパルトゥーとフィックスは一緒に話すようになった。これは、フィックスが善良なパスパルトゥーの信用を得るためにしたことだ。フィックスは、よくパスパルトゥーに、船のバーでウイスキーや弱いビールを一杯やろうと言いだした。パスパルトゥーはいつも上品かつ積極的にその申し出を受け、心のなかで、フィックスは最高にいい人だと思っていた。  その間も、モンゴリア号は前へ前へと突き進んでいた。十三日目にはモカが見えてきた。この町は、崩れた城壁に囲まれていて、そこにはナツメヤシの木が生えていた。モカの山々は広大なコーヒー畑の向こうに見えていた。パスパルトゥーはこの有名な場所を見てうっとりしていた。そして円形の壁と取り壊された砦を見て、巨大なコーヒーカップと受け皿のようだと考えていた。  次の日、夜になって、バブ・エル・マンデブ海峡を通っていった。この名前は、アラビア語で「涙の橋」という意味である。さらにその翌日、船はアデン港の北西にある石炭補給地点に着いた。汽船に石炭を補給するのは、炭鉱から離れた場所では重大な問題である。ペニンシュラ・カンパニーは、船に石炭を補給するために一年あたり八十万ポンドかけていた。それでこの海域では、石炭は一トンにつき三から四ポンドという値段になるのだった。  モンゴリア号はボンベイまでまだ千六百五十マイル航海しなければならず、また、この場所で石炭を満載するために四時間停泊しなければならなかった。しかしこの遅れは前もって分かっていたから、フォッグ氏の計画には影響はなかった。その上、モンゴリア号は十五日目の朝にアデンに到着する予定だったのに、十四日目の夜に到着したのだから、フォッグ氏は十五時間得をしたことになるのだ。フォッグ氏と従者は、アデンでパスポートを査証してもらうために上陸した。フィックスは気づかれないように後をつけた。査証してもらうと、フォッグ氏は船に帰り、以前のようにホイストを始めた。パスパルトゥーも、その性格どおりにあたりを散策していた。そこにはソマリア人、インド人、パーシー人、ユダヤ人、アラブ人がいたし、もちろんヨーロッパ系の人たちもいた。アデンには彼らのような人たちが二万五千人住んでいるのだ。  パスパルトゥーにとっては、この場所が「インド洋のジブラルタル」とうたわれる理由となった要塞施設や、ソロモン王時代に技術者が建造し、英国の技術者たちによっていまだに維持されている巨大な貯水池は驚嘆に値するものだった。  「全くもってすばらしいな!」パスパルトゥーはひとりごとを言いながら汽船に帰ってきた。「なにか珍しいものを見たいなら、旅も捨てたもんじゃないな。」  午後六時、モンゴリア号は停泊地からゆっくりと動き出した。すぐにインド洋へと向かっていった。汽船は、ボンベイに到着するまでに百六十八時間を費やした。海はないでいたし、北西の風が吹いていた。すべてが順調な航海を後押しした。船はほとんど揺れなかった。夫人たちは新しいドレスに身を包み、再び甲板に姿を現した。音楽会や舞踏会も復活した。航海は快適だった。パスパルトゥーは旅の道連れを得て喜んでいた。フィックスという楽しい人と出会えた幸運に感謝していた。  十月二十日日曜日の正午、乗客たちはインドの海岸を認めた。二時間後、水先案内人が乗り込んできた。水平線上の空に丘が見えるようになり、やがてボンベイをいろどるヤシの林がくっきりと見えてきた。汽船は、湾の中にある島で区切られた道筋を通っていった。そして、四時間半かけてボンベイの波止場へ牽引されていった。  フィリアス・フォッグは、航海中に三十二回ホイスト勝負をしており、今三十三回目の勝負を終わろうとしていた。フォッグ氏とそのパートナーは、大胆な一手でもって切り札を十三枚すべて取ってしまった。この回の勝負は、フォッグ氏たちのみごとな勝利で幕を閉じたのである。  モンゴリア号は、十月二十二日にボンベイへ到着する予定だった。実際は二十日に到着してしまったので、フィリアス・フォッグはロンドンを出発してから二日間得したことになった。フォッグ氏は無言のまま、旅程表の「得した時間」の欄にこのことを書き入れた。 ..第十章:パスパルトゥーが靴を失って非常に喜ぶこと  読者はすでにご存じだろうが、インドという土地は逆三角形の形をしている。北側に底辺があり、南側に頂点がある。その面積は百四十万平方マイルである。人口は一億八千万人を数えるが、その分布は均一ではない。この広大な国のほとんどは英国政府によって統治されている。カルカッタに総督を派遣し、マドラス・ボンベイ・ベンガルには知事が、アグラには副知事が配置についている。  しかし、英領インドとすべき地域は、七十万平方マイルの面積を持つにすぎず、その人口はというと、一億から一億一千万の間にあるにすぎない。インドには、まだまだ英国の統治が及ばない地域が存在しているのだ。インド奥地には、いまだ残忍な君主たちが支配し、独立を保つ地域が残っているのである。  千七百五十六年、英国が現在のマドラス市にあたる場所に最初の足がかりを得たときから、世に名高い東インド会社は、セポイの乱が起こるまではインドを絶対的に支配していた。東インド会社は、現地の族長たちから土地を購入することで、徐々に支配地域を広げていったのだが、その際土地の代金を支払うことはほとんどなかった。そして取得した土地に、総督と、その部下として役人や軍隊を任命してきた。東インド会社は現在は存在していない。インドに残された英国の財産は、直接王冠が支配するところとなっている。そのため、国の様相は、風習や人種上の区分も同様だが、日々変化しているのである。  昔インドでは、旅行する際には、歩き・馬・かご・馬車といった、旧式で扱いにくい方法を使うしかなかった。現在では、速く進む蒸気船が、インダス川やガンジス川で働いているし、多くの支線がある鉄道も整備されている。これによって、インド半島をボンベイからカルカッタまで、三日間で横切ることができるようになった。この鉄道は、インドをまっすぐに走っているわけではない。ボンベイ―カルカッタ間の距離は、鳥が飛んでいくならば、千から千百マイルにすぎない。しかし、鉄道の路線はカーブを描いているため、その距離は三分の一ほど増えている。  大インド半島鉄道の一般的なルートは次のとおりである。ボンベイを出発し、サルセットを通りすぎ、ターナの前面で大陸へ渡る。そして、西ゴート山地をすぎ、北東方向へブルハンプルまで走っていく。さらに、ブンデルカントの半独立地帯のはしを通ってアラハバートまで登る。そこから東に転じ、ベナレスでガンジス川に出会う。またガンジス川を離れて、ブルトワンと、フランス人の町チャンデルナゴールとをすぎて南東へ下り、カルカッタへ着く。  モンゴリア号の乗客は、午後四時半に上陸した。そして、列車は八時ちょうどにカルカッタを出発した。  フィリアス・フォッグは、ホイスト仲間にさよならを言ったあと、汽船を下り、従者にいくつか用事をいいつけ、八時には駅にいるように、と命じておいて、天文時計が秒を刻むように、規則的な歩調で領事館へと歩いていった。ボンベイには魅力的なものが多い。その名をとどろかす市庁舎、立派な図書館、要塞、ドッグ、バザール、モスク、ユダヤ教会堂、アルメニア人の教会、マダバル・ヒルの上に建っている気高い雰囲気のパゴダ(多角形の堂が二つついていた)などである。しかし、フィリアス・フォッグはそれらには全く注意を払わなかった。そして、エレファンタ島にあるみごとな神像や、ドッグの南東に隠されている怪しげな地下埋葬室や、仏教建築の素晴らしい遺跡や、サルセット島にあるカンヘリアの洞窟なども見ようとはしなかった。  領事館で査証をすませて、フィリアス・フォッグは静かに鉄道の駅へと向かった。そしてそこで夕食を注文した。店の主人は、お客に出す料理のなかでは、特に現地産の兎で作ったジブロットがおいしゅうございますとフォッグ氏に言った。  その言葉に従って、フォッグ氏はその料理を注文した。スパイスをきかせたソースがかけてあったのに、口にあうとはとうてい言えなかった。フォッグ氏はベルを鳴らして主人を呼んだ。やってきた主人を見つめ、こう言った。  「これは兎ですか。」  「さようでございます、お客様。」その男はずうずうしくもそう言ったのである。「ジャングルから捕ってきた兎でございますよ。」  「この兎は、死ぬときにニャアと鳴かなかったかね。」  「ニャアなんて、お客様! 兎がニャアなんて! 誓ってそんな―。」  「ならいいんだ、ご主人。誓う必要はない。ただ忘れないでくれよ。猫は昔インドでは神聖な動物とされてきたんだ。実にいい時代だったね。」  「猫にとってですか、お客様?」  「旅行者にとってもさ。」  こう言って、フォッグ氏は夕食を食べ続けた。  一方フィックスは、フォッグ氏が降りたあとすぐに上陸した。そしてすぐさまボンベイ警察本部に向かった。彼は自分がロンドン警察の探偵であることを明らかにし、ボンベイでの仕事と、銀行強盗と思われる人物に対する彼の立場を伝えた。そして、いらいらしながら、逮捕状がロンドンからやってきたかと尋ねた。着いていなかった。インドに到着するまでの時間が過ぎていなかったから、当然である。  フィックスは大変失望した。それからボンベイ警察の署長から逮捕令状を得ようとした。しかし署長はそれを拒否した。事件はロンドン警察が関わっているのだから、ロンドン警察だけが合法的に逮捕状を発行できるのだ、という理由を付けた。フィックスはいさぎよくあきらめた。ボンベイに逮捕状が来るまで待つのはやめることにした。しかし、ボンベイにいる限りはあの怪しげな悪党を見失わないようにしようと決心した。フィックスは、パスパルトゥー以上に、フィリアス・フォッグはここにとどまるだろうと強く考えていた。その間に逮捕状も届くだろうという見通しだった。  けれども、パスパルトゥーは、モンゴリア号から下船するときに主人から聞いた命令から、自分たちは、パリやスエズでもそうしたみたいにボンベイを出発するのだということを知った。この旅行は少なくともカルカッタまでは続けられるだろうし、そこを越えても続くんだろうと考えざるを得なかった。ひょっとしたら、フォッグ氏が話していた賭けは単にその場の思いつきだったにすぎないのだろうか、運命に従って――俺は休息を望んでいたんだ――自分も八十日間で世界一周をするのだろうか。  主人にいわれたシャツと靴を購入して、パスパルトゥーは通りをぶらぶら散歩した。いろんな国の人がいた。