訳者あとがき・使用条件はこちら|ダウンロード用テキストはこちら。(zip形式によって圧縮中)
犯人の捜索は断念された。すべては想像の中にあった。一等船客から三等船客(その中には移民する人たちもたくさんいた)まで、すべての乗客が、未解決の謎が説明される最期の一瞬を待っていた。誰がアルセーヌ・ルパンだったんだろう? アルセーヌ・ルパンは、どんな名前で、どんな変装をしてひそんでいたんだろう?
いよいよ最後の瞬間がやってきた。もし今後百年生きたとしても、細部に至るまでいちいち忘れないだろうね。
「青白い顔をしているね、ネリー。」寄り添っている彼女にそう言った。ぼくの腕の中で、ネリーは失神しそうになっていた。
「あら、あなたもですわ。まるで変わってしまっているわ。」彼女が返事をした。
「考えてもごらん。とてもわくわくする瞬間ですよ。ぼくはあなたのそばにいられて、本当に幸せですよ。ネリー、あなたの記憶の中に、ときどきにでも思いだしてくださると思うと……。」
ネリーの息が詰まり、熱気を帯びてきた。ぼくの言葉が耳に入らないらしかった。タラップが下げられた。しかし、ぼくたちがそこを通れるようになるまでにいろんな人たちが甲板にやってきた。税関吏や制服の男たち、郵便配達員といった人たちだよ。
ネリーがつぶやいた。
「もしもアルセーヌ・ルパンが船から逃げだしていたとしても、私は驚きませんわ。」
「彼は逮捕される不名誉よりは死を選ぶでしょうから、大西洋に飛び込んだのかもしれませんね。」
「冗談はおよしになって。」彼女は悩ましげに言った。
突然ぼくは身震いした。理由を聞かれて、こう返事をした。
「タラップのそばにいる、小柄な老人が見えますか?」
「傘を差して、緑のブロックコートを着た人のこと?」
「あれがガニマールです。」
「ガニマール?」
「そうです。必ず自分の手でアルセーヌ・ルパンを逮捕すると誓った、有名な探偵です。ああ、ぼくは今やっと、大西洋のこちら側からニュースが来なかった理由が理解できました。ガニマールがここにいたんですね。彼は自分の仕事を誰かに邪魔されるのがお嫌いなんだそうです。」
「では、ルパンの逮捕は確実ですわね?」
「誰にそう言えますか? ガニマールは変装をしたルパンにしか会ったことがないということですよ。この旅行で使っている偽名を知っているなら話は別ですがね。」
「ああ、逮捕される瞬間を見たいですわ。」その声には、女性特有の残酷な好奇心がこもっていた。
「待ってみましょう。アルセーヌ・ルパンもすでに敵の存在に気づいているはずです。きっと、老人の目が疲れたころになって降りていくつもりでしょう。」
乗客がタラップを降り始めた。ガニマールは、無関心といった感じで、傘にもたれかかっていた。両側の手すりの間にひしめく人たちになんの注意も払っていないように見えた。ガニマールのそばに船員が立っていて、ときどきなにかささやいているようだった。
ド・ラベルタン侯爵、ローソン中佐、イタリア人のリボルタと、乗客が次々に下船していった。その最後尾に、ロゼーヌが近づいていくのが見えた。
かわいそうなロゼーヌ! 彼は自分の身にふりかかった出来事から回復していなかった。
「やっぱり彼なのかもしれませんね。」ネリーが言った。「どう思われます?」
「一枚の写真にガニマールとロゼーヌをおさめるのもとても面白いですね。カメラを持っていただけませんか? 手がふさがっているので。」
ぼくはカメラをネリーに手渡した。しかしそれを使うには遅すぎた。ロゼーヌが手すりを通っていった。船員がガニマールに何かささやいていた。ガニマールは肩をすくめた。ロゼーヌは通りすぎた。
だが、そうなると、アルセーヌ・ルパンとは誰なんだろうか?
