貧乏物語 河上肇著 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大阪《おおさか》朝日新聞 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)故|啄木《たくぼく》氏は [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は底本のページと行数) (例)もっと[#「もっと」に傍点]食べさして マルクスの※[#「敖/耳」、読みは「ごう」、120-12]牙《ごうが》な ------------------------------------------------------- 序  この物語は、最初余が、大正五年九月十一日より同年十二月二十六日にわたり、断続して大阪《おおさか》朝日新聞に載せてもらったそのままのものである。今これを一冊子にまとめて公にせんとするに当たり、余は幾度かこれが訂正増補を企てたれども、筆を入るれば入るるほど統一が破れて襤褸《ぼろ》が出る感じがするので、一二文字の末を改めたほかは、いったん加筆した部分もすべて取り消して、ただ各項の下へ掲載された新聞紙の月日を記入するにとどめておいた。ただし貧乏線を論ずるのちなみに額田《ぬかた》博士の著書を批評した一節は、その後同博士の説明を聞くに及び、余にも誤解ありしを免れずと信ずるに至りしがゆえに、これを削除してやむなくその跡へ他の記事を填充《てんじゅう》し、また英国の食事公給条例のことを述べし項下には、事のついでと思って、この条例の全文を追加しておいた。ただこの二個所がおもなる加筆であるが、しかしそれでさえ、こうして印刷してみると、いかにもよけいなこぶができたようで、むだなことをしたものだと後悔している次第である。過去十数年間私はいろいろなものを書いたけれども、この論文ほどまとまったものはない。自分ではこれが今日までの最上の著作だと思う。と言ったからとて、――念のために付け加えておくが――世間の相場でこれを良書の一と認めてもらいたいなどという意味の要求をするのでは毛頭ない。  人はパンのみにて生くものにあらず、されどまたパンなくして人は生くものにあらずというが、この物語の全体を貫く著者の精神の一である。思うに経済問題が真に人生問題の一部となり、また経済学が真に学ぶに足るの学問となるも、全くこれがためであろう。昔は孔子のいわく、富にして求むべくんば執鞭《しつべん》の士といえども吾《われ》またこれを為《な》さん、もし求むべからずんばわが好むところに従わんと。古《いにしえ》の儒者これを読んで、富にして求めうべきものならば賤役《せんえき》といえどもこれをなさん、しかれども富は求めて得《う》べからず、ゆえにわが好むところに従いて古人の道を楽しまんと解せるがごときは、おそらく孔子の真意を得たるものにあらざらん。孔子また言わずや、朝《あした》に道をきかば夕べに死すとも可なりと。言うこころは、人生唯一の目的は道を聞くにある、もし人生の目的が富を求むるにあるならば、決して自分の好悪をもってこれを避くるものにあらず、たといいかようの賤役なりともこれに従事して人生の目的を遂ぐべけれども、いやしくもしからざる以上、わが好むところに従わんというにある。もし余にして、かく解釈することにおいてはなはだしき誤解をなしおるにあらざる以上、余はこの物語において、まさに孔子の立場を奉じて富を論じ貧を論ぜしつもりである。一部の経済学者は、いわゆる物質的文明の進歩――富の増殖――のみをもって文明の尺度となすの傾きあれども、余はできうるだけ多数の人が道を聞くに至ることをもってのみ、真実の意味における文明の進歩と信ずる。しかも一経済学者たる自己現在の境遇に安んじ、日々富を論じ貧を論じてあえて倦《う》むことなきゆえんのものは、かつて孟子《もうし》の言えるがごとく、恒産《こうさん》なくして恒心《こうしん》あるはただ士のみよくするをなす、民のごときはすなわち恒産なくんば因《よ》って恒心なく、いやしくも恒心なくんば放辟邪侈《ほうへきじゃし》、ますます道に遠ざかるを免れざるに至るを信ずるがためのみである。ラスキンの有名なる句に There is no wealth, but life(富何者ぞただ生活あるのみ)ということがあるが、富なるものは人生の目的――道を聞くという人生唯一の目的、ただその目的を達するための手段としてのみ意義あるに過ぎない。しかして余が人類社会より貧乏を退治せんことを希望するも、ただその貧乏なるものがかくのごとく人の道を聞くの妨げとなるがためのみである。読者もしこの物語の著者を解して、飽食暖衣をもって人生の理想となすものとされずんば幸いである。  著者経済生活の理想化を説くや、高く向上の一路をさすに似たりといえども、彼あによくその説くところを自ら行ない得たりといわんや。ただ平生の志を言うのみ。しかも読者もしその人をもってその言を捨てずんば、著者の本懐これに過ぐるはあらざるべし。  巻頭に掲ぐるところの画像は、経済学の開祖アダム・スミスの肖像である。今や氏の永眠をさること百有余年、時勢の変に伴うて学説の改造を要するものもとより少なからずといえども、いやしくも斯学《しがく》を攻究するものにして氏の学恩をこうむらざる者はほとんどまれなり。ことにその潜心窮理の勝躅《しょうちょく》に至っては、ことごとく探ってもって後学の範となすべきものがある。すなわちその画像を巻首に載せ、いささか追慕の意を表する次第である。原図はアダム・スミス永眠後二十年、すなわち一八一一年の十一月二十五日、ロンドンなる一書林より発売せし一枚売りの肖像にして、現に京都帝国大学付属図書館に蔵するもの。印刷の都合により画像とその下なる数行の文字との間隔をば少しく縮めたるほかは、きわめて忠実に原図を複写せしものである。  この物語には細目を付せず。こは必ずしも労をいといてにはあらず、ただ読まるべくんば前編を通読されんこと、これ著者の希望なるがためである。  付録としてロイド・ジョージに関する拙文二編を収む。一は昨年の七月執筆せしものにて、他は来年の一月稿を成せしものである。けだし氏は真に貧乏根治の必要を理解せる大政治家の一人として、著者の平生最も尊敬するところ。あわせ録して敬意をいたすの徴となすゆえんである。  本書の装幀《そうてい》はすべて舎弟の手を煩わす。すなわち本書の印刷と発行は皆これを京都において営み得たるが上に、文章と装幀に至ってはことごとく我が家の産物である。思うにこの書成るの日、一本を父に送らば、おそらく莞爾《かんじ》としてしばらくは手に巻を放たれざらん。 [#ここから3字下げ] 大正六年一月二十五日               京都 河上肇 [#ここで字下げ終わり] 貧乏物語 河上肇著        一の一  驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である。一昨昨年(一九一三年)公にされたアダムズ氏の『社会革命の理[#原注*]』を見ると、近々のうちに社会には大革命が起こって、一九三〇年、すなわちことしから数えて一四年目の一九三〇年を待たずして、現時の社会組織は根本的にて顛覆《てんぷく》してしまうということが述べてあるが、今日の日本にいてかかる言《げん》を聞く時は、われわれはいかにも不祥不吉《ふしょうふきつ》な言いぶんのように思う。しかし翻って欧米の社会を見ると、冷静なる学究の口からかかる過激な議論が出るのも、必ずしも無理ではないと思わるる事情がある。英米独仏その他の処邦、国は著しく富めるも、民ははなはだしく貧し。げに驚くべきはこれら文明国における多数人の貧乏である。  *Brooks Adams, Theory of Social Revolutions, 1913.  私は今乾燥無味の統計を列挙して多数貧民の存在を証明するの前、いうところの貧民とはなんぞやとの問題につき、一応だいたいの説明をする必要がある。  昔釈雲解という人あり、「予他邦に遊学すること年有りて、今文政十二己丑《きちゅう》の秋郷《きょう》に帰る時に、慨然として心にいたむ事有りて、一夜これを燈下に草《そう》して里人にあとう」と言いて『生財弁』一巻(『通俗経済文庫』第二巻に収む)を著わす。その中にいう「貧《まず》しきと賤《いや》しきとは人の悪《にく》むところなりとあらば、いよいよ貧乏がきらいならば、自ら金持ちにならばと求むべし、今わが論ずるところすなわちその法なり、よっていっさい世間の貧と福とを引き束ねて四通りを分かつ、一ツには貧乏人の金持ち、二ツには金持ちの貧乏人、三ツには金持ちの金持ち、四ツには貧乏人の貧乏人」。すなわちこの説に従わば、貧乏人には金持ちの貧乏人と貧乏人の貧乏人との二種あることとなる。  今余もいささか心にいたむ事あってこの物語を公にする次第なれども、論ずるところ同じからざるがゆえに、貧乏人を分かつこともまたおのずから異なる。すばわち余はかりに貧乏人を三通りに分かつ。第一の意味の貧乏人は、金持ちに対していうところの貧乏人である。しかしてかくのごとくこれを比較的の意味に用い、金持ちに対して貧乏人という言葉を使うならば、貧富の差が絶対的になくならぬ限り、いかなる時いかなる国にも、一方には必ず富める者があり、他方にはまた必ず貧しき者があるということになる。たとえば久原《くはら》に比ぶれば渋沢《しぶさわ》は貧乏人であり、渋沢に比ぶれば河上《かわかみ》は貧乏人であるというの類である。しかし私が、欧米諸国にたくさんの貧乏人がいるというのは、かかる意味の貧乏人をさすのではない。  貧乏人ということばはまた英国の pauper すなわち被救恤者《ひきゅうじゅつしゃ》という意味に解することもある。かつて阪谷《さかたに》博士は日本社会学院の大会において「貧乏ははたして根絶しうべきや」との講演を試み、これを肯定してその論を結ばれたが、博士のいうところの貧乏人とはただこの被救恤者をさすのであった。(大正五年発行『日本社会学院年報』第三年度号)。私はこれをかりに第二の意味の貧乏人と名づけておく。ひっきょう他の救助を受け人の慈善に依頼してその生活を維持しおる者の謂《いい》であるが、かかる意味の貧乏人は西洋諸国においてはその数もとより決して少なしとはせぬ。たとえば一八九一年イングランド(ウェールズを含む)の貧民にして公の救助を受けし者は、全人口千人につき平均五十四人、すなわち約十八人につき一人ずつの割合であり、六十五歳以上の老人にあっては、千人につき平均二百九十二人、すなわち約三人に一人ずつの割合であった。統計は古いけれども、これでその一斑はわかる。さればこの種の貧民に関する問題も、西洋諸国では古くからずいぶん重要な話題にはなっているが、しかしこれもまた私がここに問題とするところではない。  私がここに、西洋諸国にはたくさんの貧乏人がいるというのは、経済学上特定の意味を有する貧乏人のことで、かりにこれを第三の意味の貧乏人といっておく。そうしてそれを説明するためには、私はまず経済学者のいうところの貧乏線[#原注*]の何ものたるやを説かねばならぬ。 (九月十二日)  * “Poverty line”        一の二  思うにわれわれ人間にとってたいせつなものはおよそ三ある。その一は肉体《ボディ》であり、その二は知能《マインド》であり、その三は霊魂《スピリット》である。しかして人間の理想的生活といえば、ひっきょうこれら三のものをば健全に維持し発育させて行くことにほかならぬ。たとえばからだはいかに丈夫でも、あたまが鈍くては困る。されば肉体《ボディ》と知能《マインド》と霊魂《スピリット》、これら三なものの自然的発達をば維持して行くがため、言い換うれば人々の天分に応じてこれら三のものをばのびるところまでのびさして行くがため、必要なだけの物資を得ておらぬ者があれば、それらの者はすべてこれを貧乏人と称すべきである。しかし知能《マインド》とか霊魂《スピリット》とかいうものは、すべて無形のもので、からだのように物さしで長さを計ったり、衡《はかり》で目方を量ったりすることのできぬものであるから、実際に当たって貧民の調査などする場合には、便宜のため貧乏の標準を大いに下げて、ただ肉体のことのみを眼中に置き、この肉体の自然的発達を維持するに足るだけの物をかりにわれわれの生存に必要な物と見なし、それだけの物を持たぬ者を貧乏人として行くのであって、それが私のいう第三の意味の貧乏人である。  さてこの肉体を維持するに最も必要なるものは食物であるが、これはもろもろの学者の精密な研究の結果によりて、西洋では大人《おとな》の男子で普通の労働をしている者は、まず一日三千五百カロリーの熱量を発するだけの食物をとればよいということがわかっておる。有名なるローンツリー氏の貧民調査などはすなわちこれを標準としたものである。ここに一カロリーというは、水一キログラム(すなわち二百六十七匁)を摂氏の寒暖計にて一度だけ高むるに要する熱の分量である。けだしわれわれ人間のからだはたとえば蒸気機関のごときもので、食物という石炭を燃やさなければ、この機械は運転せぬのである。そこでそのからだという機械の運転に必要な食物の分量は、これを科学的に計算するに当たりては、米何合とか肉何斤とか言わずに、すべてカロリーという熱量の単位に直してしまうのである。  しからば人間のからだを維持するにちょうど必要な熱の分量はこれをいかにして算出するかというに、これについてはいろいろの学者の種々なる研究があるが、試みにその一例を述ぶれば、監獄囚徒に毎日一定の労働をさせ、そうしてそれに一定の食物を与えて、その成績を見ていくのである。最初充分に食物を与えずにおくと、囚徒らは疲労を感じて眠《ねぶ》たがる。何か注文があるかと聞くと、ひもじいからもっと[#「もっと」に傍点]食べさしてほしいと言う。そうして体量を秤《はか》って行くとだんだんに減ずるのである。そこで次には食物の分量をずっと[#「ずっと」に傍点]ふやしてみる。そうすると体重はふえだす。何か注文があるかと聞くと、今度はもう少しうまい[#「うまい」に傍点]物を食べさせてほしいというようにぜいたくを言いだす。食物に対する欲求が分量から品質に変わって来る。英国のダンロップ博士がスコットランドの囚徒について試験したのはこの方法によったものであるが、この時の成績(一九〇〇年パリーに開催されたる第十三回万国医学大会において報告)によると、二個月間毎日三千五百カロリーの熱量を有する食物を与えておいた時には、普通の体重を有する囚徒のうち約八割二分の者は次第にその体重を減じて来たが、三千七百カロリーの熱量を有する食物を与えてみると、約七割六分の者は次第にその体重を増加するかまたは維持することができたという。すなわちこの時の試験によると、三千五百カロリーの熱量を有するだけの食物では少し不足だという事になるのだけれども、しかし試験に供せられた囚徒は日々石切りを仕事としている者で、相当激しい労働に従事していたわけなので、現にダンロップ博士自身も普通の人で軽易な仕事をしておる者には三千百カロリーの食物で充分だろうと言っているのである。