ヨーロッパ系の人、とんがり帽子をかぶったペルシャ人、ターバンを巻き付けたバニア人、四角い帽子をかぶったシンド人、黒い僧帽をかぶったパーシー人、長衣をまとったアルメニア人など、多くの国の人がこの町に集まっていたのだ。今日はちょうどパーシー人のお祭りの日だった。パーシー人はゾロアスター教徒の末裔である。東インドに住む人の中ではもっとも勤勉で、文化的で、利口で、厳しい人たちである。パーシー人の中には、ボンベイでも指折りの金持ちとされる商人となった人もいた。彼らは一種の宗教的ばか騒ぎをしていた。行列あり、余興あり、金銀の糸で縫い取りしたバラ色の薄織物をまとったインド人舞姫の姿もあった。舞姫は、ヴィオルが演奏され、小太鼓が鳴り響くなかで、軽やかに、かつ完全なるしとやかさをもって踊っていた。パスパルトゥーが、目を見開き、口をぽかんと開けて、この珍しい式典を見ていたのは言うまでもない。その表情は想像できる限りのまぬけ面だっただろう。  パスパルトゥーにとっても、その雇い主にとっても不幸なこととなるのだが、彼は好奇心のあまり、自分が行こうと思っていた場所から遠くへ離れていってしまった。パスパルトゥーは、パーシー教のお祭りをすっかり見てしまってから、駅の方向へと足を向けた。その途中で、マラバル・ヒルにあった壮麗なパゴダを見た。その時、どうしても中を見たくなってしまった。パスパルトゥーは全く知らなかったのだが、キリスト教徒が特定のインドの神殿に立ち入ることは禁じられていた。それと、忠実な信者であっても、ドアの外で靴を脱がずに立ち入ってはいけないことになっていた。ここで次のことをつけ加えておこう。英国政府の賢明なる方針によって、現地の宗教的タブーを犯したものは厳しく罰せられるのだった。  パスパルトゥーは、パゴダを傷つける意図は全くもっていなかったのだけれども、観光客みたいに中へ入っていった。そして、豪華なバラモン風の飾り付けに、我を忘れていた。夢中になってひとつひとつ模様を目で追っていった。ふと我に返ると、自分が神聖なる石畳の上に寝ていることに気づいた。見上げると、とても怒った聖職者が三人立っていた。聖職者はパスパルトゥーに襲いかかり、靴を引きはがし、荒々しく叫びながら彼に殴りかかってきた。しかし、敏捷なフランス人は、すぐに立ち上がり、またたく間に、長いガウンをまとった男たちを二人殴り倒した。そして、力のおよぶ限りの速さでパゴダを抜けだした。通りの群衆にまぎれることで、三人目をまいた。  七時五十五分になって、パスパルトゥーは、帽子をかぶらず、靴もはかず、言いつけられたシャツと靴の包みも喧嘩の最中になくしてしまった状態で、息を切らして駅に駆け込んできた。  フィックスは、フォッグ氏のあとをつけて駅に着いた。そして、フォッグ氏は本当にボンベイから出ていくつもりだと知った。フィックスは決心した。カルカッタまで、いや、もっと遠くへ行ったとしても、俺はやつのあとをついていくぞ。パスパルトゥーは探偵を見なかった。探偵はすみっこの暗がりの中に立っていたのだ。しかし、フィックスは、パスパルトゥーが、自分のやってしまったことについて言ったのを聞き取ることができた。  「二度とそんなことはしないで欲しいね。」静かにフィリアス・フォッグは言った。そして、列車に乗り込んだ。かわいそうなパスパルトゥー(今や彼は完全にしょげていた)は、何も言わずに主人のあとから乗り込んだ。フィックスは別の車両に乗ろうとしていたが、あることを思いついて、自分の計画を変えることにした。  「ここにいることにしよう。」フィックスはこうつぶやいた。「インドの地で犯罪がなされたんだからな。きっとつかまえてやるぞ。」  そのとき、機関車がするどく汽笛を鳴らした。列車は夜の闇に消えていった。 ..第十一章:フィリアス・フォッグが途方もない値段で珍しい輸送機関を買うこと  列車は定刻どおりに出発した。乗客の中には軍人や政府職員が大勢いたし、阿片や藍の取引のために東海岸へ向かう商人たちもいた。  パスパルトゥーは主人と同じ車両に乗っていた。車両の反対側には三人目の乗客が乗っていた。その人はサー・フランシス・クロマーティといい、モンゴリア号でフォッグ氏とホイストをしていたひとりであった。ベナレスに駐屯している彼の部隊のところへ帰る途中だった。  サー・フランシスは背が高く、金髪で、五十歳くらいだった。最近起こったセポイの乱における活躍で、その名はすっかり有名になっていた。インドに家族を住まわせており、英国へはまれにしか帰らなかった。そして、インドの風俗や歴史、人々の性格などについては、現地の人と同様によく知っていた。しかし、フィリアス・フォッグは旅行をしているのではなかった。ただ円弧を描いているだけだった。従って、そういったことをサー・フランシスに聞いたりはしなかった。フォッグ氏は合理的な力学の法則に従って、地球の周囲の軌道を回っている、一個の物体にすぎなかった。今この瞬間、フィリアス・フォッグは心の中で、ロンドン出発以来費やした時間を計算していた。もし彼が無意味な行動をするたちであったなら、満足して手をもんだことだろう。  サー・フランシス・クロマーティは、この道連れはおかしいなと感じた。ただ船でフィリアス・フォッグがカードを配り、ホイストをしている間に見ていただけなのである。いったいあの人の心臓は、この冷たい外見の下で本当に動いているのだろうかとか、自然の美しさを解する感覚を持ち合わせているのだろうかと、考え込んでいた。そしてこうひとりごちた。こんな風変わりな人にはいままで会ったことがない。まるで精密機械そのまんまの人だよなぁ。  フィリアス・フォッグはサー・フランシスに対しても、今やっている世界一周の計画や、達成しなければいけない条件などを隠そうとはしなかった。准将にはその賭けは無意味で風変わりな試みにしか見えず、常識的な感覚が欠けているとしか思えなかった。この奇妙な紳士のようなことをしていると、彼自身にとっても他の人にとっても、いい結果をもたらさないままに、日々過ごすことになるだろう、と考えていた。  ボンベイを出発して一時間、列車はいくつか高架橋を渡り、サルセット島を通過して、開けた地方を走っていた。カリヤンでは、カンダラとプーナを経てインド南東部へと下ってゆく支線に連絡している駅についた。そしてポーウェルを通過し、一行は山あいへと入っていった。そこは玄武岩を基礎とし、頂上をうっそうたる森林でおおわれた山脈であった。さて、フィリアス・フォッグとサー・フランシス・クロマーティは、列車の中でとぎれとぎれになりがちな会話をしていた。今また、サー・フランシスは新しく話を始めた。「数年前でしたら、フォッグさん、あなたはこのあたりで遅れていたでしょうから、たぶん賭けに負けたでしょうな。」  「なぜです、サー・フランシス。」  「なぜなら、列車がこの山あいで止まっていたからですよ。乗客はかごか馬で山を越してカンダラまで行かねばならなかったからのです。」  「そのような遅れは私の計画には全く影響しませんよ。」フォッグ氏は言った。「そんなたぐいの障害が起こるだろうことは考えてありますから。」  「しかし、フォッグさん。」サー・フランシスは畳みかけた。「あなたはすでに遅れるようなことをしてるかもしれませんぞ。この若者はパゴダでとんでもないことをしでかしましたな。」  パスパルトゥーは、毛布にくるまってぐっすりと熟睡していたから、誰かが自分のことを話しているとは夢にも思わなかった。  「政府の方針として、そういったたぐいの罪は厳しく罰せられるのです。インドにおいては、宗教的慣習には特別な注意を払わなくてはいけないのです。もしあなたの従者が捕まれば―。」  「よく分かりました。サー・フランシス」フォッグ氏は答えた。「彼が捕まったら、有罪となって刑に服すでしょう。それから、おとなしくヨーロッパに帰っていくでしょう。しかし、そのことが何で主人にまで影響するのか分かりませんよ。」  そして会話は止まった。夜を徹して列車は山あいを走り抜け、ナシクを通過した。翌日は平坦なところを進み、カンディシュ地方でも耕作が盛んな地方を通りかかった。そこには村がところどころにあり、それぞれにパゴダのミナレが建っていた。この肥沃な地方は、いろいろな場所に流れている小さな川やすんだ流れを利用して潅漑されている。それらの流れはだいたいゴダバリ川を源にしているのだ。  パスパルトゥーは起きあがり、景色を見ていた。自分が今まさに鉄道に乗ってインドを横断していることが信じられなかった。機関車は、英国人の機関士によって運転され、英国産の石炭を燃やして走っていた。列車の煙が、綿、コーヒー、ナツメグ、クローブ、胡椒などの農園の上になびいていた。煙はヤシの林の周りで渦をまいていた。林の中には、美しいバンガローや(捨てられた修道院のような)ヴィバーラ、そして、インド建築の粋というべき装飾に満ちた、壮麗な寺院が見えていた。やがて、水平線にまで広がる広大な平地にさしかかった。続いて、蛇や虎が住むジャングルに入った。動物たちは、列車の音で逃げていった。そして列車は、線路によって分断された森の中を通っていった。その森にはいまだに象が生息していた。その寂しげな目で、通りすぎる列車をじっと見つめていた。  旅行者たちは、マレカウンを過ぎ、かつてカーリ女神の信徒たちによってよく殺戮が行われた、あの不吉な地方を横切った。優雅なパゴダ群が建つエローラーが近くに見え、そしてあの有名なアウランガバードに着いた。ここは昔、あの残忍なアウランジーブ帝の首都であった。今ではニザームの王国から分離した地方のうち一州の首邑《しゅゆう》に過ぎない。このあたりは、ザック団の首領にして絞殺者の王だった、フェリンシーが支配した土地でもあった。悪党どもは、秘密の契約によって結びつき、『死の女神』の栄光のために、あらゆる年代の犠牲者を絞め殺した。しかも、血を流すことなく殺人を行ったのである。そのため、この地方で旅をする際に死体を見ずに移動することがほぼ不可能とされた時期があった。英国政府は、彼ら殺人者たちをほぼ全滅させることに成功していた。けれども、ザック団はいまだ存在しており、あの恐ろしい儀式を実現することに力を注いでいるのだった。  十二時三十分に、列車はブルハンブルで停車した。パスパルトゥーはそこでインド風のスリッパを購入することができた。そのスリッパは偽真珠の飾りを施してあり、明らかに装飾用といえた。彼はそのスリッパを履き、歩き出した。一行は急いで朝食を食べ、アスルグールへ向かって出発した。列車はタプト川の土手に沿って進んでいった。この川はスラトの近くでカンベイ湾にそそいでいる。  