「そうだわ、いったい誰なんでしょう。」ネリーがそれを声に出していた。
船には二十人だけ乗客が残っていた。ネリーは彼らを代わる代わる見渡した。アルセーヌ・ルパンが、その中の一人ではありませんようにという、当惑気味な表情を見せながら。
ぼくは彼女に言った。「ぼくたちも、もう待てませんよ。」
ネリーが動いた。ぼくもあとに続いた。しかし、十歩も行かないうちに、ガニマールがぼくたちの前に立ちふさがった。
「これはどういうことですか?」ぼくは叫んだ。
「しばらくお待ちいただきます。何を急いでいるのですか?」
「ぼくは、この方に付き添っているのです。」
「お待ちいただきます。」最初のより奇妙な声でガニマールが繰り返した。
ガニマールは熱心にぼくを見つめた。それから、ぼくをまっすぐに見つめ、こう言ったんだ。
「アルセーヌ・ルパンだろう。」
ぼくは笑った。
「違います。ただのベルナルド・ダンドレジーですよ。」
「ベルナルド・ダンドレジーなら、三年前にマケドニアで死んでいる。」
「ベルナルド・ダンドレジーが死んでいるんなら、今ここにいるはずがないでしょう。そんなことありえませんよ。ここに身分証明もあります。」
「それは確かに彼の書類だ。君がどうやってそれを手にいれたか、喜んで君に話してやるよ。」
「ですが、間違ってますよ!アルセーヌ・ルパンは、Rで始まる名前で旅行しているのですよ。」
「そうだ、それもお前のやり方だ。向こうの大陸ではだましおおせたんだろう、ほんとに君は頭がいいよ!だが、今度はつきに見放されたな。来いルパン。最後は立派に飾るんだ。」
ぼくは二の足を踏んだ。ガニマールがぼくの右腕に傘をふりおろした。ぼくは「痛い!」と叫んだ。電報で言ってただろ、右腕のまだ治ってない傷に当たったんだよ。
降参するしかなかった。ぼくはアンダーダウン嬢の方を見た。ぼくたちの会話を聞いて、顔面蒼白になり、よろめいていた。
ネリーはぼくを見た。その目は次に、ぼくか渡したカメラに注がれた。突然体を震わせた。間違いなく、彼女も察したんだ。そう、盗品はカメラの中にあったんだ。小さいカメラの中に、黒いモロッコ皮でおおわれた空間があってね、その中に、ロゼーヌの二万フランとジェラード嬢の真珠とかダイヤとかを隠していたんだ。だから、ガニマールに逮捕される前に、万が一のことを考えて、ネリーに渡しておいたのさ。
神に誓って言おう。この厳粛な、ガニマールと二人の部下に囲まれた一瞬において、ぼくの逮捕や人たちの敵意といったようなものにはなんの意味もなかった。ただ一つ、ネリー・アンダーダウンがこのぼくの裏切り行為に対してどう行動するのか、それだけが問題だった。そのときネリーは、ぼくに対する重要かつ決定的に不利な証拠を握っていた。ぼくがそのことを気にかけていたかだって? そうじゃないよ、ネリーがその証拠を警察に提出するかどうかだけが重要だったのさ。
ネリーはぼくを裏切るだろうか? ぼくを破滅させるだろうか? ネリーはぼくの敵となる行動をとるのか、はたまたぼくとの想い出を胸に残し、このぼくに少しばかり同情と寛大さを見せてもらえるだろうか、それだけが気になっていた。
ネリーがぼくの前を通りすぎた。ぼくは黙って深々と頭を下げた。ほかの乗客に混じって、ネリーはタラップの方へ進んでいった。手にはコダックカメラを持ったままだった。
「当然だろう。」ぼくは考えた。「人が大勢いる中ではそんな勇気はないはずだ。ここを通り抜けて一時間もしたら、当局に提出するつもりなんだろう。」
ところが、タラップの真ん中あたりに来たとき、ぎこちない動きで、ネリーが船と桟橋の間に見える海にコダックカメラを落としたんだ。
そしてぼくはネリーが去っていくのを見た。
ぼくを魅了した横顔が群衆の中に消えた。また現れて、見えなくなった。これで終わりだった―永遠に終わりだった。
しばらくはデッキで動けなかった。悲しかったけれど、心の奥ではあの甘美な感情に支配されていたんだ。ガニマールも非常にびっくりしてたけどね、ぼくはため息をついてこんなことを言っていたんだ。
「この身が恨めしい……すべて、ぼくが悪かったんだ……。」
以上が、ある冬の日に、アルセーヌ・ルパンが、自分が逮捕された瞬間について話してくれたことです。いずれ書くつもりですが、ふとしたことから、私たちの間には友情(あえてこう書きましょう)が成立していたのです。私はアルセーヌ・ルパンと光栄にも確かな友情を結んでいる、とさえ考えています。私の不意をついて時折尋ねてくるのも、この友情のおかげなのでしょう。アルセーヌ・ルパンは、私の静かな書斎に、若々しい陽気さ、真剣なる人生の輝き、気高い精神を持ち込んでくれます。ただ微笑と好意とでしか報われない運命にある人間だけが持つあの精神のことです。