そこでローンツリー氏の貧民調査などでは、前に述べたごとく三千五百カロリーをもって普通の労働に従事せる大人《おとな》の男子に必要な一日分の熱量と見なしたのである。(九月十三日)        一の三  西洋と日本とにては気候風土も同じからず、また西洋人と日本人とにては人種体質も異なる次第なれば、一概には定めがたけれども、前回に述べしようの方法にて、西洋にては男子の大人《おとな》にて普通の労働に従事する者は、一日約三千五百カロリーの熱量を有する食物を摂取せば可なりということ、ほぼ学者間の定説である。よりてこれを大体の標準となし、女子ならばいかほど、子供ならばいかほどというように、性及び年齢に応じて、それぞれ必要な食物の分量を決めて行くのである。  ちなみにいう、先の大統領タフト氏を総裁とせる米国生命延長協会の校定に成れる『いかに生活すべきか[#原注*]』を見るに、一日一人の所要熱量をば約二千五百カロリーとしてある。すなわちこれに比ぶれば、前に述べたるローンツリー氏らの標準ははなはだ過大に失せるがごとく見ゆるも、かかる差異は、食物と労働との関係を計算に入るると否とによりて生ずるのである。現に『いかに生活すべきか』には「普通の座業者は一日約二千五百カロリーを要する、しかしからだが大きくなればなるほど、また肉体的労働に従事すればするほど、ますます多くの食物を要する」と断わってある。しかるに貧乏人は、いずれの国においても最も多くの肉体的労働に従事しつつあるものである。これ貧乏線測定の標準とすべき所要食料の分量が、普通人のために設けられたる標準とやや相違するところあるゆえんである。  [#原注*] How to Live, 1916. p. 30.  思うに所要熱量が労働の多少に大関係を有することは論をまたぬが、試みにその程度を示さんがために、私は左に一表を掲げる。これはフィンランドの大学教授ベケル及びハマライネンの二氏が、個々の労働者につきその実際に消費するところの熱量を測定したものである。 [#ここから2字下げ]  職業         年齢 身長(フィート―インチ) 体重(ポンド) 休業中一時間内の消費熱量 労働中一時間内の消費熱量 一日間の消費総熱量(八時間労働、十六時間休養) 製靴業《せいかぎょう》 五六    五―〇        一四五         七三          一七二               二五四四           同           三〇    五―八        一四三         八七          一七一               二七六〇           裁縫師         三九    五―五        一四一         七二          一二四               二一四四           同           四六    五―一〇・五     一六一        一〇二          一三五               二七一二           製本業         一九    六―〇        一五〇         八七          一六四               二七〇四           同           二三    五―四・五      一四三         八五          一六三               二六六四           金属工         三四    五―四        一三九         八一          二一六               三〇二四           同           二七    五―五        一三〇         九九          二一九               三三三六           ペンキ塗り       二五    五―一一       一五四        一〇四          二三一               三五一二           同           二七    五―八        一四七        一一一          二三〇               三六一六           指物師《さしものし》  四二    五―七        一五四         八一          二〇四               二九二八           同           二四    五―五・五      一四一         八五          二四四               三三一二           石工          二七    五―一一       一五六         九〇          四〇八               四七〇四           同           二二    五―八        一四一         八五          三六六               四二八八           木挽《こびき》     四二    五―五        一六七         八六          五〇一               五三八四           同           四三    五―五        一四三         八四          四五一               四九五二            (右『いかに生活すべきか』一九五ページに引くところを抄録す[#原注*]) [#原注*] Skandinavisches Archiv fur[# fur はウムラウト(¨)付き] Physiologie. XXXI. Band 1, 2 u, 3. Heft, Leipzig. [#ここで字下げ終わり]  右の表によりて見る時は、われわれの所要熱量は労働中と休業中とによりて大差あり、また労働の種類によりて大差あることが、きわめて明瞭《めいりょう》である。しかして私がここに特に読者の注意を請わんとするは、労働中と休業中とにおける所要熱量の差異であるが、右の表によれば、木挽《こびき》業者のごときは、その労働中の所要熱量は休業中のほとんど五倍ないし六倍に達するのである。さればこれら労働者の摂取すべき熱量を定むるに当たりては、常にその労働時間の多少を考慮に入るるの必要あるものにて、現に前表における木挽《こびき》のごとき、一日八時間の労働ならば、その消費総熱量は約五千カロリーなれども、もし労働時間を延長してかりに十二時間となさんか、約七千カロリーを要する計算となるのである。  労働時間の長短が所要熱量の多少に影響することかくのごとし。しかしてこの点より言えば、日本の労働者は西洋の労働者に比して、からだこそ小さけれ、はるかに多くの労働時間に服しつつあるがゆえに、その所要食料は西洋人に比しはははだしき差異はなかるべきかと思う。  さて話がつい横道にそれたが、すでに一人前の生活に必要な食物の分量が決まったならば、次にはそれだけの食物を得るのにいかほどの費用がいるかを見なければならぬ。詳しく言えば、所定の熱量を有する食物を得るのに、できうるだけじょうずに、すなわちなるべく安くてしかもなるべく滋養価の多い物を買うことにすれば、一定の物価の下で、およそいかほどの費用がかかるかを調べるのである。そうすれば、一人の人間の生活に必要な食料の最低費用が計算できるはずである。  かくのごとくにして、食費のほか、さらに被服費、住居費、燃料費及びその他の雑費を算出し、それをもって一人前の生活必要費の最下限となし、これを根拠として貧乏線という一の線を描く。しかしてこの線こそ、実際の調査に当たり、私が先にいうところの第三の意味における貧富の標準となるもので、すなわちわれわれは、この一線によって世間の人々を二類に分かち、かくてこの線以下に下れる者、言い換うればこの生活必要費の最下限に達するまでの所得をさえ有しおらざる者は、これを目《もく》して貧乏人となし、これに反しこの線以上に位しそれ以上の所得を有しいる者は、これを貧乏人にあらざる者と見なすのである。 (九月一四日)        一の四  私はすでに貧乏線の何ものたるやを説明し、従うてまた第三の意味における貧乏人の何ものたるやも一応は説明したわけである。しかしまだその話を続けなければならぬというのは、貧乏線以上にある者とそれ以下にある者とのほかに、あたかもその線の真上に乗っている者があるからである。ここにあたかも貧乏線の真上に乗っている者というのは、その収入がまさに前回に述べたる生活必要費の最下限に相当しつつある者の謂《いい》である。従うてこれらの輩は、その収入の全部をばあげて肉体の健康を維持するの用途にのみあつるならば、かろうじて栄養不足に陥ることを免るれども、もしこれと異なり、少しにてもその収入をば肉体の健康を維持するの目的以外に費やすならば、それだけ食費その他の必要費に不足を生じ、その健康をそこのうことになるのである。言うまでもなく、肉体の健康を維持する費用のみがわれわれの生活に必要な費用の全部ではない。たとえば衣服にしても、職業の種類によっては、単に寒暑を防ぎ健康に害なきだけのもので満足しておるわけにはゆかぬ。また子供がおれば学校にも出さなければならぬ。親の情としてただに子供の肉体を丈夫に育てるのみならず、その精神霊魂をも健全に育てる苦心をしなければならぬ。しかしまさに貧乏線上にある人々は、すべてかくのごとき用途にあつべき余裕をもたぬ者であるから、たといいかに有益または必要なる事がらなりとも、もし肉体の健康維持という目的以外に何らかの支出をするならば、これらの人々はそれだけ肉体の健康を犠牲にしなければならぬのである。煙草《たばこ》を用い酒を飲みなどすればむろんのこと、新聞紙を購読しても、郵便一つ出しても、そのたびごとに肉体の健康を犠牲にしなければならぬのである。  まさに貧乏線上に乗りおる人々の生活はかくのごときものである。それゆえわれわれは、ただに貧乏線以下にいる人々をもって貧乏人に編入するのみならず、あたかもその線の真上に乗りおる人々をもやはり貧乏人として計上するのである。ここにおいてか、いうところの貧乏人はおのずから分かれて二種類となる。すなわちかりに名づけて第一級の貧乏人というは、前回に述べたるごとく、貧乏線以下に落ちおる人々のことにして、また第二級の貧乏人というは、以上述べきたりしがごとく、まさに貧乏線の真上に乗っている人々のことである。しかしてこれら第一級及び第二級の貧乏人こそ、以下この物語の主題とするところの貧乏人である。  これによって見れば、私がこの物語でいうところの貧乏人なる者の標準は、その程度が実にはなはだしく低いものなのである。私は、次回から西洋における貧乏人のきわめて多数に上りつつある事を述べようと思うが、私はあらかじめ読者に向かって、その時私の列挙するところの数字はいずれもほぼ以上の標準によるものなることを忘れられぬよう希望しておく。ことわざに、すべて物事を力強く他人の頭に打ち込むためにはこれを誇張するよりもむしろ控えめに言えということがあるが、私は何もそんな意味の政略からわざと話を控えめにするのではない。ただ叙述を正確にするために、従来人々の採用した標準をば、ただそのまま踏襲しようとするに過ぎぬ。  さて私は以上をもって貧乏なる語に種々の意味あることを明らかにし、ようやくこの物語の序言を終うるを得た。今振り返ってこれを要約するならば、貧乏なる語にはだいたい三種の意味がある。すなわち第一の意味における貧乏なるものは、ただ金持ちに対していう貧乏であって、その要素は「経済上の不平等《エコノミック・インイクオリテー》」である。第二の意味における貧乏なるものは、救恤《きゅうじゅつ》を受くという意味の貧乏であって、その要素は「経済上の依頼《エコノミック・デペンデンス》」にある。しかして最後に述べたる意味の貧乏なるものは、生活の必要物を享受しおらずという意味の貧乏であって、その要素は「経済上の不足《エコノミック・インサフィセンシイ》」にある。  すでに述べしごとく、この物語の主題とするところは、もっぱら第三の意味における貧乏であるけれども、なお時としては、おのずから第一ないし第二の意味の貧乏に言及することもありうる。しかしその時には必ず混雑を避くるために、私は常に相当の注意を施すことを忘れぬであろう。 (九月十五日)        二の一  私のいうところの貧乏人の意味は、前数回において私のすでに説明したところである。しからばその標準にもとづき、今日の文明諸国において、かくのごとき貧乏人ははたしてどれだけいるかというに、そは実に驚くべき多数に上りつつある。  試みに世界最富国の一たる英国の状態についてその一斑を述べんに、一八九九年富裕なる商人の篤志家ローンツリーなる人がヨーク市(当時人口七万五千八百十二人)にて綿密なる調査をなせし結果によれば、当時第一級の貧乏人に属する者総数七千二百三十人、いずれも皆労働者階級のものなるが、これをば労働者総数に比較せばその一割四分四厘六毛に当たり、人口総数に比較せばその九分九厘一毛を占む。また第一級及び第二級の貧乏人を合計せばその総数二万三百二人、これまたいずれも労働者階級の者にして、その割合は実に労働者総数の四割三分四厘、人口総数の二割七分八輪四毛であったという。これは特に経済界の好景気なりし一八九九年の調査なれども、その結果は実にかくのごときものであった。すなわち貧乏線以上に抜け出ることあたわず、肉体の健康を維持するだけの所得さえ十二分に得《う》ることあたわざる者が、全市人口のほとんど三割に近づきつつあることがわかったのである[#原注*]。 [#原注*] B. Seebohm Rowntree, Poverty: A Study of Town Life.  なおこれより先リバープールの商人にして船主なりしチャーレス・ブースなる人(氏は近ごろ永眠せり)は、少なからざる年月と私財の大半とをさいて、ロンドン全市にわたる大規模の貧民調査をしたことがある。そうしてその結果は『ロンドンにおける人々の生活及び労働』という大冊十巻の著書となって公にされ、その第一編は「貧乏」と題してあって、これは二巻から成り立ち、初めて一八九一年に出版されたものであるが、それで見ると、ロンドンにおける貧乏人の割合(百分比)は総体の人口の内で [#ここから2字下げ] 最下層民(The lowest class) 〇・九% 細  民(The very poor) 七・五 貧  民(The poor) 二二・三 [#ここで字下げ終わり] となっておる、すなわちこれを合計すると全体の人口のうち三割零七厘だけのものは貧乏人だということになっておる[#原注*]。