パスパルトゥーは今、頭の中で空想に没頭していた。ボンベイに到着するまでは、旅行がそこで終わるのではないか、という希望を抱いていた。しかし、インドを全速力で横断している今、突然彼本来の、空想的な精神がよみがえってきた。昔の放浪癖がまた目覚めたのだ。若いときの夢見がちな彼に戻ったのである。パスパルトゥーは主人の計画を真剣なものとして受け取るようになった。本当に賭けが行われており、そのために自分たちは世界一周をしていて、指定された時間内にそれを成し遂げなければならないのだということを信じるようになった。予想される日程の遅れや、途中で起こるかもしれない事故のことを心配するようになっていた。パスパルトゥーは自分自身のこととして賭けに対する関心を抱くようになった。そしてあることに気づき、ふるえだした。自分のせいで賭けがふいになったかもしれないのだ。昨日はなんてばかなことをやってしまったんだろう。  パスパルトゥーは、フォッグ氏ほど冷静な方ではなかったので、全く落ち着きがなかった。過ぎ去った日々を数え上げ、列車が止まると呪いの声をあげ、列車が遅れていると不満たらたらだった。そして、フォッグ氏が機関士に報賞金を約束しなかったことを、心の中で責めていた。ところで、報賞金というものは、汽船の速度を上げるのには役に立つが、列車に対しては実行できないのである。  夕方頃に、列車はサトプラ山脈の渓谷に入った。サトプラ山脈は、カンディシュ地方とブンデルカント地方を隔てている。  翌日になって、サー・フランシス・クロマーティは、パスパルトゥーに今何時かと尋ねた。パスパルトゥーは時計を見て、今は午前三時だと答えた。ご承知のとおり、彼の時計はいつもグリニッジ子午線にあわせてあった。今この時、グリニッジ子午線からは東に七十七度離れており、時計は少なくとも四時間は遅れていた。サー・フランシスは、パスパルトゥーの言った時刻を訂正した。しかしパスパルトゥーは、フィックスに言ったような答えをサー・フランシスに返した。准将は、時計はそれぞれの地方にある子午線にあわせなければいけないと主張した。「いいかね、我々は東へ東へと、太陽が昇ってくる方へ向かって進んでいるのだよ。だから、経度を一度越すごとに、四分ずつ日が短くなるのだよ。」  パスパルトゥーは時計を調整し直すことを頑固に拒否した。時計は相変わらずロンドン時間のままだった。まったく無邪気なわがままだったし、誰も傷つけることはなかった。  列車は午前八時になって、ロタールから十五マイル離れた空き地の真ん中で止まった。周囲には転々とバンガローや労働者の小屋があった。車掌が、車両づたいに通っていきながら、こう叫んだ。「乗客はここで降りてください!」  フィリアス・フォッグはサー・フランシス・クロマーティに説明を求めた。しかし准将は、なぜ列車がこんな、ナツメヤシやアカシアが茂る森の中で停車しなければならないのか分からなかった。  パスパルトゥーはびっくりして車室から飛び出した。すぐ戻ってきて叫んだ。「ご主人様、鉄道がありません!」  「何だって?」サー・フランシスが尋ねた。  「列車がこれ以上進めないんです。」  准将はすぐに客車から降りた。フィリアス・フォッグもゆっくりとあとに続いた。二人は車掌のところまで行った。  「我々はどこにいるんだね?」サー・フランシスは言った。  「コルビーの村落です。」  「ここで止まるのかね?」  「そうです。鉄道ができていないのです。」  「何! できていない?」  「はい。ここからアラハバードまで、まだ五十マイルほど線路をしかなければならないのです。その先には線路があるのですが。」  「しかし、新聞は全線開通と発表していたのだぞ。」  「それはですね、閣下。新聞が間違っていたんです。」  「それならなぜ、ボンベイからカルカッタまでの切符を売ったのだ!」サー・フランシスは怒って叫んだ。  「ごもっともです。」車掌は言った。「しかし、お客様方は、コルビーからアラハバードまではご自分で行かなければならないことはご承知のはずですが。」  サー・フランシスは怒り狂った。パスパルトゥーは車掌を殴りつけてやろうと考えていた。主人の顔を見ることができなかった。  「サー・フランシス。」フォッグ氏は静かに言った。「失礼ながら、アラハバードまでどうやって行くのか考えませんか。」  「フォッグさん。このことはあなたにとって不幸な遅れとなりますな。」  「いいえ、サー・フランシス。こうなると思っていました。」  「何ですって! あなたはこのことを知って―。」  「知りませんでした。しかし私は、遅かれ早かれ何かの障害が行く手に立ちはだかることは知っていました。ですから、何も失いません。私はすでに二日間、日程に余裕があります。それを失うだけです。二十五日正午に、カルカッタからホンコン行きの船便が出ます。今日は二十二日です。時間内にカルカッタへ到着しますよ。」  ここまで自信を持って断定されると、もう何も言えなかった。  とにかく、鉄道がここで終わっていることは間違いのない事実であった。新聞は進みぐせのある時計のようなものであり、鉄道の完成を早まって記事にしてしまったのだ。ほとんどの乗客はここで列車が止まっていることを知っていたので、列車を降りて、村にある乗り物を次々雇い始めた。四輪馬車、コブウシがひく荷馬車、動きまわるパゴダとでも形容すべき旅行車、かご、ポニーなどなど。  フォッグ氏とサー・フランシス・クロマーティとは、村中を捜しまわったあげく、何も見つけられずに帰ってきた。  「歩いていきましょう。」フィリアス・フォッグは言った。  パスパルトゥーは、主人と再会したとき、顔をしかめて見せた。美しいけれども、もろすぎるインド風シューズのことを考えたのだ。それに、彼なりにうまいこと乗り物をさがしてきたのだ。少しためらったあと、こう言った。「ご主人様、うまい乗り物を思いつきました。」  「何だね。」  「象でございます! インド人が飼っているのです。ここから百歩ほど行ったところにいるのです。」  「行って、その象を見よう。」フォッグ氏は答えた。  一行はすぐにあるあばら屋に着いた。そのそばに、高い柵で囲まれた一角があった。問題の象はそこにいた。インド人があばら屋から出てきて、一行を囲いの中へ案内した。象はそのインド人の所有物であった。彼はもともと、荷物運搬用としてではなく、戦闘用として育てようとしていた。そのため、三ヶ月間砂糖とバターのみを与え続けて、象をいらいらする状態に追い込んでいた。野生のときにはなかった獰猛《どうもう》さを、象に仕込むつもりだったのだ。この方法は、インド象を戦闘用に育てようとする人たちがよくやることなのだ。しかし、フォッグ氏にとって幸いなことに、象はまだ狂暴化していなかった。象本来の性質である優しい心をまだ持ち続けていたのだ。  キウニ――これがその象の名前である――は確かに、長時間にわたって速く走ることができた。他に手段はなかった。フォッグ氏は象を雇うことにした。しかし、象はインドでは決して安いものではなかった。いつも足りないものだからだ。雄だけが、サーカスで芸を見せるのに適しているので、より熱心に捜索されていた。飼い慣らされたものは特に少なかった。そのため、フォッグ氏がインド人に、キウニを雇いたいと申し出ると、すぐに拒絶された。  フォッグ氏はくいさがった。アラハバードまでその獣を使うのに、一時間につき十ポンドという莫大な金額を提案した。断られた。二十ポンドでは? また断られた。四十ポンドでは? それでも断られた。パスパルトゥーは、その値上がりぶりに飛び上がった。しかし、インド人はその誘いを断った。それでもまだ、礼金の値上げは続いた。もし象がアラハバードまで着くのに十五時間かかるとすると、インド人は六百ポンド以上もの英国の金を受け取ることになっていた。  フィリアス・フォッグは、少しも動揺した様子を見せずに、その象を買おうとインド人に言った。まずは千ポンドでどうか、と申し出た。インド人は、たぶんもっと大きな儲けが欲しいと思ったのだろうが、その申し出を断った。  サー・フランシス・クロマーティは、フォッグ氏をわきへ連れていって、これ以上値段を上げる前に、よく考えた方がいいと言った。フォッグ氏はこう返事した。私は、軽々しくことを起こす習慣は持っておりません。二万ポンドの賭けが危ういのです。今はあの象が、私には絶対に必要なのです。もし、今の値段から二十倍にはねあがったとしても、私はあの象を手にいれます。 インド人のもとへ帰ると、その小さく鋭い目はどん欲に光っていた。その目は明らかに、象を獲るのにどれだけ大きい金額が出るかだけが問題であることを表していた。フォッグ氏は、千二百、千五百、千八百、二千と値段を上げていった。パスパルトゥーは、普段は赤ら顔だったが、真っ青になった。  二千ポンドでインド人は手を打った。  「なんて値段だ! 天国だよ。」パスパルトゥーは叫んだ。「象にとってはな。」  あとはガイドを雇うだけだった。それは比較的簡単だった。利口そうな、パーシー人の若者がその仕事を申し出た。フォッグ氏は彼を雇い、太っ腹な報酬を約束した。そのため、パーシー人は頑張って仕事をやり遂げようと思った。象が引き出され、身支度をした。パーシー人は象使いの才能があった。象の背中に鞍付きの布をつけた。そして左右に、奇妙な、心地よいとはいえない座席を取り付けた。  フィリアス・フォッグはインド人に、旅行鞄から札束を取り出して代金を払った。パスパルトゥーはあわれにも、臓器を取り出されているように感じていた。それから、フォッグ氏はサー・フランシスに、アラハバードまでお送りしようと申し出た。准将は喜んでその申し出を受けた。乗客がもう一人増えても、この巨大な獣は全然疲れないはずだった。  食料をコルビーで購入し、サー・フランシスとフォッグ氏は座席に座った。パスパルトゥーは背中の鞍敷きにまたがった。パーシー人は象の首のところに座った。そして、九時に村を出発した。象は最短距離でもってヤシの密林を通っていった。 ..第十二章:フィリアス・フォッグと彼の仲間がインドの森を横切って危険を冒したことと、その後に続くこと  走る距離を短くするために、ガイドは建造中の線路から左に曲がっていった。線路はビンシア山脈がいろんな起伏を作っているために、進路を曲げざるを得なかったのだ。パーシー人は、この地方でどういう道をたどればいいかをよく知っていた。その知識にかけて、森を通っていけば二十マイルほど短縮することができると言い切った。  