彼の風貌ですか? なぜ私に言えましょうか? 私はもう二十回もルパンを見ましたが、いつも違った顔で私の前に現れるのです。というか、同じ一人の人間でありながら、多くの鏡みたいに二十の異なったイメージを残していくのです。おのおのが違った目を持ち、それぞれ違う輪郭、ふるまい、生い立ち、個性を持っているのです。
かつて彼が私に言ったことがあります。「ぼく自身、本当の顔を忘れてしまったんだ。鏡の中にさえ、ぼく自身を認められないんだよ。」
もちろん、これは逆説的な警句でしょう。でも、彼とのつきあいを持ち、その無限の能力や忍耐力、並ぶものがないメーキャップ技術、自分の特徴さえも自由にある顔から別の顔へと変えてしまう恐るべき能力に気づかない人にとっては、間違いなく真実なのです。
ルパンは私にこう言いました。「なぜぼくがいつも同じ顔を持つんだい? 常に同じ個性でいるなんて、危険じゃないかね? ぼくの行動だけで十分独創的なのにさ。」
そして、やや誇らしげにこうつけ加えました。
「だれにだって『アルセーヌ・ルパンがここにいるぞ。』と確信を持って言えないならなおけっこう。大切なことは、『これこそアルセーヌ・ルパンがやったことだ。』と間違いなしに言わせることなんだよ。」
これから彼の功績を、ほんの一部ではありますが、お目にかけようと思っています。あんな冬の日に、わざわざ私の静かな書斎にやってきて、私に対する好意から、打ち明け話をしてくれたルパンには、本当に感謝しています……。
この作品の原文は、以下のところから取りました。2002年5月現在、作者、英訳者ともに著作権保護期間を過ぎているのですが、英文を取ってきたファイルがネット上から消えてしまっているため、私の責任でもってとりあえずgoogleキャッシュとともにzip形式で圧縮して配布しております。
http://www.mtroyal.ab.ca/gaslight/lupinX01.htm(2002/9現在、復活しているようです)
http://www.e-freetext.net/arrest.zip
一部《》によってルビをふってあります。また、[]によって、注があることを示してあります。なお、注はこのテキストでは終わりにつけました。
【付記】
参考までに、Gaslightのファイルについている使用条件を訳してみました。もちろん、これは法律文書の一種なので、これをあてにしないで、原文に当たることをお勧めしておきます。
| Permissions GaslightのファイルはGaslight discussion listに基づいて作られており、Mount Royal Collegeによってもホストされている。しかし、個人的利用のためにファイルにアクセスすることは自由である。学術的、または非営利目的のためにファイルを配布することは自由である。通常のGaslightファイルや、著作権が設定されているファイルから、あなたが住む国での「フェア・ユース」にのっとって引用することは自由である。 Gaslightのファイルは商業利用のために用意したものではない。 |
【訳者あとがき】
この作品は、アルセーヌ・ルパンが世界に初登場した作品になります。作者であるモーリス・ルブランが、友人の誘いに応じて、創刊間もない雑誌に発表したものです。この作品が好評を博したために、ルブランは次々とルパンものを発表していきました。その代表作としては『813』『奇岩城』なんかがあるのではないでしょうか。
日本では、作品によっては多くの出版社から翻訳されています。それだけよく知られた人物ではありますが、意外にも、ルパン物が現在読まれているのはフランスと日本だけらしいです。その証拠に、ルパンものを探してインターネットをちょっと散歩してきましたが、英語で書かれたルパンものが意外とないんですね。グーテンベルグには『水晶栓』しかなかった(2001/7当時。今はもう少し増えています)ですし、この作品を取ったページも現在作成中(同じく2001/7当時)でした。
私の訳文でアルセーヌ・ルパンのイメージを伝えることができたかどうか、心配になってきましたが、暇つぶしにでも読んでいただければ幸いです。
2001.7.7
原作:The arrest of Arsene Lupin
原作者:Maurice Leblanc(モーリス・ルブラン)(1864-1941)。Translated by Alexander Teixeira de Mattos (1865-1921)
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翻訳履歴:2002年5月27日、原作者の著作権保護期間が過ぎたことを受けてとりあえず公開。
2002年9月6日、html版を公開。
2002年9月19日、枯葉さんのご指摘により訂正。
2002年10月6日、訳文一部手直し、使用条件を明確化。
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