もっともこのブース氏の調査は、先に貧乏線の何ものたるやを説明せし時述べたるがごときさまで正確なる標準によったものではないが、ともかくこの調査が発表された時には、それはロンドン市だけのことで、他の都会になるとよほど事情が違うだろうという説がもっぱら行なわれていたのである。ところがローンツリー氏がさらに物静かないなか町のヨークで調査を遂げてみたところが、前に述べたごとく、ロンドンにおける調査の結果とほとんど同じ事実が出て来たのである。 [#原注*] Charles Booth, Life and Labour of the People in London. First series: Poverty. 1902(1st ed. 1891) vol.2, pp 20,21.  同じような事が続くのでおもしろくないが、話を正確にするために今一つ最近に行なわれた調査のことを簡単に述べておくが、これは一九一二年の秋から翌一九一三年の秋にかけて行なわれた調査で、その結果は統計学者のボウレイという人とバーネット・ハーストという人との共著になって昨年(一九一五年)公にされたものである。これは先に述べたローンツリー氏のそれのごとく調査の範囲を一都市に限らずして、なるべく事情を異にせる都市をば四個所だけ選び、それについて調査を行なったのであるが、場所によるとローンツリー氏の調査の結果よりもいっそうひどい成績が出た所もあるのである。すなわちローンツリー氏の調査の時は、第一級の貧乏人に属する者は全市人口の一割弱であったのが、今度の調査によると、レディング(スコットランドの中央東部に位する人口約八万七千の都市)では全市人口の五分の一(すなわち二割)、ウォリントン(イングランドの北西でウェールズに近き所の海岸に位する人口約七万二千の都市)では全市人口の八分の一が第一級の貧乏人であって、これらはいずれもヨーク市よりひどいのである。しかしノルザンプトン(イングランドの中部でロンドンの北西に位する人口約九万の都市)ではその割合十二分の一、スタンレー(ロンドンの西に位せる人口約二万三千の小都市)では十七分の一に過ぎなかったので、これらはヨーク市よりも良好の状態にあるわけである[#原注*]。 [#原注*] Bowley and Burnett-Hurst, Livelihood and Poverty, 1915. pp.34―38.  かくのごとく都市の経済事情いかんによってその割合は必ずしも一様でないけれども、ともかく以上述べたる二三の例によって見る時は、世界最富国の一たる大英国にも、肉体の健康を維持するだけの所得さえもち得ぬ貧乏人が、実に少なからずおることがわかる。  なお以上述べしところは、ブース氏の調査を始めとし、すべて第二の意味の貧乏人(すなわち慈善工場その他救貧制度の恩恵の下に生活しつつある被救恤者《ひきゅうじゅつしゃ》)は皆除外してあって、それは少しも計算に入れてないのである。してみると、いかに貧乏人が英国にたくさんいるかということがますますよくわかる。げに英国は世界一の富国というけれども、その英国には貧乏人がかくのごとくたくさんいるのである。 (九月十六日)        二の二  今日の英国にいかに多くの貧乏人がいるかという事は、私のすでに前回に述べたところである。今かくのごとき多数の貧乏人の生ずる根本原因はしばらくおき、かりにその表面の直接原因を調べてみるに、たとえば先に述べたヨーク市の研究によれば、第一級の貧乏人の原因別(百分比)は次のごとくである。(ローンツリー『貧乏』縮刷版、一五四ページ[#原注*]) [#ここから2字下げ] 主たるかせぎ人は毎日規則正しく働いていながらただその賃銭が少ないため………五一・九六% 家族数の多いがため(四人以上の子供を有する者)……………………………………二二・一六 主たるかせぎ人の死亡のため………………………………………………………………一五・六三 主たるかせぎ人の疾病又は老衰のため………………………………………………………五・一一 主たるかせぎ人の就業の不規則のため………………………………………………………二・八三 主たるかせぎ人の無職のため…………………………………………………………………二・三一 [#ここで字下げ終わり] [#原注*] Rowntree, Poverty (Cheap edition), p.154. [#図省略]  ことわざにかせぐに追い付く貧乏なしというが、右の表によって見れば、毎日規則正しく働いていながらただ賃銭が少ないために貧乏線以下に落ちている者が、全体の半ば以上すなわち約五割二分に達しているのである。なお四人以上の子供を有する者は、家族数の多いがためにという原因の方に編入されているのだが、もしそれを合計するならば、第一級の貧乏人のうち約七割四分だけのものは、毎日規則正しくかせいでいながら、ただ賃銭が少ないかまたは家族数が多いがために貧乏線以上に浮かび得ぬのである。そうして主たるかせぎ人の疾病または老衰のために、あるいはその無職のために、あるいは就業の不規則なるがために貧乏している者は、すべてそれらを合計するも全体の一割二分余に過ぎぬのである。  さらにレディング、ウォリントン、ノルザンプトンの三都市について(スタンレイは鉱業地にして事情を異にするのみならず、調査材料が少なきがゆえに除外す)、第一級の貧乏人の原因別(百分比)を見るに次のごとくである。(ボウレイ『生計と貧乏』四〇〇ページ[#原注*]) レディング市 ウォリントン市 ノルザンプトン市 [#ここから2字下げ] 主たるかせぎ人の死亡のため………………………………………………一四 六 二一 主たるかせぎ人の疾病または老衰のため…………………………………一一 一 一四 主たるかせぎ人の無職のため………………………………………………二 三 〇 主たるかせぎ人の就業の不規則のため……………………………………四 三 〇 主たるかせぎ人は毎日規則正しく働いていながら賃銭の少なきため…四八 六〇 三〇 子供の数三人ならばさしつかえなきところを三人以上いるがため……二一 二七 三五  合  計……………………………………………………………………一〇〇 一〇〇 一〇〇 [#ここで字下げ終わり] [#原注*] Bowley, Livelihood and Poverty, p. 400.  前に引きし『生財弁』という書をひもとけば、「世間を見るに、貧乏も富貴も多くはおのが求めてするところにて、貧乏がすきか富貴がすきかといえば、だれ一人私は貧乏がすきじゃというて出るものはあるまいけれど、かせぐ事をきらいただ銭《ぜに》がつかいたいは貧乏を好むなり」など説いてあるが、著者もし今日に生きて、ローンツリー氏やボウレイ氏の著作を見るに及びたらば、おそらくその言を改むるに躊躇《ちゅうちょ》せざるべしと思う。私は去るころ近県のある小学校に行った時、学校から児童に渡されたところの「一日一善」と題する日記帳をもらったが、帰ってからそれを調べてみると、その日記帳の日々の余白へ格言ようのものが印刷してある。その一に   身のほどをしりからげしてかせぎなば      貧乏神のつくひまなし という歌があった。また近ごろ『町人身体柱立《ちょうにんしんだいはしらだて》』(今より約百五十年前明和七年の開版)という本を見ると、(『通俗経済文庫』第一巻に収む)、その中にも同じような意味の歌がある。すなわち   身をつとめ精出す人は福の神      いのらずとても守りたまわん というのであるが、これらの教訓歌は昔の自足経済時代ならばともかく、少なくとも今日の西洋には通用せぬものである。世間にはいまだに一種の誤解があって「働かないと貧乏するぞという制度にしておかぬと、人間はなまけてしかたのない者である、それゆえ貧乏は人間をして働かしむるために必要だ」というような議論もあるが、少なくとも今日の西洋における貧乏なるものは、決してそういう性質のものではなく、いくら働いても、貧乏は免れぬぞという「絶望的の貧乏」なのである。  尋常小学読本を見ると、巻の八の「働くことは人の本分」というところに「働くことがなければ食物も買われないし、着物もこしらえられない。人の幸福は皆自分の働きで生み出すほかはない。何もしないで遊んでいるのは楽のように見えるが、かえって苦しいものである」とあるが、日本の事はよるべき正確な調査がないからしばらくおくも、少なくとも今日の英国などでは、これは誤解または虚偽である。今日の英国にては、前にも述べしごとく、毎日規則正しく働いていながらわずかに肉体の健康を維持するだけの衣食さえ得あたわぬ者がすこぶる多いと同時に、他方には全く遊んでいながら驚くべきぜいたくをしている者も決して少なくはない。何もしないで遊んでいるのこそ苦しいだろうが、いろいろな事をして遊んでいるのは、飢えながら毎日働いているよりもはるかに楽であろう。欧米の社会に不平の絶えざるも不思議ではない。 (九月十七日)        二の三  貧乏人の多いのは英国ばかりではない、英米独仏その他の諸国、国により多少事情の相違ありとも、だいたいにおいていずれも貧乏人の多い国である。たとえばハンター氏が米国の状態につき推算せしところによれば、私のいう第二の意味の貧乏人、すなわち各種の慈善団体に属する貧乏人はその数四百万人にて、さらに第三の意味の貧乏人、すなわちこれら慈善団体の恩恵より独立して生活しつつある貧乏人はその数六百万人、これらを合計すれば米国における貧乏人の総数は実に一千万人に達しつつあるという。(ハンター氏『貧乏』一九一二年、第十四版、六〇ページ[#原注*])。思うにかくのごとき事実は列挙しきたらばおそらく際限はあるまい、しかし私は読者の倦怠《けんたい》を防ぐため、もはやこの上同じような統計的数字を列挙するを控えるであろう。――私はこの物語をすべての読者に見ていただきたいとは思わぬが、しかしもし一度読み始められたかたがあるならば、こいねがわくは筆者の窮極の主張の那辺《なへん》にあるかを誤解せられざらんがため、これを最後まで読みつづけられんことを切望する。それゆえ私はできうる限り、読者を釣《つ》って逃さぬくふうをしなければならぬ。  [#原注*]Hunter, Poverty, 14th ed., 1912. p. 60.  ただここになお一言の説明を要するは、もし私の言うがごとく英米独仏の諸国にはたしてそうたくさんの貧乏人がおるならば、世間でこれらの諸国をさして世界の富国と称しておるのが怪しいではないかという疑問である。思うにこれらの諸国がたくさんの貧乏人を有するにかかわらず、なお世界の富国と称せられつつあるゆえんは、国民全体の人口に比すればきわめてわずかな人数ではあるが、そのきわめてわずかな人々の手に今日驚くべき巨万の富が集中されつつあるからである。貧乏人はいかに多くとも、それと同時に他方には世界にまれなる大金持ちがいて、国全体の富ははるかに他の諸国を凌駕《りょうが》するからである。  試みに英、仏、独、米の四個国について富の分配のありさまを見るに、実に左表のごとくである。(昨年刊行キング氏著『米国人の富及び所得』九六ページ[#原注*])。 [#原注*] King, The Wealth and Income of the People of the United States, 1915. p. 96.  次の表は米国の統計学者キング氏がその近業に載すところである。私はめんどうを避くるがため、氏がいかなる材料をいかに利用することによってこの表を調製するに至ったかの説明を略する。いずれにしても決して正確なものではないが、しかしだいたいの趨勢はこれによってほぼ看取し得らるる。試みにその一斑を説明せんに、右の表のうち、最貧民とあるは、私が先に述べた [#図省略] 第一の意味の貧乏人であって、すなわち富者に対する貧乏人という意味である。この表では、全国民中比較的に最も貧乏なものから数えて、だんだんに上にのぼり、かくて全人口数の六割五分に達するまでの人員をばかりに最貧民としてこれを一まとめにし、さてその人数から言えば全人口の六割五分に相当するだけの者が現に所有しつつある富の分量は、はたして全国の富の何割を占めつつあるやを見たのである。しかしてその結果は、表に示すがごとく国によって多少の相違はあるが、まずこれを英国について言えば、その六割五分だけの人間が寄り集まって持っている富の分量は、全国の富のわずかに一分七厘(百分の二弱)にしか当たらぬのである。比較的に下層階級の富裕な米国でも、同じく全人口中六割五分だけの者が、全国の富のわずかに五分余りしか所有しておらぬのである。  さて最も貧乏なものから数えてまず全人口数の六割五分を取ったのちは、さらにだんだん上にのぼって、今度は全人口数の一割五分に相当するだけの人員を一まとめにしてこれを中等の下となし、その次の一割八分に相当する者はこれを中等の上となし、最後に残れるもの、すなわち全国民中最も富めるものにして、人数より言えば全人口数のわずかに二分(百分の二)に相当する部分のものを、同じく一まとめにしてこれを最富者となし、おのおのの所有に属せる富の割合を算出したのである。  今中等の上を略し、最後の最富者の部分を一瞥《いちべつ》するに、人数より言えば全人口のわずかに百分の二に相当するだけのものたるにかかわらず、その所有に属せる富は、英国にあっては全国の富 [#図省略] の約七割二分、フランスにあってはその六割強、ドイツにあっては五割九分、米国にあっては五割七分に相当しているのである。貧富懸隔のはなはだしきこと、かくのごとし。ひっきょう英米独仏の諸国が貧乏人の実におびただしきにかかわらず、世界の富国と称せられつつあるは、古今にまれなる驚くべき巨富を擁しつつある少数の大金持ちがいるためである。 (九月十八日)        三の一  故|啄木《たくぼく》氏は [#ここから2字下げ] はたらけど はたらけどなおわが生活《くらし》楽にならざり じっと手を見る [#ここで字下げ終わり] と歌ったが、今日の文明国にかくのごとき一生を終わる者のいかに多きかは、以上数回にわたって私のすでに略述したところである。今私はこれをもってこの二十世紀における社会の大病だと信ずる。しかしてそのしかるゆえんを論証するは、以下さらに数回にわたるべき私の仕事である。  貧乏がふしあわせだという事は、ほとんど説明の必要もあるまいと考えらるるが、不思議にも古来学者の間には、貧乏人も金持ちもその幸福にはさしたる相違の無いものであるという説が行なわれておる。大多数の諸君の知らるるごとく、アダム・スミスは近世経済学の開祖とも称さるべき人であるが、氏が今より百五十余年前(一七五九年)に公にした『道徳感情論』を見ると、氏は次のごとく述べている。 [#ここから1字下げ] 「……肉体の安易と精神の平和という点においては、種々の階級の人々がほとんど同じ平準にあるもので、たとえば大道のそばでひなたぼこをなしつつある乞食《こじき》のもっている安心は、もろもろの王様の欲してなお得《う》るあたわざるところである[#原注*]」 [#原注*] Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, 6th ed., 1790. p. 311. [#ここで字下げ終わり]  ただ今嵯峨《さが》におらるる間宮英宗《まみやえいそう》師は禅僧中まれに見る能弁の人であるが、その説話集の中には次のごとき話が載せてある。前に掲げたるアダム・スミスの一句の注脚とも見なすべきものゆえ、これをそのまま左に借用する。 [#ここから1字下げ] 「昔五条の大橋の下に親子暮らしの乞食《こじき》が住んでいました。もとは相応地位もあり財産もあった立派な身分の者でありましたが、おやじが放蕩無頼《ほうとうぶらい》に身を持ちくずしたため、とうとう乞食とまで成り果てて今に住まうに家もなく、五条の橋の下でもらい集めた飯の残りや大根のしっぽを食べて親子の者が暮らしていたのであります。ところがちょうどある年の暮れ大みそかの事、その橋の上を大小《だいしょう》さして一人の立派なお侍が通りかかった。するとそこへまた向こうの方から一人の番頭ふうの男がやって参りまして、出会いがしらに『イヤこれは旦那《だんな》よい所でお目にかかりました』と言うと、そのお侍は何がよい所であろうか飛んだ所で出くわしたものだと心の内では思いながらもいたしかたがない、たちまち橋の欄干に両手をついて『番頭殿実もって申しわけがない。きょうというきょうこそはと思っていたのだけれども、つい意外な失敗から算当が狂ってはなはだ済まぬけれども、もう一個月ばかりぜひ待ってほしい』と言うのを、番頭はうるさいとばかりに『イヤそのお言いわけはたばたび承ってござる、いつもいつも勝手な御弁解もはやことしで五年にも相成りまする、きょうというきょうはぜひ御勘定を願わなければ、そもそも手前の店が立ち行きませぬ』と居丈高《いたけだか》になって迫りますと『イヤお前の言うところは全く無理ではないが、しかし武士ともあるものがこのとおり両手を突いてひらにあやまっているではないか、済まぬわけだが今しばらくぜひ猶予《ゆうよ》してもらいたい』としきりにわび入る。これを橋の下で聞いていた乞食のせがれが、さてさてお侍だなんて平生大道狭しと威張っていくさるくせに商人ふぜいの者に両手をついてまであやまるとはなんとした情けない話であろう、いくら偉そうに威張っていたところで債鬼に責められてはあんなつらい思いもせなければならぬとすればつまらない、それを思うとわれわれの境界は実に結構なものだ、借金取りがやって来るでもなければ、泥棒《どろぼう》のつける心配もない、風が吹こうが雨が降ろうが屋根が漏る心配も壁がこわれる心配もない、飢えては一わんの麦飯に舌鼓をうち、渇しては一杯の泥水《どろみず》にも甘露の思いをなす、いわゆる [#ここから2字下げ] 一鉢千家ノ飯 狐身送ル二[#「二」は返り点]幾秋ヲカ一[#「一」は返り点]  一鉢《いっぱつ》千家の飯、狐身幾秋をか送る 冬ハ温ナリ路傍ノ草 夏ハ涼シ橋下ノ流レ  冬は温《あたた》かなり路傍の草、夏は涼し橋下の流れ 非ズレ[#「レ」は返り点]色ニ又非ズレ[#「レ」は返り点]空ニ 無クレ[#「レ」は返り点]楽復無シレ[#「レ」は返り点]憂  色《しき》に非ず又空《くう》に非ず、楽無く復《また》憂《うれ》い無し 若シ人問ワバ二[#「二」は返り点]此ノ六ニ一[#「一」は返り点] 明月浮ブ二[#「二」は返り点]水中ニ一 [#「一」は返り点]  若《も》し人此の六に問わば、明月水中に浮かぶ [#ここから1字下げ] で、思えば自分らほどのんきな結構なものは世間にないとひとり言を言うて妙に達観していると、せがれのそばで半ば居眠《いねぶ》りをしていた親乞食がせがれがかように申しますのを聞いて、むっくと起き直り『これせがれ、そんな果報な安楽の身にいったいお前はだれにしてもろうたのか親様《おやさま》の御恩を忘れてはならんぞ』と言うたというお話がござります」 [#ここで字下げ終わり]  「はたらけどはたらけどなおわが生活《くらし》楽にならざり、じっと手を見る」という連中が、この講話を聞いてはたして自分らほど果報な者は世にないと思うに至るであろうか、どうか。たとい彼ら自身はそう思うにしても、われわれははたして彼らを目して世に果報な人々とすべきであるか、どうか。それが私の問題とするところである。 (九月十九日)        三の二  五条河原《ごじょうがわら》の乞食《こじき》の話は、話ぶりがあまり巧みなので、ついそのまま転載さしてもらう気になったが、もし私の記憶が間違っていなければ、かの大燈国師《だいとうこくし》のごときも同じく五条の橋の下でしばらく乞食《こじき》を相手に修養をしておられたので、その時の作になる [#ここから2字下げ] 座禅せば四条五条の橋の上 [#ここから5字下げ] ゆき来《き》の人を深山木《みやまぎ》と見て [#ここで字下げ終わり] という歌は有名なものだということであるが、さてここに注意しなければならぬのは、大燈国師のような偉い人ならばこそ、乞食のまねをしていてもよいけれども、われわれごとき凡夫だと、孟子《もうし》のいわゆる民のごときは恒産《こうさん》なくんば因《よ》って恒心《こうしん》なしで、心も魂も堕落こそすれ、とても明徳を明らかにするちょう人生の目的を実現する方向に進めるわけのものではない、ということである。そこで同じ貧乏を論ずるにつけても、自発的の貧乏すなわち自ら選択して進んで取った貧乏と、強制的の貧乏すなわちやむを得ず強制的に受けさせられている貧乏との区別を充分にしてかからねばならぬ。そうして私のここに論ずるところは、もちろんやむを得ず強制的に受けさせられている貧乏のことである。  叙してここにきたる時、私はハンター氏の『貧乏』の巻首にある次の一節を思い起こさざるを得ない。 [#ここから1字下げ] 「私は近ごろウィリアム・デーン・ホゥエルスに会うてトルストイを訪問したことを話したら、氏は次のごとく述べられた。『トルストイのした事は実に驚くべきものである。それ以上をなせというは無理である。最も高貴なる祖先を有する一貴族としては、遊んでいて食わしてもらうことを拒絶し、自分の手で働いて行くことに努力し、つい近ごろまでは奴隷の階級に属していた百姓らとできうる限りその艱難《かんなん》辛苦を分かって行こうとした事が、彼のなしあとうべき最大の事業である。しかし彼が百姓らとともにその貧乏を分かつという事は、これは彼にとって到底不可能である。何ゆえというに、貧乏とはただ物の不足をのみ意味するのではない、欠乏の恐怖と憂懼《ゆうく》、それがすなわち貧乏であるが、かかる恐怖はトルストイの到底知るを得ざるところだからである[#原注*]。』……」 [#原注*] Hanter, Ibid., p. 1. [#ここで字下げ終わり]  げに露国の一貴族としてその名を世界にはせしトルストイにとっては、自発的貧乏のほか味わうべき貧乏はあり得なかったのである。  遠くさかのぼれば、昔|慧可大師《えかだいし》は半臂《はんひ》を断《た》って法《のり》を求め、雲門和尚《うんもんおしょう》はまた半脚を折って悟《ご》に入った。今かかる達人の見地よりせば、いわゆる道のためには喪身失命《そうしんしつみょう》を辞せずで、手足《しゅそく》なお断つべし、いわんやこの肉体を養うための衣食のごとき、場合によってはほとんど問題にもならぬのである。しかしかくのごときは千古の達人が深く自ら求むるところあって、自ら選択して飛び込んだ特種の境界《きょうがい》である。もしわれわれ凡夫がへたに悟ってしいて大燈国師のまねをして、相率いて乞食《こじき》になったり、慧可・雲門にならって皆が臂《ひじ》を切ったり脚《あし》を折ったりした日には、国はたちまちにして滅びてしまうであろう。  思うに貧乏の人の心身に及ぼす影響については、古来いろいろの誤解がある。たとえば艱難《かんなん》なんじを玉にすとか、富める人の天国に行くは駱駝《らくだ》の針の穴を通るより難《かた》しとかいうことなどあるがために、ややもすれば人は貧乏の方がかえって利益だというふうに考えらるる傾きがある。古い日本の書物にも「金持ちほど難儀な苦の多きものはない、一物有れば一累を増すというて、百品持った者より二百品持ったものは苦の数が多い」など言うてあるが、現に一昨昨年(一九一三年)にはスイス国でいちばん金持ちであった夫婦者が、つくづくなんの生きがいもない世の中と感じたというので、二人がいっしょに自殺を遂げたこともある[#原注*]。だから人間という者は心の持ちよう一つで、場合によっては大小さして威張っている侍よりも、橋の下に眠《ねぶ》っている乞食《こじき》の方がかえって幸福だ、というような説も出るのであるが、私だって金持ちになるほど幸福なものだと一瞬に言うのでは決してない。しかし過分に富裕なのがふしあわせだからといって、過分に貧乏なのがしあわせだとは言えぬ。繰り返して言うが、私のこの物語に貧乏というのは、身心の健全なる発達を維持するに必要な物資さえ得あたわぬことなのだから、少なくとも私の言うごとき意味の貧乏なるものは、その観念自身からして、必ずわれわれの身心の健全なる発達を妨ぐべきものなので、それが利益となるべきはずはあり得ないのである。 (九月二十四日) [#原注*] Fetter, Economic Principles, 1915. p. 29.        三の三  ちょうど南ア戦争の終わる少し前、一九〇二年の初めに英国の陸軍少将フレデリック・モーリス氏は『コンテンポラリー・レヴュウ』という雑誌に「国民の健康」と題する論文を公にし、その中において、今日英国の陸軍における志願者はだんだん体格が悪くなりて、五人の中でやっと二人だけの合格者を得るにとどまるありさまであるが、「この五と二との間に横たわる意味を研究するということは実に今日国家死活の問題である。そは陸軍軍人の大部分を供給すべき階級の人々の体格が、今日かくのごとき割合において退化しおるということを意味するのであるか。もししかりとすれば、この恐るべき事態の原因はそもそもなんであるか。それははたして救済しうべき事がらであるか」という意味のことを論じたことがある。  この論文は当時大いに朝野識者の注意を喚起し、これがためまず第一に問題にされたのは、学校の体育に何か不充分な点があるのではないかということであった。そこで国王は直ちに委員を任命して大学以下各種の学校に通じ、体育上いかなる改良が必要であるかを調査さすことにしたのである。ところがその委員会でだんだん調査してみた結果、ついに発見された事がらは、少なくとも小学教育の範囲では、問題は学校における体育上の訓練が足りぬという点にあるのではなくて、全く児童の食事が足りておらぬという点にあることがわかった。たとえばエディンバラ市のある区のごときは、児童の約三割のものが営養不足の状態にあるが、こういう子供に学校で過激な体操をさすのは、児童の発育上ただによい結果をもたらさぬのみか、かえって害を生じつつあることがわかった。すなわち軍人の体格が次第に悪くなるというおもな原因は、次の時代の国民を形造るべき児童の多数が貧乏線以下に落ちておるためだという事がわかったのである。  この一例でもわかるように、一見すればほとんど経済問題となんらの関係なきがごとく見ゆる問題でも、よく研究調査してその根原にさかのぼってみると、大概の問題が皆経済という事と密接な関係をもっておるのである。今日の世の中には、いろいろむつかしい社会上の問題が起こっているけれども、その大部分は、われわれの目から見ると、社会の多数の人が貧乏しているがために起こるのである。ホランダー氏は一昨年(一九一四年)公にしたる『貧乏根絶論』の巻首に「社会的不安は二十世紀の生活の基調音である。この不安はいろいろの方面に明らかに現われて来ている。産業上の諸階級間の不平、政党各派の紛擾《ふんじょう》、與論《よろん》の神経過敏、経済上の諸調査の專心に行なわれつつあること等はすなわちそれである。……しかしながら、その根本の原因はどこでも同じことなので、すなわち貧乏の存在とその痛苦にほかならぬ。これが社会的|騒擾《そうじょう》の中心であり中核である[#原注*]」と述べているが、余も全く同感である。 [#原注*] Hollander, The Abolition of Poverty, 1914. p. 1.  昔|孔子《こうし》は「足シレ[#「レ」は返り点]食ヲ、足シレ[#「レ」は返り点]兵ヲ、使ム二[#「二」は返り点]民ヲシテ信ゼ一レ[#「一レ」は返り点]之ヲ矣〈食を足し、兵を足し、民をして之《これ》を信ぜしむ〉」と言われたが、考えてみるとまことに食を足すということは政治の第一要件である。食を足してしかる後始めて強い軍人を養成して兵を足すこともできれば、また教育道徳を盛んにして民をしてこれを信ぜしむということもできるのである。世には教育万能論者があって、何か社会におもしろくない事が起こると、すぐに教育者を責めるけれども、教育の力にもおのずから限りがある。ダントンの言ったことばに「パンののちには、教育が国民にとって最もたいせつなものである」ということがあるが、このパンののちにはという一句は千鈞《せんきん》の重みがある。教育はまことに国民にとってたいせつなものではあるが、しかしその教育の効果をあげるためには、まず教わる者に腹一杯飯を食わしてかからねばならぬ。いくら教育を普及したからとて、まずパンを普及させなければだめである。 (九月二十五日)        三の四  今より十年前すなわち一九〇六年、かの英国において「食事公給条例」なるものが議会を通過するに至ったのも、ひっきょうは前回に述べたるごとく、モーリスの論文が世間の注意をひいて以来、種々の調査研究の行なわれた結果、食物の良否が国民の健康に及ぼす影響のきわめて甚大《じんだい》なるものなることが、次第に発見されたためである。この条例は、貧乏な小学児童に公の費用をもって食事を給与するということを各地において実行するがために設けられた法律である。今その規定の詳細に至っては、私はここにこれを説くの必要を認めぬが、ただそのだいたいの精神を伝えることは、この物語を進める上にすこぶる便利だと考える。  試みにこの法律案が議会に提出された時の議事録を見るに、一九〇六年三月二日下院の議場においてウィルソン氏の試みたる原案賛成演説には、次のごとき一節がある。 [#ここから1字下げ] 「諸君の中には、今日児童の大多数が食物なしに、または営養不足の状態の下に、通学しつつある事を否認さるるかたはあるまい。今この法律案の目的とするところは、すなわちかかる児童に向かって食事を給与せんとするにある。けだし児童養育の責任を有する者の何人《なんぴと》なるべきかについては、もちろん諸君の中に種々の異説があるであろう。すなわち諸君のうちある者は、自分の子供を養うのは親たる者の義務ではないかと言うかたもあろう。