フィリアス・フォッグとサー・フランシス・クロマーティは、二人のために用意された座席に座っていた。その座席は、象が急いで歩くのに伴ってひどくゆれた。パーシー人が象を急がせるから、座席はなおさらゆれるのだった。しかし二人は、いかにも英国人らしい冷静さで、その不快さを耐えていた。会話はほとんど交わさなかった。お互いの姿を見ることすらなかった。  パスパルトゥーは象の背中に乗っていた。休みなく象が歩き続けたので、その振動が直接彼のところにやってきた。彼は主人の忠告に従い、舌を歯の間に入れないように気をつけていた。もしそうなったら舌を噛み切ってしまうからだ。この感心な人物は、象の首から尻まではね回っていた。まるで踏み切り板にのった道化《どうげ》のようだった。そんな状態でも、はねている最中は笑っていて、ときおりポケットから砂糖を取り出してキウニの鼻に持っていった。キウニは急ぎ足をゆるめることなく砂糖を受け取った。  二時間走ったあと、ガイドはキウニを止めて休憩させた。キウニは近くの泉でのどの渇きをいやし、まわりにある枝や灌木をむさぼりはじめた。サー・フランシスもフォッグ氏も、遅れることをいやがらなかった。むしろ、安堵の表情を浮かべていた。  「まったく、こいつは鉄でできているんだな!」准将はキウニに感心してこう言った。  「鍛えられた鉄ですね。」パスパルトゥーが答えた。答えながら、急ごしらえの朝食を準備していた。  正午、パーシー人は出発の合図を出した。まもなく、非常に荒涼とした地方にさしかかった。ナツメヤシや小型のヤシが生い茂る密林を通りかかった。そして広々とした、灌木が点在するだけの乾いた平野に出た。そこには、閃長石の岩がごろごろ転がっていた。ブンデルカンドでも、このようなところには旅行者はめったに来ない。この地方には、狂信的な信仰を持つ人たちが住んでいる。彼らはヒンドゥー教の中でもとても恐ろしい習慣を保持しているのだ。英国政府はこの地方を完全に支配することができなかった。ここはいまだ王の影響下にあり、王たちがこもる山中の砦には英国の威令は届かなかった。旅行者は何度か残忍な現地人たちの集団を見かけた。現地人たちは、象に乗ってここを突っ切ろうとしている一行を認めて、怒りからか脅しをかけはじめた。パーシー人はできるだけ人を避けるようにしていた。動物の姿はほとんど見かけなかった。猿でさえいろんなしかめっ面をして逃げていった。パスパルトゥーはゆれながら笑っていた。  愉快がってはいたが、パスパルトゥーにはひとつ心配なことがあった。フォッグ氏は、アラハバードについたらこの象をどうするのだろう? いっしょに旅を続けるのだろうか? 無理だ! 輸送にかかるコストで破産してしまうだろう。売り払うか、それとも解放してやるのか? この獣は考慮すべき価値が十分あるからな。フォッグ氏がこの俺、パスパルトゥーに、キウニをくれてやると言いだしたら、とても困ってしまうなあ。こんなことをパスパルトゥーはずっと考えていた。  一行はビンディア山脈の主脈を午後八時に通り抜け、北側のふもとに発っていた、壊れかけのバンガローでもう一度停止した。その日、一行はほぼ二十五マイル移動していた。しかしまだ、同じ距離を走らなければアルハンブラの駅には着けないのだった。  夜は寒かった。パーシー人は枝を集めてきて、バンガローでたき火をした。そのおかげで非常に暖かく感じられた。コルビーで購入した食料で、十分な夕食ができた。一同は食べることに夢中だった。会話はだんだんとりとめのないものになり、やがて大きないびきをかいて眠ってしまった。ガイドはキウニを見張っていた。彼は大きい木の幹に寄りかかって、立ったまま眠った。  夜の間、安眠を妨げるようなことは何も起こらなかった。ときおりヒョウのうなり声や、鋭い猿の鳴き声が聞こえてくるだけであった。猛獣たちの声は聞こえなかったし、バンガローの中にいる人には危険なことは起こらなかった。サー・フランシスは、疲れ切った実直な軍人らしく、深い眠りに落ちていた。パスパルトゥーは、浅い眠りの中で、昼間やっていたとんぼ返りを繰り返していた。フォッグ氏はというと、サヴィル街にある自分の邸宅にいるみたいに、静かに眠っていた。  朝六時、一行はまた動き出した。ガイドは夜までにアルハンブラに着こうとしていた。そうなった場合、フォッグ氏は旅行を始めて以来節約してきた四十八時間のうち、一部を使うだけですむのだ。キウニはまた早足でかけだした。ビンジア山脈の最後の斜面を下った。正午頃、カレンゲル村を通過した。カレンゲル村は、ガンジス川の支流であるカニ川のほとりにある。ガイドは、人が住んでいる場所をさけていた。開けた土地を走る方が安全だと考え、ガンジス川流域に広がる低地部分の始まりを通っていった。アルハンブラまではあと十二マイルを残すだけとなっていた。その南西部、バナナの茂みの下で休憩をとった。バナナの実は、パンのようにヘルシーで、クリームみたく汁気を多く含んでいて、一行はおいしくいただいた。  二時になって、ガイドは何マイルにもわたって広がっている、深い森に入っていった。彼は木陰を移動したがっていた。一行はいやな事故にもあわずに、この移動を終わろうとしていた。そのとき、象が何かにおびえ、突然歩みを止めた。  ちょうど四時だった。  「何が起こったんだ?」サー・フランシスが頭を出した。  「分かりません、ご主人。」パーシー人は答えて、密林にこだまするざわめきに耳をすましていた。  だんだん音がはっきりしてきた。金管楽器をひきつれた、合唱団のコンサートみたいな音が聞こえてきた。パスパルトゥーは目と耳をそっちに向けた。フォッグ氏は黙って根気よく待った。パーシー人は地面に飛び降り、象を木にとめて、茂みの中へと入っていった。すぐに帰ってきて、こう言った。「バラモンの行列が来ます。見られないようにしましょう。」  ガイドは象を木からはずし、茂みに隠した。同時に、旅行者に、そのままじっとしていてくださいと頼んだ。彼自身は、気づかれしだい動物にまたがれるような体勢をとった。しかし、みたところは、狂信者の行列は木の葉の中に隠れている一行に気づかずに通りすぎていくようだった。一行はうまく隠れていたのだ。  耳障りな声や楽器の音がますます近寄ってきた。タンバリンやシンバルの音に物憂げな歌も響いてきた。行列の先頭が木々の下にみえてきた。一行との距離はわずか百歩ほどだった。そのため一行は、奇妙な宗教パレードを枝の間から簡単に見ることができた。最初にバラモンがやってきた。僧帽をかぶり、けばけばしい僧衣を着ていた。僧侶たちは老若男女さまざまな信者に囲まれていた。信者たちは悲しげな歌を歌い、合間にタンバリンとシンバルの音をはさんで歌い続けた。その後ろから、大きい車輪が付いた車がやってきた。その車輪には、互いに絡み合ったヘビが描かれていた。車は、派手な衣装を着せられた四頭のコブウシによって引っぱられていた。その上には、四本の手を持った、恐ろしげな彫像がすえられていた。彫像はくすんだ赤色に塗られ、目は荒々しく、髪は乱れ、舌をつきだし、唇はキンマで彩られていた。彫像はうつぶせになった巨人の上に立っていた。巨人には頭がなかった。  サー・フランシスは彫像を見て、こうつぶやいた。「カーリ女神だ。愛と死の女神だ。」  「死の女神ではあるでしょう。」パスパルトゥーはささやいた。「しかし愛の女神だなんて―あの醜い老婆がですか? そんなばかな!」  パーシー人は黙っているように、と身ぶりでいった。  年取った行者たちが彫像のまわりを飛び回り、狂ったように騒いでいた。行者の体には黄土色の縞模様があつらえてあり、血が流れ出している切り傷を体中につけていた。狂信的な人たちは、盛大なインドのお祭りともなると、今でも自分からクリシュナの像をのせた車の前に、自ら身を投げ出すのである。その後ろから、東洋風のぜいたくな服で体じゅうをおおい、一歩ごとにふらついている女性を連れてきているバラモンたちがやってきた。その女性は若く、ヨーロッパ人みたいな肌の色をしていた。頭、首、肩、耳、腕、手足などに、さまざまな宝石や装飾品―ブレスレット、イヤリング、指輪など―がつけられていた。金箔をちりばめた寒冷紗《かんれいしゃ》をはおり、その上に軽いモスリン製のローブをまとっていた。その服は彼女の体型をかたどっていた。  若い女性を護衛していた兵たちは、女性とは対照的だった。むき出しのサーベルを腰にぶら下げ、金銀をちりばめた大きなピストルで武装し、死体をのせた輿《こし》をかついでいた。死体は老人の体だった。王が着るような豪華な衣装を身にまとっていた。生きているみたいな感じで、真珠をあしらったターバンを巻き、シルクと金糸を織り込んだローブをまとい、ダイヤモンドを縫い込んだスカーフをつけて、ヒンドゥーの王にふさわしい立派な武器をおびていた。その後に楽隊が続き、最後にはね回っている行者たちがやってきた。行者たちの叫びは、ときおり楽器の音をかき消していた。それで行列は終わった。  サー・フランシスは行列を見て、悲しげな表情になり、案内人の方を向いて言った。「サッティーだな。」  パーシー人はうなずき、指を唇にあてた。行列はゆっくりと木の下を進み、やがて最後尾にいた行者たちも深い森の中に消えていった。歌はだんだん遠ざかっていった。ときおり叫び声が遠くから聞こえてきたけれども、ついにはまったく聞こえなくなった。  フィリアス・フォッグはサー・フランシスの言葉を聞いていて、行列が消えるとこう言った。「サッティーとは何ですか。」  「サッティーとは、」准将は答えた。「いけにえのことです。ただ、自発的なものなのです。今あなたがごらんになった女性は、明日、日の出とともに焼け死ぬのです。」  「何てひどいことを!」パスパルトゥーは怒りをこらえることができなかった。  「では、あの死体は?」フォッグ氏は尋ねた。  「あれは王なのです。そしてあの人の夫です。」ガイドは言った。「ブンデルカンド地方の、独立した王だったのです。」  「そうですか。」フィリアス・フォッグは言った。その声には少しも感情は入っていなかった。「そんな野蛮な風習が、まだインドには存在するのですね。英国がそれをやめさせることはできなかったのですね。」  「このようないけにえは、インドの大部分ではもう起こりませんよ。」サー・フランシスは言った。「しかし、ここみたいな未開な地方では、私たちは何の力も持っていないのです。特に、ここブンデルカンド地方となるとなおさらです。ビンドヤ山地の北側一帯は、殺人と略奪の舞台となってきたのです。」  「ああ、かわいそうに!」パスパルトゥーは叫んだ。「生きたまま焼かれるなんて!」  「その通り。」サー・フランシスが答えた。「生きたまま焼かれるのです。だが、そうしなかったら親類たちに何をされるか、おそらく想像もつかんでしょうな。髪を剃り落とされ、わずかな米だけあてがわれて、なおかつ軽蔑されるんです。不浄な人とみなされて、のら犬みたいにどこかの街角で死んでゆく。そんないやな生活が待っているのだから、女性たちはかわいそうに進んでいけにえを申し出ます。愛ゆえに、というよりは、宗教的な理由からそうするんです。ただ、中には本当に自分の意志でいけにえになる人もいます。それを防ぐためには、政府が介入しなければなりません。数年前、私がボンベイに住んでいたときのことですが、ある若い未亡人が、知事に対して、夫の死体とともに焼かれたいと申し出てきたのです。もちろんあなたもそうするでしょうが、知事はそれを認めませんでした。すると未亡人はボンベイから出ていって、とある酋長が支配する地域へ行き、望みどおり焼かれてしまったんです。」  サー・フランシスが話している間、ガイドは頭を振っていた。話し終わるとこう言った。「あの人は、自分から進んでいけにえになったんじゃないんです。」  「どうして知ってるんだ?」  「ブンデルカンドでは、よく知られていることなんです。」  「しかし、あの人はいやがっているようには見えなかったが。」サー・フランシスは指摘した。  「それは、大麻や阿片の煙でもうろうとしているからです。」  「で、奴らはどこへ向かっているんだ?」  「ピラジのパゴダです。ここから二マイルほどの場所です。あの人は、一夜をそこで過ごすのです。」  「それで、いけにえになるんだな。」  「明日、光がさしはじめる頃には…。」  ガイドは象を茂みの外へ出し、その首のあたりにのった。そして、キウニに出発の合図を出した。そのとき、フォッグ氏はその合図を止めさせた。そして、サー・フランシス・クロマーティの方を向いて言った。「私たちの力で、あの人を救ってやれないでしょうか。」  「救いましょう、フォッグさん!」  「私にはまだ十二時間の余裕があります。その時間が使えますよ。」  「おお、あなたは親切な人だったんですね!」  「ときどきですよ。」静かにフィリアス・フォッグは言った。「時間があればそうしてるんです。」 ..第十三章:パスパルトゥーが改めて「幸運は勇士に好意を示す」ことを証明すること  その計画は大胆なものだった。困難に満ちていたし、実行不可能にも見えた。フォッグ氏は命を―少なくとも自由を―危険にさらしていた。従って、彼は世界一周旅行をも危険にさらしていたわけだ。しかし彼はためらわなかった。サー・フランシス・クロマーティも、全力をもって助けるとフォッグ氏に言った。  パスパルトゥーの心では、とっくに彼女を救いに行くつもりになっていた。主人の考えに魅せられていた。その冷たい見かけの下にある魂の存在を感じ取っていた。パスパルトゥーはフィリアス・フォッグを好きになり始めていた。  残るのはガイドだけだった。彼はどうするのだろうか? ヒンドゥー教徒たちに味方するだろうか? 助けが得られないまでも、中立の立場でいてもらう必要があった。サー・フランシスは率直にどうするかを尋ねた。  「閣下。」ガイドは答えた。「私はパーシー人です。あの人もパーシー人です。あなた方の指図に従います。」  「上出来だ。」フォッグ氏は言った。  「しかしながら、」ガイドは言った。「命がけの仕事になりますね。それに、捕まったら恐ろしい拷問が待っているでしょう。」  「わかってるよ。」フォッグ氏が答えた。「行動するのは夜まで待たないといけないだろうね。」  「そう思います。」ガイドは言った。そして、このインド人は、いけにえとなる人のことを話した。彼が言うには、あの人はパーシー族のインド人で、美人として有名であり、裕福なボンベイ商人の娘ということだった。ボンベイでイギリス流の教育を徹底して受けたため、しぐさも教養も、ヨーロッパ人のものとなっていた。名をアウダといった。彼女は孤児となってしまい、心ならずもブンデルカンドの老王のもとに嫁いだ。しかしすぐに寡婦になってしまった。アウダは自分の身にふりかかる運命を知り、逃げだしたが、王の一族によって捕らえられた。一族はアウダにいけにえとして死んでもらいたかった。アウダは逃げることができないように感じられた。  パーシー人の話を聞いて、一同はますますその人を助けようという決意を固めた。ガイドがピラジのパゴダの方向へ象を移動させ、できるだけ近づいていくことに決まった。  三十分後、一行は足を止めた。そこはパゴダから五百フィートほど離れたところにある雑木林に囲まれていたので、隠れるのに都合がよかった。その一方、行者たちのうなり声や叫び声がよく聞こえてきた。  ここで一行は、どうやっていけにえにされそうな人を助けようか議論した。ガイドはピラジのパゴダについてよく知っていたので、あの若い人は縛られているのだろうと主張した。さて、フォッグ氏たちは、インド人たちがみな麻薬によって眠っている間にドアから進入できるだろうか? 壁に穴をあける方が確実だろうか? それは時と場合による。確実なことは、この誘拐は今夜実行しなければいけないということだ。そうでないと、日の出とともに、犠牲者は、火葬のために積まれた薪がある場所へ連れていかれてしまうのだ。そうなってしまっては、誰も彼女を助け出すことができなくなってしまうのだ。  夜はすぐにやってきた。およそ六時頃、フォッグ氏たちは塔のまわりを見ていくことにした。行者の叫び声も聞こえなくなっていた。インド人たちは大麻を煎《せん》じた汁に酔いしれて、ぐっすり眠っているところだった。ひょっとしたら、塔の中へ入れるかもしれなかった。  パーシー人は、一行を案内して、木の間を静かにはうように進んでいった。十分ほどして、小川が浅くなっているところを見つけた。鉄製の松明《たいまつ》がつけてあり、その中に火葬用の薪が積んであるのが見えた。その上に、芳香が満たされた王の遺体が寝かせてあった。妻とともに火葬するためにそうしてあるのだ。深まってゆく夕暮れの中で、木の上にパゴダがぼんやりと見えていた。ここから百歩分くらい離れていた。  「行きましょう!」ガイドはささやいた。  そして、これまでよりも慎重に、藪の中を進んでいった。フォッグ氏たちがその後に続いた。あたりは静まり返っていた。枝の中を風が吹き抜ける、低い音があるばかりだった。  まもなく、パーシー人は空き地の端で止まった。空き地は松明《たいまつ》で照らされていた。麻薬に酔った連中が、空き地に転がっていた。戦場に多くの死者が倒れているみたいだった。老若男女みなが一緒に横たわっていた。その向こう、木の間から、ピラジのパゴダがはっきり見えてきた。  ガイドはがっかりした。王の護衛が明かりの中に立っており、ドアを見張っていたのだ。しかも、むき出しのサーベルをもってあちこち行進していた。おそらく、パラモンたちも中で見張っているのだろう。  パーシー人は、神殿の入り口から忍び込むのは不可能と判断した。それ以上進むのをあきらめ、一行を戻させた。フィリアス・フォッグもサー・フランシス・クロマーティも、入り口からは入れないだろうと見ていた。一行はそこで立ち止まり、ひそひそと話をした。  「今はまだ八時だ。」准将は言った。「護衛たちもやがて眠ってしまうだろう。」  「ありえないことではないですね。」パーシー人が答えた。  一行は木の下に横たわり、待った。  時間が長く感じられた。ガイドはときどき森が途切れるところまで、護衛の様子を見にいった。しかし、護衛は松明《たいまつ》の光の中で、絶え間なく監視を続けていた。塔の窓からも薄明かりがもれていた。  一行は真夜中まで待った。警備はなおも続いていた。護衛が眠ってしまうなどということは明らかに起こり得なかった。他の計画を実行しなければならなかった。パゴダの壁に穴をあけなければならない。あとはバラモンたちが、入り口の護衛のように根気強く犠牲者のそばで監視しているかどうか確かめるだけだった。  最後の相談をして、ガイドは準備完了を告げた。そして動き出した。フォッグ氏たちもその後に続いた。パゴダの後方へ行くために、空き地を迂回していった。十一時半に壁面に達した。途中で誰にも会わなかった。パゴダの裏側には護衛はいなかったが、ドアも窓もなかった。  夜は暗かった。三日月は地平線に沈もうとしていたし、厚い雲が空をおおっていた。高い木が暗闇をさらに深くしていた。  壁についただけではだめだった。そこに穴を開けなければならなかった。そのための道具としては、持っていたポケットナイフを使うしかなかった。幸い、神殿の壁はレンガや木でできていた。だから、簡単にナイフを貫通させることができた。一個レンガをとれれば、あとは簡単に取れるはずだった。  彼らは静かに仕事にとりかかった。パーシー人とパスパルトゥーが二人して、二フィートの穴を開けるためにレンガを取り始めた。作業は順調に進んでいた。  突然、叫び声が神殿の内部から聞こえてきた。すぐに、外からも返事をする声が聞こえてきた。パスパルトゥーとガイドは作業をやめた。聞かれてしまったのか? 警報が発せられているのか? 二人は撤収すべきときと感じ、そして逃げた。フィリアス・フォッグとサー・フランシスも続いた。四人は再び木の中に隠れて、叫び声がおさまるまで待った。そして、おさまりしだい、また作業を続けようと身構えていた。しかし残念なことに、護衛が神殿の後方にやってきた。そして、襲撃を防ぐために、そこを監視し始めた。  一行の失望は筆舌に尽くせなかった。心ならずも作業を中止した。犠牲者のもとにたどり着くことはできなかった。そうしたら、どうやって彼女を救えばいいのだろうか?  サー・フランシスは怒りに我を忘れ、ガイドは激怒のあまり歯ぎしりした。フォッグ氏は静かに待った。何の感情も見せなかった。  「あきらめて行くしかないな。」サー・フランシスがささやいた。  「行きましょうか。」ガイドは言った。  「待って下さい。」フォッグ氏が口を挟んだ。「私はアラハバードに、あす昼前に着けばいいのです。」  「でも、何をしようというのですか?」サー・フランシスは尋ねた。「二、三時間もすれば夜明けになりますし、それに―」  「今は見込みがないようですが、最後の瞬間にはチャンスがでてくるでしょう。」  サー・フランシスはフィリアス・フォッグが何を考えているのかを知りたかった。まったく、この冷静なイギリス人は何を考えているのだろうか? それにしても、馬鹿なことを言うものだ。