しかしながら、もしかくのごとき論者にして、これら両親のある者の現に得つつある賃銭の高を考えられたならば、彼らがその家族に適当なる衣食を供給するという事の、絶対に不可能事たることを承認さるるであろう。……」 「私は諸君がこれをば単に計算上の損得問題として考えられてもさしつかえないと思う。これは必ずしも人道、慈悲ということに訴える必要のない問題だと考える。けだしいろいろな肉体上及び精神上の病気や堕落は、子供の時代に充分に飯を食べなかったという事が、その大部分の原因になっているのである。さればもし国家の力で、飢えつつ育ったという人間をなくすることができたならば、次の時代の国民は皆国家社会のため相当の働きをなしうるだけの人間になって来るので、そうなれば今日国家が監獄とか救貧院とか感化院とか慈善病院とかいろいろな設備や事業に投じている費用はいらなくなって来るのであって、かえってそのほうが算盤《そろばん》の上から言っても利益になるのである。」 「人あるいは、かかる事業はよろしくこれを私人の慈善事業に委《い》すべしと主張するかもしれないが、私は、このたいせつな事業を私人の慈善事業に一任せしこと、業《すで》に已《すで》に長きに失したと考える者である。私は満場の諸君が、人道及びキリスト教の名においてこの案を可決されん事を希望する[#原注*]。」 [#原注*] Heyes, British Social Politics, 1913. pp. 110―112. [#ここで字下げ終わり]  もちろんこの案に対しては反対演説も行なわれたが、煩わしいからそれは略して、今一つ時の教育院総裁ビレル氏が同じ日の下院議場で述べた演説の一節だけついでに次に書きしるす。 [#ここから1字下げ] 「私は考える、諸君の大多数は人の親であり、諸君のすべてはかつて子供であり、また諸君のある者は教師であった事もあろう。そうして、そういう境遇を経られた以上、諸君は、飢えた子供のやせ衰えた者に宗教上または学問上の事がらを教えようとする事の、いかに残酷な所業であるかを承知されているはずだと思う。かくのごとき児童に物を教えるため租税で取り立てた金を使うのは、公金を無益に浪費するというものである。……だから今ここに飢えたる児童がいるとすれば、まずそれに物を食わしてやるか、しからずんばその者の教育を断わるかのほかに道はない。しかし私は文部の当局者としてのちの方法を採るわけにはゆかぬ[#原注*]。……」 [#原注*] Ibid. pp. 116―119. [#ここで字下げ終わり]  原案提出者及び賛成者の意見はだいたい上述のごとくであるが、その趣旨は議会において多数の是認するところとなり、さらに国王の裁可を得て、同年(一九〇六年)の十二月二十一日にいよいよ法律として公布さるるに至ったものである。今その全文を訳出すれば次のごとし。 [#ここから1字下げ]  一、一九〇二年の教育条例第三部に規定せる地方教育官庁は、その管轄内における公立小学校に通学せる児童のため食事を給与するについてその必要と認むるところの処置を採りうる。しかしてこの目的のために―― [#ここから2字下げ] (い) 地方教育官庁は、これら児童に向かって食事給与の実行に当たれる委員(この条例においてはこれを「学校酒保委員[#原注*]」と名づける)にその代表者を出してこれと協力しうべく、また、 (ろ) その委員を助くるがため、その事業の組織、準備及び経営に必要なるべき土地、建物、家具及び器具、ないし役員及び使用人を給しうる。 [#ここから1字下げ] ただし、特に規定せる場合のほか、地方教育官庁は、かくのごとき食事に用いらるべき食物の購買に関しなんらの費用をも支出し得ざるものである。 [#原注*] School Canteen Committee.  二、この条例にもとづき児童に食事を給与したる時は、各食事につき各児童の両親より一定の金額を徴収すべく、その額は地方教育官庁これを定むる。しかして両親がもしこれを支払わざる場合に、その原因たるその怠慢によるにあらざること明白なるにあらざる限りは、地方教育官庁はその両親に向かってその金額の支払いを請求するの義務がある……。  三、地方教育官庁にして、その管轄内における小学校に通学しつつある児童のうち、食物の不足の原因のために、これに向かって施されつつある教育の利益を充分に受くることあたわざるものあるを認め、かつ公の財源以外の財源には、この条例にもとづく食事の給与に要する食物の費用を支弁するに用うべきものなきか、またはその額不足することを確かめたる時は、その旨を教育院(文部省)に通ずることを得《う》る。しかして教育院は地方教育官庁をしてかかる食物の給与の費用を支弁するに必要なだけの額をば、地方税の中より支出するの権限を有せしめうる、ただし地方教育官庁が一会計年度内にこの目的のために支出しうる総額は一ポンドにつき半ペニーの率を超えてはならぬ、……。  四、(省略)  五、(省略)  六、公立小学校に職を求めつつある教師または現に職を奉じつつある教師は、この食事の給与に関し、またこれに要する費用の醵金《きょきん》に関し、その義務としてこれが監督または補助をなすことを要求され、またこれが監督または補助に関与すべからずと要求さるることはない。  七、この条例はスコットランドに適用せず。  八、この条例は一九〇六年の教育(食事公給)条例と名づける。 (九月二十六日)        三の五  英国で食事公給条例なるものができ、貧乏人の子は国家がこれを引き取り、親に代わって養って行くことにしたという事は、私が前回に述べたところであるが、由来個人主義の本場として、自由放任を宗旨となし、国家は個人の私事にできうるだけ立ち入らぬことを国風としている英国において、今かくのごとき法律の発布を見るに至りたる事は、一葉落ちて天下の秋を知るとやいわん、実に驚くべき時勢の変である。  日本では、大阪《おおさか》なり神戸《こうべ》なりからちょっと四国へ渡るにも、船に乗れば、私たちは必ず船員から姓名、住所、年齢等をきかれる。もし旅から旅へ流浪《るろう》したならば、一泊するごとに、至る所の宿帳へ、やはり同じような事を一々記録して行かねばならぬ。かかる干渉主義の国がらに育った私は、往年初めてロンドンに入った時、ホテルに泊まろうが、下宿屋に住もうが、どこへ行ったとて、姓名も国籍も何一つかつて届けいずる必要なきを見て、いささか意外の感をいだいた者である。平時の英国は、書生が来ようが商人がはいろうが、美人でも醜婦でも、学者でも泥棒でも、出入全く自在でさながら風の去来し雲の徂徠《そらい》するに任せあるがごとくである。ロンドンにしばらく住まったのち、私は同僚のK君と南方の農村に移ったことがある。異郷の旅に流浪する身は、別にしかたがないから、蝸牛《かたつむり》の旅のような全財産[#「旅のような」は底本では「旅のよう」と誤植]を携えながら、わずかとはいえそれでもトランクやスーツ・ケースに相応の荷物を納め、なにがしの停車場《ステーション》より汽車に乗り込んだものである。行けども行けども山は見えず、日本と同じ島国とはいえ、その地勢の著しく相違せるを珍しく思いながら、進み行くほどに、やがてなにがしという駅に着く。ここでわれわれは乗り換えなければならぬのであるが、その時私の驚いたのは、ロンドンの停車場《ステーション》ですでに汽車に預けてしまった荷物も、乗り換えの時には旅客が各自に自分の荷物は自分で注意して、乗り換うべき列車の方へ持ち運ばなければならんという事であった。日本などでは、一たん荷物を預け入れてさえおけば、あとは途中で何度乗り換えをしても、預けただけの荷物はなんの気づかいなしに、ちゃんと目的地まで運送されているのだが、英国ではそうはゆかぬのである。見れば多くの旅客は勝手に貨車の中にはいり込んで、軽い貨物はさっさと自分で持って逃げる。重いトランク類を持った者は、赤帽を呼んで来て(赤帽といっても、赤い帽子をかぶっているのではない、手荷物運搬夫は英国では赤いネキタイをやっているようである)、これとこれとが自分のだから何々行きの列車に持ち込んでくれと、それぞれ自分でさしずをするのである。全然自由放任だが、それで荷物が紛失もせず間違いもせず諸事円満に運んで行くのならば、英人の自治能力もまた驚くべしといわなければならぬ。もう少し油断すると、私らの荷物はとんでもない方面へ運送されてしまうところであったが、幸いに早く気づいたので、別に失態も演ぜず、無事に列車を乗り換え、三等室の一隅《いちぐう》に陣取りながら、私は始めて each for himself (おのおの彼自らに向かって)というかねてから日本語にはうまく訳しにくいと思っていたこの一句を思い出したわけである。  げに英国は each for himself の国である。しかるに今この英国において、子供の養育というがごときことに家庭の自治に一任しおくべきようなる問題に国家が立ち入り、公共の費用でこれをまかなって行くことにしたというのは、ひっきょうこの国の政治家が貧乏が国家の大病たることを、いかにも痛切に認めきたりし証拠だといわねばならぬ。 (九月二十八日)        三の六  五重の塔を建てんとする人は、まずその土台を丈夫にしなければならぬ。花を賞せんとする者は、必ずその根につちかうことを忘れてはならぬ。肉体の欲望は人間の欲望の中でいちばん下等で、なかんずく色食《しきしょく》の二欲は最も低級のものであるが、しかしそれらのものが下層のものでああればあるだけ、一般民衆をしてこれを適当に満足せしむることは、やがて社会の基礎を固くし、国家の根本を養うゆえんである。私はこの意味において、かの食物公給条例を制定せし英国経世家の所業を賢なりとすると同時に、わが国においても、せめては大都会の貧民区に、さしあたっては私人の慈善事業としてなりとも、早くこの種の施設の実現さるるに至らんことを切望する者である。食物公給条例が英国の下院議場において問題となりし時のウィルソン氏の演説の結語、「人あるいはかかる事業はよろしくこれを私人の慈善事業に委《い》すべしと主張するかもしれぬが、私はこのたいせつな事業を私人の慈善事業に一任せしこと業《すで》に已《すで》に久しきに失したと考える、私は満場の諸君が、人道及びキリスト教の名において、早くこの法策を可決されんことを希望する」という一句は、私がすでに前回に掲げたところであるが、いかに国情にはなはだしき差異ありとはいえ、私はこのたいせつな事業が、わが国においていまだ私人の慈善事業としてだに人の注意をひくに至らざることを、いささか遺憾とする者である。  もしそれ食物給与の一事が、国民の体質改善の上に、はたしていくばくの効果あるべきと疑う者あらば、私はそれらの人々に向かって英国ブラッドフォード市における実験的研究の一斑を紹介してみたいと思う[#原注*]。 [#原注*] Louise Stevens Bryant, School Feeding: Its History and Practice at Home and Abroad. Philadelphia, 1913.  先に述べたる英国の食物公給条例は、スイスのそれのごとき強制的の規定にあらずして、その実行のいかんは、これを各地方の自由の裁定に一任せしものである。さればブラッドフォード市においても、この条例の発布後、これに基づきて大規模の食事給与を始むるの前、まずこれが効果につき種々綿密なる調査及び実験を試みたものである。  第一にやったのは、その地における小学児童の体格検査であったが、その結果によると、やはりこの地においても営養不足のために、その授かりつつある教育の効果を充分に受け入るることあたわざる状態にある者が、決して少なからざることがわかった。(すなわちブラッドフォード公立小学校に通学せるすべての児童について体格検査を行ないたる後、博士クローレイはさらに二千人の児童について検査した結果、氏はそれより推算して、同市における小学児童約六万のうち少なくとも六千人だけの者は営養不足の状態にあって、いわゆる「食物の欠乏のため彼らに向かって授けらるる教育の効果を充分に受くることあたわざる状態」にあることを結論したのである。)そこで第二には、これらの児童に向かって、食物以外の生活状態は元のままにしておき、ただ食物だけ改良してやるということにして、それがはたしていかほどの効果のあるものかということを問題にしたのである。そうしてこの問題の解決のために一九〇七年中次のごとき実験を試みた。  すなわち明らかに営養不足の状態にある児童を四十人だけ選抜し、これに向かって食事の給与を始める前、まず五週間にわたりその体重を計って彼らの平均成長率を定めおき、しかるのち四月十七日より七月二十四日に至るまで約三個月にわたり、これら児童の生理的要求に応ずるよう慎重なる注意をもって献立されたる食事をば、毎日二回ずつ給与することとし(ただし毎日曜日にはこれを給せず、かつ五月十六日より同二十七日に至るまでの間は、一時これが給与を中止した)、かつその間一週間目ごとに彼らの体重と身長とを計り、またその他の様子をも記録して行ったのである。なお他方においては、これらの受験児童と同じ年齢で、同じ成育状態にあり、かつ同じ社会階級に属する児童六十九人を選抜し、これには食事を給与することなく、ただその身長と体重とをば同じように一週一回ずつ計り、その成績が食事の給与を受くる者とはたしていかほどの差異を呈すべきかを試験しようとしたのである。 (九月三十日)        三の七  英国ブラッドフォード市において貧民の児童に食事の給与を試験的にやってみたことは、私が前回に述べたところであるが、今その成績ははたしていかなりしやというに、当時の記録によれば、これらの児童は食事の給与を受くるに及び、にわかにその顔色が輝いて来て、その態度は快活になり、学業もこれに応じて進歩を示したということである。しかしこれらの事実はこれを数字に示すことあたわざれども、何人も争うことあたわざるは、彼らの体重が著しく増加したという点で、これを図に示さば次のごとくである。  左の図表中、黒の曲線は、受験児童四十名の体重増加率を示せるものにて、体重の単位は図に記入しおけるがごとくポンドである。また図表中、点線をもって表わせるは、食事の給与を受けざる児童六十九名の体重増加の平均率である。その直線となりおるは、各週別の変動を示さず、全期間の平均率を表わせるがためである。これだけの注意さえ加えおかば、この図表の意義は一見明瞭なりと信ずるがゆえに、その子細はこれを省略しおくべきが、要するに右実験の結果、多数貧民の児童は、食物さえ改良してやるならば、たといその他の生活状態は元のままに放任しお [#「時期別体重増加率推移折れ線グラフ」省略] [#以下統計図表解説キャプション]実験中最初の四週間においては、食事給与を受けたる児童の体重は、一週日平均六オンスの増加を示した。ことに最初の一週日間においては、その増加最も急激にして、平均一ポンド四オンスであった。