フォッグ氏がそんな馬鹿な人だとはとうてい信じがたい。けれども、サー・フランシスは、このものすごいドラマを最後までみようと思い、その場にとどまることにした。  ガイドはフォッグ氏たちを空き地の端っこに案内した。そこから、眠りこけている集団を見張ることができた。  そのときパスパルトゥーは、木の枝に腰掛けていた。彼はあることを考えていた。最初はふと思いついたものだったが、しだいに頭の中で確かなものとなっていた。  その考えを、最初は「馬鹿げたことだ!」と言い聞かせた。次にはこう繰り返した。「つまり、なぜそうしちゃいけないんだ? それは一つのチャンスだ。たぶん唯一のものだろう。それに奴らはあんな状態なんだ!」こんなことを考えながら、ヘビのように枝をつたっていった。その先はほとんど地面につきそうだった。  時が過ぎていった。闇が去っていき、日の出が近いことが分かった。ただ、まだ明るくはなかった。突然変化が起こった。眠っていた群衆は動き出し、タンバリンが鳴り出し、歌や叫び声が起こりだした。サッティーの時がやってきたのだ。パゴダのドアが開いた。中から明るい光がもれた。その中に、フォッグ氏とサー・フランシスは犠牲者を見いだした。彼女は麻薬によるしびれを振り払おうとしているように見えた。死刑執行人たちの手から逃げようと努力していた。サー・フランシスの心臓は激しく打った。本能的にフォッグ氏の手をつかんだ。その手に抜き身のナイフがあった。  そのとき、群衆が動き出した。若い女性は大麻の煙を吸わされて、再び昏睡状態におちいった。バラモン僧たちは、宗教的な叫び声をあげながら、彼女を護送していった。  フィリアス・フォッグとその仲間たちは、群衆の一番最後に混ざって、後をついていった。二分で、群衆は小川の浅瀬に着き、積んである薪から五十歩ほどのところで止まった。そこにはまだ王の遺体が置かれていた。薄明かりの中、フォッグ氏たちは犠牲者を見た。彼女は微動だにせず、王の遺体のそばに寝かせられていた。そして松明《たいまつ》が運ばれてきて、油がたっぷりしみこませてあった木に火がつけられた。すぐに燃えあがった。  この瞬間、サー・フランシスとパーシー人は、フィリアス・フォッグを押さえていた。彼は、無鉄砲な高潔の念から、薪のところに突き進もうとしていたのだ。  フォッグ氏はすばやく彼らを押しのけた。  そのとき、突然場の空気が変わった。恐怖に駆られた叫びが起こった。群衆の中にいたものは、恐怖に駆られて地面にひれ伏した。  老王は死んではいなかった。突然、亡霊のように立ち上がったのだ、妻を腕の中に抱えて。そして、煙がもくもくとたちこめる中を、薪から降りてきた。そのため一段と亡霊らしく見えた。  行者も兵士もバラモンも、恐怖に支配されていた。みな顔を地面につけ、あえてこの不思議な光景を見ようともしなかった。  気を失っていた犠牲者は、彼女を支える力強い腕によって、軽々と運ばれていた。フォッグ氏とサー・フランシスは直立していた。パーシー人は頭を伏せていた。パスパルトゥーはまちがいなく麻痺状態となっていた。  復活した王はサー・フランシスとフォッグ氏の方へ近づいてきた。突然、こう言う声が聞こえた。「逃げるのです!」  それはパスパルトゥーだった! 彼は煙がたちこめる中、薪の下にすべり込んだのである。あたりがまだ暗かったことも彼に幸いした。そうして、若い女性を死から救い出したのである! パスパルトゥーは、幸運と大胆さによって仕事をなしとげたのだ。彼はあたりが恐怖におそわれている中を、ゆうゆうと通りぬけてきたのだ。  一瞬後、四人は森の中に姿を消した。象が彼らを急ぎ足で運んだ。しかし叫び声とざわめきが起こり、弾丸が音をたててフィリアス・フォッグの帽子を撃ち抜いた。それは策略が見破られたことを示していた。  老王は死んでいた。薪が燃えている中にその姿があった。バラモンたちは恐怖が去った後に、誘拐が行われたことを悟ったのだ。そして森へ急いで走っていった。兵士たちが後に続き、逃亡者へ向けて一斉射撃を行った。しかし、フォッグ氏たちは狂信者らとの距離を一気に離していった。まもなく、銃弾や矢が届かないところまで逃げることができたと思った。 ..第十四章:フィリアス・フォッグが、カンジス川の美しい景色を見ることを考えないでそこを下りきること  向こう見ずな計画は成功した。パスパルトゥーは一時間は思い出し笑いをしていた。サー・フランシスは、犠牲者を救い出したパスパルトゥーの手を握りしめた。主人は「よくやった!」とだけ言った。これは彼が従者のことを最大級にほめた言葉だった。それに対し、パスパルトゥーはこう答えた。すべての名誉はご主人様のものです。私はただ「ちょっとした」考えを思いついただけです。パスパルトゥーは、体操教師だったり、消防士だったりした自分が、たった一瞬の間だけでも、芳香馥郁《ほうこうふくいく》たる老王として、素敵な女性の夫となったことを思いながら笑っていた。  インド人の女性はといえば、まだ意識を失っていた。何が起こったのか知らなかった。そして、旅行用毛布にくるまって、座席の中で横になっていた。  象はパーシー人のうまい誘導のもと、うすぐらい森の中を急いでいた。パゴダを去って一時間で、広大な平原を渡った。  一行は七時に休息をとった。若い女性はまだ完全な虚脱状態であった。ガイドは彼女にブランデー入りの水を飲ませた。しかしまだ、麻痺から来るうたた寝から彼女を呼び覚ますことはできなかった。サー・フランシスは、大麻の煙がもたらす効果についてよく知っていた。彼女はもう大丈夫だと保証した。准将は、彼女の身に待っている運命のことを心配していた。フィリアス・フォッグにそのことを話した。そして、彼女がインドに残っていたら、また奴らの手に落ちてしまうだろうと言った。狂信者たちは国じゅうに散り、英国警察の手をかいくぐり、マドラスだろうとボンベイだろうとカルカッタだろうと、彼女を取り戻しにくる。彼女はインドを立ち去らないと、身の安全を確保できないだろう。  フィリアス・フォッグは、そのことは考えておきます、と答えた。  アルハンブラの駅には、だいたい十時ごろに到着した。そこからまた線路が始まっていた。フォッグ氏たちは、それを使えば二十四時間たたないうちにカルカッタに到着できるのだ。フィリアス・フォッグは、それによって汽船に乗り込むことができる。船は次の日、十月二十五日正午にカルカッタを出発してホンコンへ向かうのだ。  若い女性は駅の待合室に寝かされた。列車を待つ間、パスパルトゥーは彼女のために、化粧品や服、ショール、毛皮など、いろいろ買ってくることをいいつかった。主人たるフォッグ氏は、パスパルトゥーがうまく買い物をしてくることを疑わなかった。パスパルトゥーはただちに行動を開始した。アルハンブラの大通りにでた。アルハンブラは通称を神の都といった。インドであがめられている町であった。町は二本の神聖な川、ガンジス川とジャムナ川が合流する地点に建っていた。ここを流れる水は、インド半島じゅうの巡礼者のあこがれとされていた。ラーマーヤナの伝説によれば、ガンジス川は天から流れ出しており、ブラーマのお恵みによって、地上へおりてきているのだった。  パスパルトゥーは買い物をしながら、町をじゅうぶん見てまわった。町は昔は立派な砦によって守られていた。砦は今は州刑務所となっている。町の商業は、昔栄えていたとは思えないくらいにまで衰退してしまっていた。パスパルトゥーは、リージェント通りにあるような商店を探したが、無駄足に終わった。最後に初老の、無愛想なユダヤ人に出会った。彼は中古の品を売っていた。パスパルトゥーはそこで、スコッチ織りのドレスや大きなマント、カワウソの毛皮が裏地に縫い込んである立派なコートを買い、気前よく七十五ポンドを支払った。そして意気揚々と駅に帰っていった。  アウダは、ピラジのバラモンにむりやり吸わされた麻薬の酔いからしだいに醒《さ》めてきて、徐々に意識を取り戻してきた。その美しい目は、再びインド人らしい優しさを取り戻していた。  詩人王ウサフ・ウダールはかつて、王妃アメナガラを称えて次のように言った。  「その艶《つや》やかな長髪は真ん中からきちんと二つに分かれ、白くてきめ細かな両|頬《ほお》のなだらかな輪郭を縁取っている。黒い眉は、愛の神カーマの弓に似た形と魅力を持っている。長い絹糸のような睫毛《まつげ》のかげには、大きな澄んだ目があって、その黒い瞳の中には、ヒマラヤの聖なる湖水さながらに、純粋な影と天の光がただよっている。その歯はみな白くきれいで、微笑をたたえた唇のあいだで、半開きの石榴《ざくろ》の花の中にある露の滴さながらに輝いている。繊細な耳、ばら色の手、小さな足、みな白蓮《びゃくれん》のつぼみのごとくふくよかで優美であり、セイロンの最も美しいダイヤモンドみたいな輝きを持っている。胴は細くしなやかで、抱くには片腕で事足りて、ふくよかな脚線美をえがく腰と、若さを示す美しい胸をいっそうひきたてている。それらすべては、宝とすべき若さを見せている。彼女が絹の服のしなやかなひだに包まれると、不朽の彫刻家ヴィクヴァカルマの妙手によって作られた純銀像を思わせる。」  しかし、このような叙事詩と引き比べなくても、アウダの美しさを描くことは可能である。ヨーロッパ風の表現でいっても、アウダは素敵な女性であった。彼女は純粋な英語を話した。その点では、この若い婦人は教育によって変わったというガイドの主張は正しかった。  列車がアルハンブラを出発しようとしていた。フォッグ氏は報酬をガイドに払っていた。だが、約束した値段は払ったものの、それ以上一ファージングも払おうとはしなかった。これにパスパルトゥーは驚いた。主人がいかにパーシー人の献身に負うところが大きかったかをよく覚えていたからだ。事実、彼の命はピラジでの冒険によって危険なものとなっていた。もし狂信者たちに捕まれば、復讐されるに違いないのだ。キウニの処分という問題も残っていた。どうすればいいのだろう? なにしろ高い金を払って購入したのだ。しかし、フィリアス・フォッグの腹は決まっていた。  「君。」彼はガイドに言った。「君はよく私に尽くしてくれた。仕事の報酬は払ったが、尽くしてくれたお礼をしていない。この象を受け取ってくれないか? こいつは君のものだ。」  ガイドの目が光った。  「あなたさまは、このような財産を私めにくださるのですか!」彼はこう叫んだ。  「受け取ってくれたまえ。」フォッグ氏は言った。「これでもまだ、君には借りがあるくらいだ。」  「よかったな!」パスパルトゥーは叫んだ。「受け取ってくれたまえよ。キウニは勇敢で忠実な獣だよ。」  そして、象に歩み寄って、角砂糖をあげながらこう言った。「キウニや。こっちへおいで。」  象はうれしさからブーブー言った。パスパルトゥーの腰を鼻でつかんで、頭のところまで持ち上げた。パスパルトゥーは平然としていた。キウニをやさしくなでてやった。キウニはそっと、パスパルトゥーを地上に降ろした。  数分後、フィリアス・フォッグ、サー・フランシス・クロマーティ、パスパルトゥーは、アウダを車両の特等席に落ち着かせた。列車は全速力でベナレスへと向かっていた。八十マイルの行程を二時間で走る予定だった。  この行程の間に、アウダは完全に意識を回復した。アウダは自分が鉄道の客室にいるのを見てびっくりした。しかも、ヨーロッパ風の服を着て、まったく未知な人と一緒に旅行していたのだ!  アウダが目を覚ますと、一同はリキュールを少し飲ませるなど、何くれとなく世話をしだした。やがて、サー・フランシスが、彼女の身に起こったことを話し始めた。フィリアス・フォッグが彼女を救うために、ちゅうちょなく命を危険にさらしたその勇気を語った。パスパルトゥーの向こう見ずな考えがもたらした幸福な成り行きについて強調した。フォッグ氏は何も言わなかった。パスパルトゥーは恥ずかしがってこう繰り返していた。「そんなことを話すことはないでしょう!」  アウダは、感傷的に感謝の意を表した。その素晴らしい瞳に溢れる涙は、幾千の言葉よりも雄弁に、感謝の気持ちを物語っていた。そして、アウダの思いはあのサッディーの場面へとむかっていき、まだ自分の身に待ち受けている危険のことを思いだして、突然震えだした。  フィリアス・フォッグはアウダが考えていることを理解した。そして、安心させるためにこう申し出た。あなたをホンコンまでお送りしたい。ほとぼりがさめるまでそこに滞在すればよろしいでしょう。アウダはありがたく思い、承知した。アウダにはパーシー人の親類がいて、その中にホンコン在住の著名な商人となった人がいるということだった。ホンコンは中国の沿岸に存在する、イギリス領の都市である。  十二時半に、列車はベナレスに停車した。バラモンたちに伝わる伝説によれば、この都市は昔、カーシーの地に建っていたとされている。そして、マホメットの墓のように、天国と地球の間にぶらさがっていたそうだ。しかし、ベナレスは現在、東洋通の人たちにインドのアテネと呼ばれてはいるものの、実在する固い地面の上に建っている。パスパルトゥーは、レンガでできた家や粘土でできたあばら屋をちらりと見た。そして、列車が止まるところとしては相当に荒れているなぁとぼんやり考えていた。  ベナレスはサー・フランシス・クロマーティの目的地であった。サー・フランシスの属していた部隊は、ベナレスの北数マイルのところで野営していた。准将はフィリアス・フォッグに別れを告げた。フォッグ氏の成功を祈り、次回はもっと平凡な、しかし有益な目的を持って、来ていただきたいと述べた。フォッグ氏は軽い握手を交わした。アウダはサー・フランシスの恩義を覚えていたから、もっと思いやりの心をこめた別れをした。パスパルトゥーに対しては、洒落《しゃれ》者の准将は腕が振れるくらい強くその手を握った。  列車は、ベナレスを離れて、しばらくガンジス川の流域に沿って進んでいった。一行が占めた客室の窓からは、ビハール地方のいろんな景色が次々と表れた。新緑におおわれた山、大麦やら小麦やらコーンやらの畑、緑色のワニが住むジャングル、さっぱりした村や葉っぱがしめっている森などである。象が神聖な川の水に浸っていた。そしてインド人の集団が、空気が肌寒い季節になっているのに、彼らの宗教で義務づけられている沐浴をまじめに実行していた。彼らは熱心なバラモン教徒であった。バラモン教徒は仏教というものを不倶戴天の敵とみなしていた。バラモン教徒の神は、太陽の化身ヴィシュヌ、造化の化身シヴァ、僧侶と立法者との最高支配者ブラーマである。さて、この神々は今日の英国風になったインドをどう考えているのだろうか? 蒸気船が汽笛を鳴らしながらガンジス川を疾走し、水面に浮いているカモメや、浅瀬に群がっているカメや、土手に横たわる信者たちをびっくりさせている今のインドをどう見ているのだろうか?  そのパノラマは、あっという間に一行の目の前を通りすぎていった。ときたま蒸気の煙がそれらを隠した。一行にはチュペニーの砦はほとんど見えなかった。その砦はベナレスから南西二十マイルほどのところにあり、昔はビハール地方を治めていた王の拠点であった。やがてガシプルと、その有名なバラ香水の工場が見えてきた。コーンウォリス卿の墓は、ガンジス川の左岸にたっていた。そして要塞のある町バクサルや、商工業の盛んな町にして、インドにおける主要なアヘン市場が存在するパトナが見えてきた。さらにモンギールが見えてきた。ここは、ヨーロッパ風の町であるが、それ以上にイギリス風であり、マンチェスターやバーミンガムを思わせる。鋳物工場、刃物工場があり、高い煙突から、黒煙がもくもくと吐き出されている。  夜になった。列車は全速力で走っていた。トラやクマやオオカミの声が辺りでしていた。動物たちは機関車に追われて逃げていった。ベンガルの驚異である、ゴルコンダや、廃墟となってしまったグールや、昔は首都だったムルシダバードや、ブルドワンや、ウグリなどの町を次々と通過していった。フランス人の町であるチャデルナゴルも通りすぎた。そこに祖国の旗が翻っているのを見たら、パスパルトゥーはその旗を誇りに思ったであろうが、夜の闇に隠れていて見えなかった。  カルカッタには朝の七時に到着した。定期便は正午にホンコンへ向かって出発する予定だった。つまり、フィリアス・フォッグはこの時点で五時間の余裕を持っていたのである。  フォッグ氏の日程表では、十月二十五日にカルカッタに到着する予定だった。そして実際にこの日に到着したのだった。したがって、予定は進みも遅れもしていなかった。ロンドン〜ボンベイ間で得た二日間は失われていた。読者はその理由を知っているだろう。インドを横断中にその余裕を使ってしまったのである。しかし、容易に想像できるだろうが、フィリアス・フォッグはそのことを少しも苦にしていなかったのである。 ..第十五章:札束の入ったバッグが数千ポンドものお金を吐き出すこと  列車が駅に入った。パスパルトゥーがまず飛び降り、続いてフォッグ氏が、道連れを気遣いながら降りてきた。フィリアス・フォッグはすぐにホンコン行きの汽船に乗り込むつもりだった。もちろん、アウダに快適な船旅をさせるためである。フォッグ氏はずっとアウダにつきそう決心をしていた。なんといっても、この地は一行にとって安全とはいえなくなっているのだ。  フォッグ氏が駅からでてくると、警官が近寄ってきた。彼はこう言った。「フィリアス・フォッグさんですね?」  「いかにも。」  「この人はあなたの従者ですね?」警官はそう言って、パスパルトゥーを指した。  「そうです。」  「それでは二人とも、私と同行して下さい。」  フォッグ氏は驚きの表情をみせなかった。警官は法を代表していた。そして、法律は、イギリス人にとって神聖なものだった。  パスパルトゥーは何でこんなことになったのか聞こうとした。しかし警官は彼を警棒で軽くたたいた。フォッグ氏は従者に「命令に従うんだ」と言った。  「この若い婦人を連れていってもよろしいか。」フォッグ氏が尋ねた。  「いいですよ。」警官は答えた。  三人は、パルキ・ガリ――四輪馬車の一種であり、二頭の馬が引っぱっていた――に連れてこられた。三人が席に座ると、馬車は出発した。馬車が止まるまでの二十分間、誰も口をきかなかった。  馬車はまず、ブラック・タウンと呼ばれているところを通っていった。道は狭く、乞食や汚いあばら屋やみすぼらしい人たちが、そこに集まっていた。それから馬車は、ヨーロッパ・タウンといわれるところを通り抜けた。そこにはレンガ立ての明るい屋敷が並んでいた。ココヤシの木が影を落とし、マストがそこかしこに林立していた。まだ朝も早いのに、馬に乗った上流の人々とか、ぜいたくな馬車がゆきかっていた。  馬車は上品なつくりをした建物の前で止まった。しかし、その外観は個人の邸宅といった感じではなかった。警官は囚人に――まさにそう呼んでもいい扱いだった――馬車を降りるように言った。そして三人を、かんぬきのかかった窓がある部屋へ連れていき、こう言った。「八時半に、オバディア判事の前に出てもらいます。」  そして、ドアを閉めて出ていった。  「なんで逮捕されるんだ!」パスパルトゥーはそう叫び、椅子にへたりこんだ。  アウダは、感情を押し殺そうとつとめながら、フォッグ氏に向かってこう言った。「私に構わずお逃げ下さい。私のせいで、このようなことになったのでございます。私を救っていただいたためなのです。」  フィリアス・フォッグは、そんなことは不可能だと自分に言い聞かせた。サッディーを防いだがために逮捕されるなど、全くありえないことだ。狂信者どもが訴えでるなんてことはしないはずだ。何かのまちがいだ。それに、いずれにしても、アウダは見捨てない。ホンコンまで連れていくのだ。  「でも、船は正午に出るのですよ!」パスパルトゥーはいらいらしていた。  「正午には乗船できる。」穏やかに、フォッグ氏は言いきった。その口調に押され、パスパルトゥーはこう言わずにはいられなかった。「もちろんだ! 正午まえに、きっと乗船しているさ!」しかし、心から信じてはいなかった。  八時半にドアが開き、警官が現れた。三人に、自分の後についてくるように言って、となりの部屋へと案内した。そこはまちがいなく法廷であった。ヨーロッパ人やインド人たちがすでに後ろにひしめきあっていた。  フォッグ氏と二人の連れは、判事と書記に相対する位置にある席を占めた。その後すぐ、まるまると太ったオバディア判事が、書記を従えて入場してきた。判事は、釘にかかっていたかつらを取って、あわただしく頭にのせた。  「第一訴訟事件。」判事が宣言した。それから、頭に手をやって、「おい! これは私のかつらじゃないぞ!」と叫んだ。  「その通りです、閣下。」書記が答えた。「それは私のですから。」  「オイスタープッフ君や。判事が書記のかつらをかぶって、どうすれば名判決を出せるのかね。」  かつらが交換された。  パスパルトゥーはいらいらしていた。判事の頭の上にかけてある大時計の針が、ものすごい勢いで回っているように見えていたからだ。  