かくて実験期間を通じて、食事給与を受けたる児童の体重は平均二ポンド八オンスふえたが、給与を受けざりし者の体重は一ポンド四オンスふえたに過ぎぬ。(一オンスはわが七匁五五九、一ポンドは十六オンスにして百二十匁余に当たる) [#ここでキャプション終わり] くも、肉体及び精神の発育上充分の効果をあげうるものなることが、明瞭に立証されたのである。  そこでこのブラッドフォード市においては、なんらの躊躇《ちゅうちょ》なく、いよいよ大規模に食事の公給を開始することとなり、かくて今日同市の設備は、この種の経営中世界最美のものなりと称せらる。すなわち因《ちな》みをもってその組織設備の一斑を述べんに、通学児童は何人にても自由に食事の給与を受け得らるれども、ただ無料にてこれを受けんとする者に対しては、委員においてその児童の家庭の状態を調査し、その事情に応じて無料の給与を許し、あるいは実費の一部ないし全部を納付せしむることとす。児童はその社会階級のいかんを問わず、すべていっしょに同じ食堂で食事を取る。無料にて給与を受くる者も、実費の一部または全部を負担する者も、すべてその間に取り扱いの差異を設けず。従うて児童自身は互いに全くそれらの消息を知らぬのである。食事の調理には、営養学上専門の知識を有する者その監督に当たり、助手五人その下にあってもっぱらこれに従事す。炊事場には最も進歩したる新式の設備を備え、一日よく一万人分の食事を供給しうるの装置を設く。その創設費約四万円、経常費は一九〇八年より同九年にわたる一会計年度において、食料を除き、役員の手当て、設備の維持、修繕費等を合計して八万円弱である。しかして同年度において供給された食事の数は約百万にして、そのうち四分の一は朝飯である。一個年を通じて食事を取った児童数の最も多い日は五千五百人で一個年間の平均は一日二千七百人になっている。そのうち食費の全額または一部を納めたるものは、一日平均二百四十人である。  以上がブラッドフォード市における食事公給事業の一斑であるが、実はこれは一例に過ぎぬので、かくのごとき事業は今日英国の諸地方において実行されつつある。現に教育院の年報によれば、食事公給条例の通過した翌年度の終わりには、かかる事業を公営せるもの全国において四十一個所、次の年度には八十一個所、その次の年度には九十六個所、さらにその次の一九一〇年より同一一年にわたる年度には百二十三個所になっている。もって英国におけるこの種の経営の大勢を知るに足らん。(以上述べたる英国の事情はもちろん、その他欧米諸国における小学児童食事公給問題の由来及び現状については、ブライアント氏『校営食事[#原注*]』及び金井《かない》博士在職二十五年記念論文集『最近社会政策』中に収めある拙稿「小学児童食事公給問題」を参照されたし)。 (十月一日) [#原注*] Bryant, School Feeding, 1913.(前出)        四の一  さて以上述べたるところは、貧乏が児童の発育の上に及ぼす弊害の一斑である。しかるに、元来貧乏が人の肉体及び精神の上に大害を及ぼすという事は、必ずしも小学児童に限られているわけではない。それ故、同じ英国について言っても、貧乏を退治するがためには、前に述べたる食事公給条例の趣旨に類したるようの事をば、近ごろは各種の方面にわたり盛んに実行しつつある。私はこれを名づけて貧乏神退治の大戦争という。そうしてこの戦争は、今度の世界戦争以上の大戦争で、たとい今日の世界戦争は近くその終りを告ぐるとするも、それに引き続き諸国において盛んに行なわるべき大戦争だと信じている。  しからば前に述べた小学児童に対する食事公給のほかに、同じ英国においてはなお他にはたしていかなる政策を実行しつつありやというに、そは実に各種の方面にわたり、到底これをここに列挙することあたわざれども(くわしくは大正六年一月発行『国家学会雑誌』第三十一巻第一号に掲載されある小野塚《おのづか》博士の「現代英国の社会政策的傾向」を見られよ)、ただその一例を示さんがために、前には児童のことにつき述べたれば、ここにはさらに老人のことについて一言を費やすであろう。  貧乏なる老人の保護のためには、今日の英国には養老年金条例というものがる。これは一九〇八年五月二八日に下院に提出され、大多数をもって通過し、上院においては種々の議論ありたれども、ついに同年七月三十日に無事通過し、かくて同年十月一日法律として発布さるるに至りしものである。  私は今くわしくこの法律の規定を述ぶるいとまをもたぬが、またその必要もない。一言にして言えば七十歳以上の老人には国家に向かって一定の年金を請求するの権利ありと認めたること、これがこの法律の要領である。原案には六十五歳とありたれども、経費の都合にてしばらく七十歳と修正されたのである。今この法律についてわれわれの特に注意すべき点は、年金を受くることをば権利として認めたことである。人は一定の年齢に達するまで社会のために働いたならば、――農夫が五穀を耕作するは自分の生活のためなれども、しかしそのおかげで一般消費者は日々の糧《かて》に不自由を感ぜざることを得《う》る、鉱夫の石炭を採掘するもまた自己の生活のためにほかならざれども、しかしそのおかげでわれわれは機械を動かし汽車を走らせなどすることを得る、この意味において、夏日は流汗し冬日は亀手《きしゅ》して勤苦《きんく》労働に役《えき》しつつある多数の貧乏人は、皆社会のために働きつつある者である、――年を取って働けなくなった後は、社会から養ってもらう権利があるという思想、この思想をこの法律は是認したものなのである。それゆえ、たとい年金を受くるも、法律はその者を目して卑しむべき人となさず、またなんらの公権を奪うことなし。これ従来の貧民|救恤《きゅうじゅつ》と全くその精神を異にするところにして、かかる思想が法律の是認を経《ふ》るに至りたる事は、けだし近代における権利思想の一転期を画すべきものである。年金を受くる資格ある者は、年収入三十一ポンド十シリング(約参百拾五円)に達せざる者にして、その受くるところの年金額は収入の多少によりて等差あれども、年収入二十一ポンド(約弐百拾円)に満たざる者は、すべて一週五シリング(一個月拾円余)の割合にてその年金を受く。これがこの法律の規定の大要である。 (十月二日)        四の二  私は英国近時における社会政策の一端を示さんがため、先に小学児童に対する食事公給条例のことを述べ、今また養老年金条例のことを述べおえた。私はなおこれ以上類似の政策を列記することを控えるが、言うまでもなくこの種の施設はいずれも少なからざる経費を必要としたもので、現に養老年金の一例に徴するも、一九〇七年の実数によれば、当時七十歳以上の老人は全国において百二十五万四千人あり、かりにすべてこれらの者に一週五シリングずつを支払うとせんか、その経費の総額は一個年実に壱億六千三百余万円の巨額に達するの計算であった。これ英国近時の財政が急に膨張せざるを得ざるに至りしゆえんであって、現に一九〇八年度の予算編成に当たっては、主として海軍拡張及び養老年金法実施のため約壱億五千万円の歳入不足を見るに至ったものである。ここにおいてか時の大蔵大臣ロイド・ジョージはやむを得ず一大増税計画を起こし、土地増加税、所得税、自動車税、煙草税《たばこぜい》等の新設または増徴を企てたものである。ただその課税おのずから富者に重かりしがゆえに、当時の予算案は議会の内外において騒然たる物論を惹起《じゃっき》し、ついにはローズベリー卿《きょう》をして「宗教も、財産権も、また家族的生活も――万事がすべて終わりである[#原注*]」と絶叫せしむるに至ったものである。 [#原注*] It is the end of all things―religion, property, and family life.  ロイド・ジョージ氏がかの有名なる歴史的の大演説を試みたのは、実にその時である。当時彼が前後四時半にわたる長い長い演説をまさに終わらんとするに臨み、最後に吐いた次の結語は、これまで私の述べきたった諸種の事情を背景として読む時は、多少当時の光景を活躍せしむるに足るのみならず、また時務を知るの俊傑がいかに貧乏を見つつあるやを知るの一助たるべしと思うがゆえに、――過月氏が軍需大臣より陸軍大臣に転任したるおり、すでに一たびこれを引用したるにかかわらず、――余は本紙の編集長者び読者諸君が、余をして重ねてここにこれを訳載するの自由を有せしめられん事を懇望する。その語にいわく [#ここから1字下げ] 「さて私は、諸君が私に非常なる特典を与えられ、忍耐して私の言うところに耳傾けられたことを感謝する。実は私の仕事は非常に困難な仕事であった。それはどの大臣に振り当てられたにしても、誠に不愉快な仕事であったのである。しかしその中に一つだけ無上の満足を感ずることがある。それはこれらの新たなる課税はなんの目的のために設けられたかということを考えてみるとわかる、けだし新たに徴収さるべき金は、まず第一に、わが国の海岸を何人にも侵さしめざるようこれを保証することのために費やさるべきものである。それと同時に、これらの金はまた、この国内における不当なる困窮をば、ただに救済するのみならず、さらにこれを予防せんがために徴収さるるものである。わが国を守るため必要な用意をばすべて怠りなくしておくということは、無論たいせつなことである。しかしながら、わが国をしていやが上にもよき国にして、すべての人に向かってまたすべての人によりて守護するだけの値うちある国たらしむることは、確かにまた同じように緊要なことである。しかしてこのたびの費用はこれら二つの目的に使うためのもので、ただその事のためにのみこのたびの政府の計画は是認せらるるわけである。人あるいは余を非難して、平和の時代にかくのごとき重税を課することを要求したる大蔵大臣はかつてその例が無いと言う。しかしながら、諸君(全院委員長エモット氏の名を呼べるも、訳して諸君となしおく)、これは一の戦争予算である。貧乏というものに対して許しおくべからざる戦いを起こすに必要な資金を調達せんがための予算である。私はわれわれが生きているうちに、社会が一大進歩を遂げて、貧乏と不幸、及び必ずこれに伴うて生ずるところの人間の堕落ということが、かつて森にすんでいた狼《おおかみ》のごとく、全くかの国の人民から追い去られてしまうというがごとき、よろこばしき時節を迎うるに至らんことを、望みかつ信ぜざらんとするもあたわざるものでる。」 [#ここで字下げ終わり]  語を寄す、わが国の政治家。欧州の天地、即今戦報のもたらす以外、別に這箇《しゃこ》の大戦争あるを看過されずんば、洪図《こうと》を固むるは諸卿《しょけい》の業《わざ》、この物語の著者のごときはすなわち筆硯《ひっけん》を焼き、退いて書癡《しょち》に安んずるを得ん。 (十月三日)        五の一  以上をもって私はこの物語の上編を終え、これより中編に入る。冬近うして虫声|急《すみや》かなる夕《ゆうべ》なり。  今日の社会が貧乏という大病に冒されつつあることを明らかにするが上編の主眼であったが、中編の目的はこの大病の根本原因の那辺《なへん》にあるかを明らかにし、やがてこの物語全体の眼目にして下編の主題たるべき貧乏根治策に入るの階段たらしむるにある。  ロンドン大学教授エドウィン・キャナン氏はその著『富』に序して [#ここから1字下げ] 「経済学の真の根本問題は、われわれすべてが、全体として、今日のごとき善《い》い暮らしをしているのは、――善《い》い暮らしをしていると言うのが悪ければ、悪い暮らしをしていると言うてもいいが、――それは何ゆえであるかということと、われわれのうちある者は平均よりはるかに善《い》い暮らしをしており、他の者ははるかに悪い暮らしをしておるのは何ゆえであるかということと、この二つである[#原注*]。」 [#ここで字下げ終わり] と言っているが、一句よく斯学《しがく》の本領を道破して遺憾なきものである。今余はこの二大問題中の後者を説明するがためいささかさかのぼりて前者に言及するのやや避け難きを感ずる。諸君、請う吾人《ごじん》をしてしばらく人間を去って、蟻《あり》の社会を観察するところあらしめよ。 [#原注*] Edwin Cannan, Wealth, 1915.  蟻の一種に葉切り蟻という者あり、熱帯地方に繁殖す。フォルソム『昆虫学《こんちゅうがく》』に記載するところを見るに [#ここから1字下げ] 「この種は非常の多数にて生活し、数時にして樹枝に一葉をとどめざるに至るものにして、園芸家はこの恐るべき蟻に対しては施すべきの策なし。実にこの蟻の多き地方にてはオレンジ、コーヒー、マンゴー、その他の植物の栽培不可能なりという。この蟻は地下きわめて深く巣をうがち発掘せる土をもって垤《とう》を造る。時に直径三四十尺に及ぶことあり。しかして諸方面に巣より付近の植物に通ずる道路を設く。ベルト氏はしばしばこの蟻が巣より半マイルを隔てし地において働きつつあるを目撃せりという。この蟻の攻撃するは主として植物の葉なれども、その他花、果実、種子をも害す。うんぬん」(三宅《みやけ》、内田《うちだ》両学士訳本、五三九ページ以下)。 [#ここで字下げ終わり] とあり。さらにブラジルにて特にこの蟻につき研究したるベーツ氏の記載せるところを見るに、 [#ここから1字下げ] 「一つ一つの蟻は木の葉の表に止まっていて、その鋭い剪刀《はさみ》のような口で、木の葉の上方をばほぼ半円形に切って行き、そうしてその縁を口にくわえ、パッと急に引いてその片《きれ》をもぎ取る。時とすると、こうして切り取った葉をば土地の上に落とす。そうするとそれがだんだん土地の上に積まれて行くのを、他の蟻が来てそばから次々にと持ち運ぶ。しかし普通には、その切り取った葉をばめいめいで巣の方に運んで行く。そうしていずれも皆同じ道を通るものであるから、彼らの通る道はじきに滑らかに平たくなって、草原の中を馬車が通った跡のようになる。」 [#ここで字下げ終わり] とある。かくのごとくこの蟻は木の葉を切っては巣に持ち帰るので、それで葉切り蟻となづけられているのであるが、彼らはなんのためにかかる労働をなしつつあるか。辛抱してその話も聞いてください。 (十月四日)        五の二  きょうはきのうの葉切り蟻の話の続きである。  この蟻が木の葉を切っては盛んに自分の巣に持ち運びつつあるというベーツ氏の観察は、きのうの紙上に訳載したが、ベーツ氏は、その蟻がなんの目的のためにかかる苦労多きめんどうなる仕事をなしつつあるかはこれを説明し得なかったのである。もっとも氏自身は、これは地下の巣に至る入り口をふさぐためのものだと説明し、それで充分にその理由を発見し得たと思っていたのであるが、それが間違いであったという事は後にトマス・ベルト氏の観察によってわかって来たのである。  このベルトという人は鉱山の技師としてニカラガにいたのである。専門の博物学者にはあらざれども、昆虫《こんちゅう》の生活状態を研究することに特別の趣味を有しいたる人にて、この人が初めてこの葉切り蟻が菌《きのこ》を培養しつつあることを発見したのである。