「第一訴訟事件。」オバディア判事が繰り返した。  「フィリアス・フォッグは?」オイスタープッフが聞いた。  「私です。」フォッグ氏が答えた。  「パスパルトゥーは?」  「ここです。」パスパルトゥーが答えた。  「よろしい。」判事が言った。「あなた方は、この二日間、ボンベイからの列車が到着するたびに見張られていたのです。」  「しかし、なんで私たちは訴えられているのですか?」こらえきれずにパスパルトゥーが尋ねた。  「今それを告げようとしていたんです。」  「私はイギリス人です、判事。」フォッグ氏が言った。「私は正当の権利と―。」  「あなたは不当に扱われたのですか?」  「いいえ。」  「よろしい。原告は入室してください。」  判事の声にあわせて、ドアが開いた。三人のバラモンが入ってきた。  「やっぱりな。」パスパルトゥーがささやいた。「あいつらは、この若い婦人を焼こうとした悪党さ。」  バラモンたちは、判事の前にある所定の場所についた。書記が大声で訴状を読み上げた。フィリアス・フォッグとその従者は不敬罪を犯した、と訴状にはあった。バラモン教によって神聖な場所とされたところに入り込んだ、という罪で告発されていた。  「告発を聞きましたね?」  「聞きました。」フォッグ氏は腕時計を見ながら言った。「それを認めます。」  「認めるのですか?」  「認めます。しかしながら、私はこのバラモンたちに対し、ピラジのパゴダで行おうとしていたことに対する釈明を要求します。」  バラモンたちは互いに顔を見合わせた。明らかに、何を言われたか理解していなかった。  「そうだ!」パスパルトゥーは興奮していた。「ピラジのパゴダで、こいつらはいけにえを焼き殺そうとしていたんだ!」  判事は驚いて二人を見つめていた。バラモンたちは呆然としていた。  「いけにえとは何ですか?」オバディア判事は言った。「誰が焼かれたのですか? ここボンベイで?」  「ボンベイ?」パスパルトゥーは叫んだ。  「そうです。私たちはピラジのパゴダでのことを審議しているのではありません。ボンベイにある、マラバル・ヒルのパゴダでのことを審議しているのです。」  「証拠として。」書記がつけ加えた。「ここに、侵入者が残していった靴があります。」  そして、一足の靴を自分の机の上に置いた。  「ぼくの靴だ!」パスパルトゥーが声をあげた。驚きのあまり、自分が罪を認める発言をしたことに気づかなかった。  この主従は当惑していた。二人はボンベイで起こした事件のことはすっかり忘れていた。しかし、まさしくその事件のせいで、主従ともにカルカッタで拘留されていたのだ。  ボンベイの駅において、フィックス探偵は、パスパルトゥーが犯した行為が、自分にとって有利になることに気づいた。そこで出発を十二時間遅らせ、マラバル・ヒルのバラモンに事件のあらましを聞いたのである。当局はこのような事件に対して非常に厳しくあたることを知っていたので、フィックスはバラモンたちに、この件で多額の損害賠償がとれるぞ、と約束した。そして、次の電車でバラモンたちとともにカルカッタへ向かった。フォッグ氏たちは若い未亡人を助けようとして遅れていたので、フィックスは先にインドの首都に着いてしまった。治安判事はすでに、フィックスからの知らせを受けて、到着しだい逮捕しようと待ちかまえていた。  フィリアス・フォッグがまだカルカッタに現れていないことを知ったときのフィックスの失望は想像に難くない。そして、強盗は途中で列車を降りて、南の方へ逃げていってしまったと考えた。それから二十四時間、フィックスは不安におののきながら駅の見張りをしていた。その努力はついに報われた。フォッグ氏とパスパルトゥーが、フィックスの知らない若い女性を伴って現れたのだ。フィックスはさっそく警官を差し向けた。これによって、フォッグ氏たちが逮捕され、オバディア判事の前に連れてこられたのである。  パスパルトゥーがもう少し注意して法廷を見回していたら、探偵がすみっこで訴訟の一部始終を、彼自身の理由によって、興味を持って見守っていることに気がついただろう。スエズでもボンベイでもそうだったのだが、カルカッタにも令状は届いていなかったのだ。  不幸にもオバディア判事は、パスパルトゥーが思わず発した言葉を聞いていた。  「事実を認めるのですね?」判事は聞いた。  「認めます。」フィリアス・フォッグは冷静に答えた。  「それでは。」判事は繰り返した。「イギリスの法律はインドにおいて人々が信じている宗教を等しく、そして厳しく保護しているのだ。しかるに、被告人パスパルトゥーは、十月二十日、ボンベイにあるマラバル・ヒルの神聖なるパゴダに入り込んだことを認めた。よって、パスパルトゥーに、十五日間の禁固と三百ポンドの罰金を宣告する。」  「三百ポンド!」パスパルトゥーは、罰金の額に驚いて叫んだ。  「静かに!」巡査が注意した。  「さらに、」判事は続けた。「その行為を主人が認めていたかどうかは証明できないが、いずれにせよ、主人たるもの、従者の行為に対しては常に責任を持たなければならない。よって、フィリアス・フォッグに、一週間の禁固と百五十ポンドの罰金を宣告する。」  フィックスは満足し、手をこすりあわせていた。フィリアス・フォッグを一週間カルカッタに引き留めておければ、逮捕令状は必ずや到着するだろう。一方、パスパルトゥーは呆然とした。この判決は主人を破滅させてしまう。二万ポンドの賭けに負けてしまった。それというのも、この俺が、馬鹿げたことにあのしゃくにさわる塔に入ったからだ。  フィリアス・フォッグは冷静だった。まるでこの判決が自分に関係ないと思っているみたいだった。判決が読み上げられている間、眉をひそめさえしなかった。書記が次の事件を読み上げていたちょうどそのとき、立ち上がってこう言った。「保釈金を払います。」  「よろしい、認めます。」判事は答えた。フィックスは血が凍る思いだった。やがて落ち着きを取り戻したが、それは判事が、保釈金としてそれぞれ千ポンドを預けるように宣告したのを聞いたからだ。  「すぐ納めます。」フィリアス・フォッグはそう言うと、パスパルトゥーが持っていた旅行鞄から札束を取り出して、書記の机の上に置いた。  「保釈金は、刑期を終えたときに被告に返却します。」判事が言った。「もちろん、保釈金を納めたのですから、被告はどこへでも行ってよろしい。」  「来るんだ。」フィリアス。フォッグは従者に言った。  「でも、靴だけはせめて返してください!」パスパルトゥーは腹を立てて叫んだ。  「ああ、なんて高価な靴なんだろうな。」靴を返してもらうと、パスパルトゥーはこうつぶやいた。「片方につき千ポンドを超えるんだからな。しかも、俺の足には小さすぎるのに。」  フォッグ氏は、アウダに手をかして、裁判所を出ていった。パスパルトゥーが、すっかりしょげた感じであとに続いた。フィックスはまだあきらめてはいなかった。強盗は結局、二千ポンドはあきらめずに、刑務所で一週間過ごす方を選ぶだろう。そんなことを考えながら、急いでフォッグ氏の後を追った。フォッグ氏は馬車を呼んだ。三人はすぐに波止場に着いた。  ラングーン号は、港から半マイルのところで停泊していた。港の見張り番が、出発の信号を出していた。十一時の鐘が鳴っていた。フォッグ氏は出発時刻に間に合ったのだ。フィックスは、三人が馬車を降り、ラングーン号へ乗るための舟へと向かうのを見て、地団駄《じだんだ》をふんで悔しがった。  「ちくしょう、行ってしまった!」フィックスは叫んでいた。「二千ポンドを捨てつなんて! まったく気前のいい泥棒だよ! こうなったら、やつの行くところ、どこまでもついていってやる! だが、こんな調子だと、盗まれた金はすぐなくなってしまうな。」  探偵の推測は、そうまちがえてはいなかった。ロンドンを出てから、旅行費用・賞金・象の代金・保釈金や罰金などで、フォッグ氏はすでに五千ポンド以上使っていた。銀行強盗から取り戻した金額に応じて、探偵の報酬が決まっていたのだが、それは今やものすごい勢いで減少していたのである。 ..第十六章:フィックスが、いわれたことをいくらか理解しながら、素振りも見せないこと  ラングーン号は、半島・極東株式会社に所属している客船であった。シナとニッポンの海に就航している鋼鉄製のスクリュー船であり、その総トン数千七百七十トン、四百馬力のエンジンを搭載している。速度はモンゴリア号と同じだけ出せたが、モンゴリア号ほどには装備が整ってはいなかった。そのため、アウダに対して、フィリアス・フォッグが望むような快適な生活を提供できる船ではなかった。しかし、カルカッタからホンコンまでの航路は三千五百マイルにすぎず、十日から十二日でいける距離だった。それに、アウダはそう口やかましい客ではなかった。  最初の数日間で、アウダは自分を助けてくれた人のことをよく観察することができた。アウダはフォッグ氏がしてくれたことに対して、いつも変わらぬ感謝の念を表していた。かの紳士はというと、アウダの話に何の反応も示さなかった。その声からも、露ほども感情を読みとれなかった。ただ、フォッグ氏は、アウダに何一つ不自由な思いをさせまいと、常に気を配っていた。彼は毎日、ある時間になると決まってアウダの部屋をたずねた。彼自身が話すだけでなく、座って彼女の話を聞いていた。フォッグ氏はおそろしく上品にアウダをもてなした。だが、その動きはまるで機械のようだった。機械さながらに、アウダを保護していた。  アウダはフォッグ氏のふるまいには大いにとまどった。パスパルトゥーは、主人が風変わりであることを説明した。世界一周が八十日間でできるかどうか賭けをしている、ということを聞いて、アウダは微笑を禁じ得なかった。ただ、アウダはフィリアス・フォッグに命をゆだねたのであり、アウダにとってフォッグ氏は尊敬すべき人物であった。  アウダはパーシー人のガイドが語った彼女の経歴を裏付けた。ガイドの話どおり、インドの民族の中でも高貴な地位に属していた。パーシー人の商人は、その多くが綿貿易によって一財産を築いていた。そのひとり、サー・ジェームズ・ジェジーブホイ氏は、英国政府によって准男爵に列せられていた。アウダはその准男爵の親戚であった。准男爵にはジェジーという名のいとこがいて、アウダはホンコンに着いたら、その人のところへ身を寄せたいと思っていた。そのいとこがアウダを助けてくれるかどうか、アウダには分からなかった。しかし、フォッグ氏はアウダを安心させようと、万事は数学的に――本当に彼はこの言葉を使った――処