もっとも氏が始めてかかる事実を発表したる時には、何人もこれを信ずる者なく、専門学者はすべてその虚構を嘲笑《ちょうしょう》したのであるが、その後専門学者がだんだん研究に着手してみると、ただにベルト氏の言った事が間違いにあらざるのみならず、氏の報告以外さらに種々の事実が次第に確かめらるることとなったのである。  ベルト氏は葉切り蟻の巣をばただに土地の表面より観察するばかりでなく、さらに土を掘って巣の内部をのぞいてみたのである。ところが地下にはたくさんのへやがあってその中のある者は丸くて、直径五インチぐらいの広さになっておる。そうしてそのへやのほとんど四分の三ぐらいは、ポツポツのあるとび色の海綿ようの物で満たされておるが、そのほかには蟻が盛んに持ってはいる青い木の葉は全く見つからぬ。これはどういうわけかというと、木の葉はいつのまにか変わってこんな海綿ようのものになっているので、そうしてその海綿ようのものにはたくさんの菌《きのこ》ができているのである。蟻の幼虫はこのへやに連れられて来ていて他の蟻が菌を切ってはそれを食べさしている。この幼虫を養育することは小さい方の職蟻《しょくぎ》の仕事であるが、大きい方の職蟻は菌の床《とこ》を造ることをセッセとやっている。すなわち青い木の葉がへやの内に運ばれて来ると、それをすぐ小さな片に切り、一々それをなめてはそうじしながら、小さな団子に丸め、それをだんだん積んで行くのである。そうしてそれが室内の温気と湿気とで蒸されて、だんだん菌がそれにはえるようになるのである。もしそれが新しい床であったならば、古い床から菌の種子《たね》を持って来て、それを新しい床に植え付けるのだということである。そうしてもし人間がその床を切り取って巣の外に持ち出し、適当な場所に置いておくならば、直径六インチぐらいの大きな菌ができるが、蟻はそんなに大きな菌は好まぬので、小さなつぼみができるとすぐにそれを切り取って大きくはせぬということである。(一九一五年出版、ステップ氏『昆虫生活《こんちゅうせいかつ》の驚異』二八ページ以下による[#原注*])。 [#原注*] Edward Step, Marvels of Insect Life, 1915. pp. 28―34.  さて葉切り蟻が菌《きのこ》を栽培せる様子はだいたい上述のごとくであるが、これはよく考えてみると、実に驚くべきことである。何ゆえというに、この蟻のすんでいる地方には、天然の菌がたくさんにできるのだけれども、ただそれには一定の季節がありまた気候や湿気の具合でその供給に変動がある。そこで年じゅう一定の菌を食べようと思えば、暗い場所へ菌の床《とこ》を作って温度を加減して行かねばならぬので、現に今日われわれ人間が菌の人工培養をするのは、つまりそういう方法によってやっているのであるが、この葉切り蟻は人間よりも先にそういうことを発明しているのである。ことに彼らが切り取って来る木の葉そのものは、全く彼らの食料とはしないものである。そういうようなさしあたって役に立たぬ物を一たん取って来て、しかる後その目的とするところの食物を作り出すなどということは、経済学者のいわゆる迂回的《うかいてき》生産に属するもので、いかにも彼らの知識は高度の進歩を遂げているものと見なければならぬのである。 (十月五日)        五の三  加藤《かとう》内閣ができるはずに聞いていたのが、急に寺内《てらうち》内閣が成立しそうなという話なので、平生当面の時事には無関心のこの物語の筆者も、ちょっとだまだれたような気持ちがする。しかしそれはそれとして、私はこの物語の本筋をたどるであろう。  さて私が前回に葉切り蟻《あり》の話をしたのは、昆虫《こんちゅう》社会にもなかなか経済の発達した者がいるという事を示さんがためであった。わずかに一例をあげたにとどまるが、ただこの一例に徴するも、もしわれわれが太古野蛮の時代にさかのぼってみるか、または今日でも未開地方に住む野蛮人の状態について見るならば、ある方面ではかえってわれわれ人間の方が蟻などよりもだいぶ劣っているかと思われる事情があるのである。しかるにもかかわらず、今日われわれ人間の経済が次第に発達を遂げ、ついに今日のごとき盛観を呈するに至ったのは、実はその根底、その出発点において、ある有名なる特徴を有するがためである。今その特徴をなんぞやと問わば、そは道具の製造という事である。この事はかつて本紙に連載せし「日本民族の血と手」と題する拙稿(大正4年発行拙著『祖国を顧みて』に収む)の一部において、私のすでに言及したところである。私は学校の講義のように、今年もまた同じ事をここに繰り返したくはないけれども、ただいかんせん這個《しゃこ》の一論は、私の経済論の体系の一部を成すもので、これに触れずして論を進むるは事すこぶる困難なるを覚ゆるがままに、しばらく読者の寛恕《かんじょ》を請うて再び同一の論を繰り返す。ただしなるべく化粧《けしょう》を凝らして、人目につかぬようそっとこの坂道を通り越すであろう。  そこで話を遠い遠い昔の、今より推算すれば約五十万年前の古《いにしえ》にかえす。そのころジャバに猿《さる》に似た一人の人間――私はかりに人間と名づけておく――が住んでいた。無論一人で住んでいたわけではなく、仲間もたくさんいたことであろうが、ただ一人だけのことしか今日ではわからぬ。もっともその一人の人について言っても、その人がはたしてどんな暮らしをしたか、どんな事を考えていたか、女房がいたか、子供がいたか、そんな事は少しもわかっていなが、ただそういう一人の人がいたということだけは確かにわかっている。それは今から二十余年前、一八九一年にオランダの軍医デュブアという人が中央ジャバのベンガワン川に沿うて化石の採集をしていたころ、トリニルという所の付近で、たくさんの哺乳《ほにゅう》動物の遺骨の中から一本の奥歯を発見したのであるが、それがすなわち先に言うところの五十万年前の人間が遺《のこ》して死んだ臼歯《うすば》の一|片《きれ》である。そこでデュプア氏はなおていねいに土を掘ってゆくと、先に奥歯の発見された所から約三尺ばかり隔てた場所で頭骸骨《ずがいこつ》の頂《いただき》を発見した。それからさらに引き続き発掘をしていたところが、今度は頭蓋骨の発見された所から八|間《けん》あまり隔てた場所で、左の大腿骨《だいたいこつ》と臼歯をもう一本だけ発見したのである。  くわしいことは私の専門外だから略しておくが、これが今日人間といえばいい得らるる者のいちばん古い遺骨であって、学問上ではこの人間を名づけてピテクァントロプス(猿《さる》の人)といって [#図省略] いるそうである。しかしこれがはたして今日の人間の直系の祖先に当たるものか否かについては議論があるが、ともかく大腿骨が出たので、その構造から考えてみて、この猿の人なるものは直立していたということはわかるし、また頭蓋骨の一部が出たので、その者の脳髄も相当に発達していたということもわかる。元来われわれ人間が道具を造り出しうるに至ったのは、われわれが直立して二本の足で楽にからだをささえうるようになってからの事である。すでにからだがまっすぐになって来ると、それに伴うて二本の手が浮いて来て、全く自由なものになると同時に、頭がからだの中心に位することになって、始めて脳髄が充分な発達を遂げうるのである。――獣《けだもの》のように四つ足を突いて首を前に出していては、到底重い脳みそを頭の中に入れておられるはずのものでない。猩々《しょうじょう》、猿の人、曙《あけぼの》の人(後に述ぶ)、現代人と、だんだん姿勢が直立して来るに従って、脳髄も次第に大きくなって来るありさまは、ここに挿入せる図によりてそのその一斑を知らるべし。――そこでその発達した脳髄でもって自由な手を使うことになったから、始めて人間特有の道具の製造が始まるのであるが、今この猿の人なるものがはたして道具を造っていたか否かに至っては、別に確かな証拠はないが、たぶん木及び石でできたきわめて幼稚な道具を使っていただろうというのが、オスボーン氏の説である[#原注*]。 (十月十三日) [#原注*] H. F. Osborn. Men of the Old Stone Age, 1916. pp.82,83,86.        五の四  同じような話が重出《ちょうしゅつ》するのでおもしろくないが、物語を進めるために、今一つ似寄ったお話をしなければならぬ。それは今よりわずかに五年前、一九一一年に英人ドウソン氏の発見した人間の骨の化石のことである。  ドウソン氏はこれより先数年前、英国サセックス州のビルトダウンの共有地に近い畑で道路を作るために土を掘った時、人間の顱頂骨《ろちょうこつ》の小さな片を発見したことがある。ところが一九一一年の秋、氏は同じ場所から出た発掘物の中より、先に発見した頭蓋骨《ずがいこつ》の他の部分で、額《ひたい》に相当する大きな骨と、鼻から左の目にかけての部分に相当する骨とを発見した。そこでこれは大いに研究の価値があるということをいよいよ確かめたので、一九一二年の春すなわち今から四年前に、人夫を督して大捜索を始めたのである。ところが骨は方々に散ってしまった様子で容易に何ものも発見できなんだ。しかしそれに屈せずなお根《こん》よく捜していたところが、始めて顎《あご》の右半分が見つかり、さらにそこから三尺ばかり隔てた所で後頭骨が見つかったのである。なおその翌年すなわち今から三年前には、フランスの人類学者のテイラー氏が同じ場所を重ねて発掘して、さらに犬歯《いぬば》を一本と鼻の骨とを発見したのである。そんな関係からこの人間の顎の骨もほぼ整ったのであるが、学者の説によると、これは今から十万年ないし三十万年前の人間の骨だということである。  さてこの人間は今日学者が名づけてエアントロプス(曙《あけぼの》の人)といっている者である。そうしてこの人間がはたして今日の人間の直系の祖先であるか、または同じ祖先から出た枝で、すでに子孫の絶滅したものであるかという点になると、学者の説がまだ一致しておらぬそうだが、ともかく前回に述べた『猿の人』に比ぶれば、年代も新しくかつ今日の人間に近い系統のものであるということは、今日何人も疑わぬところである。ところがここに最も興味あることは、この「曙の人」になると、たしかに道具を造っていたと言い得らるるという事である。現に先に述べた頭蓋骨《ずがいこつ》の出たその地層からただ一つだけ燧石《プリント》が発見されたが、おもしろいことには、その石器は自然のままの物ではなくて、確かに造られたものである。しかし細工は片面に施してあるだけで、製造された石器の中では最も幼稚なものだということである。(オスボーン前掲書一三五ページ)。  さてだいぶ余談にわたったようだが、私がここに五十万年前ないし三十万年前の猿《さる》とも人ともわかりかねるような人間の話をして来たのは、諸君に次の事実を承認してもらうためである。それは今日いうところの人間なるものと、道具を造るということとは、きわめて密接な関係をもっているということである。前に述べたごとく、五十万年前の猿の人と称せらるる者は、はたして道具を造っていたかどうか、それには確かな証拠はないのである。ところがそれよりもはるかに今日の人間に近い三十万年ないし十万年前の曙の人と称せらるる者になると、これは確かに道具を造っているのである。しかしそれと同時に、その道具というのは、製造された道具の中では最も幼稚なもので、すなわち『曙の人』の造った道具は、やはり「曙の道具」とでもいうような物なのである。  私はこれより以上の道具の歴史を述べることを控えておくが、要するにわれわれが人間進化の歴史を顧みると、人間というものは人間らしくなるほど、それにつれて次第に道具らしい道具を作 [#図省略] ることになって来ているのである。そうして人間の経済が、今日他の動物社会の経済と比較すべからざる程度の発達をなすに至ったのも、ひっきょうはこの道具のたまものにほかならぬのである。 (十月十四日)        六の一  人間がほかの動物と比較すべからざる経済的発達を遂ぐるに至りし根本原因が、はたして私の言うがごとく、道具の発明にありとするならば、近代に至りその道具がさらに一段の発達を遂げて機械となるに至りしことは実に経済史上の一大事件といわねばならぬ。もしそれ機械の力の驚くべきものなる事は、今さら私の説明をまたざるところである。試みに尋常小学読本巻の十一を見るにいわく「昔の糸車にて紡《つむ》ぐ時は、一本の錘《つむ》に一人を要すべきに、今はわずかに六七人の工女にてよく二千本の錘を扱うを得《う》べし。加うるにかの蝋燭《ろうそく》の心《しん》とする太き糸、蜘蛛《くも》の糸のごとき細き糸、細大意のままにして、手紡ぎのごとく不ぞろいとなることなし。機械の力は驚くべきものにあらずや」と。しかも今日西洋において最も進歩せる機械にあっては、一人の職工よく一万二千錘を運転しうるという。さればこれを紡績の一例について見るも、機械の発明のためにわれわれの生産力は一躍して千倍万倍に増進したわけである。  機械の効果の偉大なることかくのごとし。思うにわれわれは、その昔かつて道具の発明により始めて禽獣《きんじゅう》の域を脱し得たりしがごとく、今や機械の発明によって、旧時代の人類の全く夢想だもし得ざりし驚くべき物質的文明をまさに成就せんとしつつある。しかして私は、このまさに成就されんとする新文明のたまものの一として、貧乏人の絶無なる新社会の実現を日々に想望しつつある者である。  私は遠くさかのぼりて道具の人類進化史上における地位を稽《かんが》え、転じて近代における機械の偉大なる効果を思うごとに、今の時代をもって真に未曾有《みぞう》難遭《なんそう》の時代なりとなすを禁じ得ず。されば一昨昨年(一九一三年)の末始めてロンドンに着き、取りあえず有名なウェストミンスター寺院《アベー》を訪問して、はからずもゼームス・ワットの大理石像を仰ぎ見たる時なども、私は実に言うべからざる感慨にふけった者である。仰ぎ見れば、彼ワットはガウンを着て椅子《いす》に腰を掛け、大きな靴《くつ》をはいて、左の足を後ろに引き、右の足を前に出し、紙をひざにのべ、左手《ゆんで》にその端をおさえ、右手《めて》にはコンパスを握っている。そうしで台石の表面には、次のような文字が彫り付けてある。 [#ここから1字下げ] 「この国の国王、諸大臣、ならびに貴族平民の多くの者どもが、この記念像をゼームス・ワットのために建てた。そは彼の名を永遠に伝えんとてにあらず、彼の名は平和の事業にして栄ゆる限り、かかる記念像をまたずして必ずや永遠に伝わるべきものである。むしろこの像は人間が……彼らの最上の感謝に値するところの人々を尊敬することをわきまえているという証拠を示すためにのみ、ただ建てられたものである。」 [#ここで字下げ終わり]  彼ワットとは言うまでもなく蒸気機関の発明者である。しかしてこの蒸気機関の発明者こそ機械時代の先駆者の一人であってみれば、彼の名は実に人間にして滅びざる限り永遠に伝わるべきものである。  ウェストミンスター寺院《アベー》には、ダーウィンがいる、ニュートンがいる、セークスピアがいる、そうしてまたこのワットがいるのである。寺院《アベー》のすぐ前は、ロンドンで最もにぎやかな場所の一つたるトラファルガル・スケアであって、そこには空にそびゆる高い高い柱の頂上に、ネルソン将軍が突き立っている。昔トラファルガルの海戦でスペイン、フランスの連合艦隊を一挙にしてほとんど全滅させ、自分もその場で戦いに倒れた英国海軍の軍神ネルソン卿《きょう》の銅像が、灰色の空に突き立って下界を見おろしているのである。そのネルソン卿の見おろしている下の広場は、自動車や人間の往来に目もくらむばかりであって、道一ツ横切るにも私たちのようないなか者はいつもひやひやしたものである。カフェーにはいると、地下室になっている。そこへ腰を掛けて茶を飲んでいると、天井の明かり取りのガラス板の上をおおぜいの人が靴《くつ》を踏み鳴らしながら通る。その騒々しさにはわれわれの神経もすり減らされるような気持であるが、さて戸を一つあけて寺院の内にはいると、たとえば浅草《あさくさ》の公園でパノラマ館にはいったよう、空気はたちまち一変して、外の騒々しさはすべて拭《ふ》いたように消されてしまって、寺院の内は靴音さえ慎まれるほどの静けさである。私はそういう空気のなかで彼ワットの像を仰ぎ見ながら、低徊《ていかい》去るあたわず、静かにさまざまの感想にふけったものであるが、今またこの物語を草して機械のことに及ぶに当たり、ゆくりなくも当時を追懐して、ここに無用の閑話に貴重なる一日の紙面をふさぐに至りし次第である。 (十月十五日)        六の二  私は先に機械のことを述べ、今日《こんにち》は機械の発明のために、仕事の種類によっては、われわれの生産力が数千倍数万倍に増加したことを説いた。しかるにもかかわらず、その機械の応用の最も盛んなる西洋の文明諸国において、――すでにこの物語の冒頭に述べしごとく、――貧乏人の数が非常に多いというのは、いかにも不思議の事である。富める家にはやせ犬なしとさえ言うものを、経済のはるかに進んでいる文明諸国のことなれば、金持ちに比べてこそ貧乏人といわれている者でも、必ずや相応の暮らしをしているに相違あるまいと思うのに、なかなかそうではなくて、肉体の健康を維持するに必要な所得さえ得あたわぬ貧乏人が非常に多いというのは、実に不思議千万なことである。  今私はこの不思議を解いてなんとかして貧乏根治の方策を立てたいと思うのであるが、この問題についてはすでに百年来有名なマルサス人口論というものがあるから、他の所説はしばらくおくとするも、議論の順序として、まずこの人口論だけは片付けておかねばならぬ。  『人口論』の著者として有名なるマルサスは今から百五十年前英国に生まれた人で、その著『人口論』の第一版は、今から約百二十年前一七九八年に匿名にて公にされたものである。氏の議論はその後『人口論』の版を改むるに従うて少なからず変化されておるから、簡単にその要領を述ぶることは不可能であるが、ここには便宜のためにしばらく初版につきその議論の大意を述べる。氏の意見によれば、色食の二者は人間の二大情欲である。しかしてわれわれ人間は、色欲を満足することによりてその子孫を繁殖し、食物を摂取することによりてその生命を維持しつつあるが、今その生活に必要なる食物の生産増加率は、到底人口の繁殖率に及ばざるものである。されば人間という動物があくまでも盛んに子を産み、しかもその人間を育てるにはどうしても食物が必要だという以上、さまざまの罪悪や、貧乏のために難儀するのは、われわれの力でいかんともすることのできぬ人間生まれながらの宿命だというのである。  さてこの人口論がもし真理であるならば、貧乏根治を志願の一としてこの世に存命《ながら》えおるこの物語の著者のごときは、書を焼き筆を折って志を当世に絶つのほかはないが、幸いにして私の見るところはマルサスとやや異なるところがある。けだしマルサスの議論は、かりに人間全体が貧乏しなければならぬという事の説明となるとしても、かの同じ人間の仲間にあって、ある者は方丈《ほうじょう》の食饌《しょくせん》をつらね得、ある者は粗茶淡飯にも飽くことあたわざるの現象に至っては、全くこれを説明し得ざるものである。いわんや最近百余年の間において、機械の発明は各方面に行なわれ、その著しきものにあっては、ために財貨生産の力を増加せしこと、実に数千倍数万倍に達しつつある。いかに人口の繁殖力が強ければとて、到底この機械の発明にもとづく生産力の増加に匹敵すべくもない。されば百数十年前人口論の初めて世に公にされし当時ならばともかく、二十世紀の今日にあっては、財貨の生産力が人口の繁殖力に及ぶことあたわざるをもって、貧乏の根源となさんとするがごときは、当たらざるもまた遠しと言わなければならぬ。しからばなんのためにかの多数の貧民はあるか。請う回を改めて余が見るところを述べしめよ。 (十月十六日)        七の一  道具の発明によって禽獣《きんじゅう》の域を脱し得た人間が、機械の発明された今日、なお貧苦困窮より脱しあたわぬというは、一応は不思議な事である。しかしよく考えてみると、不思議でもなんでもなく、実は有力な機械というものはできたけれども、その機械の生産力が今日では全くおさえられてしまって、充分にその力を働かせずにいるのである。物を造り出す力そのものは非常にふえているけれども、その力がおさえられて充分に働きを現わさずにいるから、それでせっかく機械の発明された世の中でありながら、われわれ一般の者の日常の生活に必要ないわゆる生活必要品なるものの生産が、著しく不足しているのである。これをたとうれば、立派なストーブを据え付けながら、炭を吝《おし》んで行火《あんか》火《び》ほどのものを入れ、おおぜいの人がこれを囲んで、冬の日寒さに震えつつあるがごときものである。  あるいはこの点を誤解して、今日は機械ができたためにわれわれの生活に必要な品物はすでに豊富に造り出されているけれども、その分配が悪いために、ある少数の人の手に余分に分捕《ぶんど》られ、それがために残りの多数の人々は食うものも食わずに困っているのである、というふうに考えている者もあろうが、それは大きな間違いである。  たとえば今日の日本にでも充分に食物を得ておらぬ者はたくさんあろうと思う。もちろんまずい物でもなんでも腹一杯詰め込んでおれば、本人は別にひもじいとは思っておらぬであろうが、しかし医者の目から見て営養不足に陥っている者は少なからずいるだろうと思う。それならばそれらの人々に当てがわるべき米の飯なり魚肉なり獣肉なりが、金持ちのためにみんな奪い取られているかと言えば、無論金持ちは金持ち相応にぜいたくな金のかかった食事をしているであろうが、しかしそれかというて、それらの金持ちが毎日一人して百人前千人前の米や肉を食べているわけではない。あるいはまた冬の夜、寒さを防ぐに足るだけの夜具、衛生にさしつかえないだけの清潔な蒲団《ふとん》、それをさえ充分に備えていない家族も少なくはあるまいと思うが、それならば金持ちの所へ行ってみると、これらの貧乏人に渡るべきはずの木綿《もめん》の夜具がことごとく分捕って積み重ねてあるかといえば、決してそんなわけのものではない。  されば今日社会の多数の人々が、充分に生活の必要品を得《う》ることができなくて困っているのは、たくさんに品物はできているがただその分配のしかたが悪いというがためではなくて、実は初めから生活の必要品は充分に生産されておらぬのである。  それならばなぜ、そういうたいせつな品物がまだ充分にできておらぬのに、都会に出てみると、至る所の店頭にさまざまのぜいたく物や奢侈品《しゃしひん》が並べられてあるかといえば、実はそこに今日の経済組織の根本的欠点があるのである。  けだし今日の経済社会は、需要ある物に限りこれを供給するということを原則としているのである。ここに需要というは、単に要求というと同じではない。一定の要求に資力が伴うて来て、始めてそれが需要となるのである。たとえば襤褸《ぼろ》をまとうた乞食《こじき》がひだるそうな面《つら》つきをしながら、宝石店の飾り窓にのぞき込んで金指輪や金時計にあこがれたとて、それは単純な欲求で、購買力を伴うた需要というものではない。しかして今日の経済組織の特徴は、かくのごとき意味における需要をのみ顧み、かかる需要ある物に限りこれを生産するという点にある。しからばその需要なるものは、今日の社会でどうなっているかといえば、生活必要品に対する需要よりも、奢侈ぜいたく品に対する需要のほうが、いつでもはるかに強大優勢である。これ多くの生活必要品がまずあと回しにされて、無用のぜいたく品のみがどしどし生産されて来るゆえんである。 (十月十七日)        七の二  けだし生活必要品に対するわれわれの需要にはおのずから一定の制限あるものである。かつて皆川淇園《みながわきえん》は、酒数献にいたるときは味なく、肴《さかな》数種におよぶときは美《うま》みなく、煙草《たばこ》数ふくに及ぶときは苦《にが》みを生じ、茶数|碗《わん》におよぶときは香《かん》ばしからずと言ったが、誠にその通りで、たとえばいくら酒好きの人で、初めのうちは非常にうまいと思って飲んでいても、だんだん杯を重ねるとそれに従うて次第次第に飽満点に近づいて来る。そうして一たんその飽満点に達したならば、それから上は、いかなる上戸《じょうご》でも、もういやだという事になる。いくら食物が人間の生活に必要だといっても、いわゆる食前方丈所レ[#「レ」は返り点]甘不レ[#「レ」は返り点]過二[#「二」は返り点]一肉之味一[#「一」は返り点]〈食前方丈なるも甘んずる所一肉の味に過ぎず〉で、日に五合か六合の飯を食えばそれで足りる。それより以上は食べたくもなし、食べられるものでもなし、食べたからとてからだをこわすばかりである。さればいかなる金持ちでも、その胃袋の大いさが貧乏人とたいした違いなく、足もやはり貧乏人と同じように二本しかないならば、その者が自分で消費するために金を出して買うところの米とか下駄《げた》とかいうものには、おおよそ一定の限度があるべきはずである。そこでこれら金持ちの人々の需要の大部分はおのずから奢侈品《しゃしひん》に向くことになるのである。米を買ったり下駄を買ったりしただけでは、まだたくさんの金が残るからして、その有り余る金をばことごとく奢侈品に向けて来る。そこで奢侈品に対するきわめて有力なる需要が起こると同時に、生活必要品に対する貧乏人の需要のごときはこれがため全く圧倒されてしまうのである。しかるに今日の経済組織の下においては天下の生産者はただ需要ある物のみを生産し、たといいかに痛切なる要求ある物といえども、その要求にして資力を伴わざる限り、捨ててこれを顧みざるを原則としつつある。これ今の時代において、無用有害なる奢侈ぜいたく品のうずたかく生産されつつあるにかかわらず、多数人の生活必要品のはなはだしく欠乏を告げつつあるゆえんである。  たとえば、貧乏人がわずかばかりの金を持ち出して来て、もっと米を作ってくれと言ったところで、そう安く売っては割に合わぬから、だれも相手にする者はない。そこへ金持ちが出て来て、世の中にはずいぶん貧乏人がいて、米の飯さえ腹一杯よう食わぬ人間がいるということだが、さてさて情けないやつらである。おれなぞははばかりながら世間月並みのお料理にも食い飽きた。心の傷《いた》める人の前で歌を歌うことなかれという事もあるが、それはどうでもよいとして、きょうは何か一つごくごく珍しいものを食べてみたい。しかし一人で食べてはおもしろうない、おおぜいの客を招き、山海の珍味を並べて皆を驚倒さしてやろう、などと思い立ったとすると、彼はさっそく料理人を呼ぶ。そうして、金はいくらでも出すから思い切って一つ珍しい料理をしてみてくれ、まず吸い物から吟味してかかりたいが、それはほととぎすの舌の澄汁《すまし》とするかなどと命じたならば、さっそくおおぜいの人がほととぎすを捕りに山にはいるというような事になって、それだけたとえば米を作るなら、米を作る人の数が減ることになる。すでに米を作る人が減って来れば、それに応じて米の生産高は減じ、従うて米の値も高くなるであろうが、いくら米価は騰貴しても金持ちにはいっこうさしつかえはない。ただ困るのは貧乏人で、わずかばかりの収入では家族一同が米の飯を腹一杯食うことさえできぬというふうにだんだんなって来るのである。 (十月十八日)        七の三  以上はただ話をわかりやすく言っただけのもので、実際の社会はきわめて複雑であるけれども、要するに今日の経済組織の下においては、物を造り出すということが私人の金もうけ仕事に一任してあるから、そこで金を出す人さえあれば、どんな無用なまた有害な奢侈《しゃし》ぜいたく品でもどしどし製造されると同時に、もし充分に金を出して買いうる人がおおぜいおらぬ以上、いかに国民の全体または大多数にとってきわめてたいせつな品物であっても、それが遺憾なく生産されるというわけには決してゆかぬのである。  たとえばこれを英国における靴《くつ》の製造業について見るも、無論立派な機械がだんだん発明されて来ているから、その生産力は非常にふえている。しかしそれならば靴の製造高は昔に比べて非常に増加したかというに、決してそうではない。これはなぜかといえば、いくら金持ちだからといって、靴のごときものをそうたくさん買い込むものではない。もっともそのほかにたくさん貧乏人がいて、これらの貧乏人は皆靴がほしいほしいと言っているけれども、ほしいと言うばかりで、ろくに金を出す力がない。もし靴の値段をうんと下げたなら、これらの貧乏人もみんな買うであろうが、しかしそう値段を下げては割に合わぬから、それで製造業者の力では最初からたくさんの靴は造らぬのである。かようなわけでせっかく機械が発明されても、そうたくさん機械が据《す》え付けらるるわけでもなく、また機械のため生産力そのものはにわかにふえて来ているのに、生産高はその割合にふやさぬということであるから、そこで職工は次第に解雇されて、失業者の群れに入ることになる。かくのごとくしてせっかく発明された機械も充分に普及されず、立派な手を備えて働きたいと思っている者も口がなくて働けず、機械も人もともにその生産力をおさえられ、十二分の働きのできぬようにされているのである。  こういったような議論をかつてチオザ・マネー氏がデーリー・ニュースという新聞紙に掲げたところが、氏は読者の一人から次のごとき手紙をもらったことがあるという。(同氏著『富と貧』一三三ページ) [#ここから1字下げ] 「あなたが月曜日及び火曜日の紙上で靴《くつ》の事についてお書きになったことは、私は全くほんとうだと思います。それについては私自身の経験があります。私は鉄道の一従事者で、引き続き奉職していて、ただ今は一週三十シリングずつもらっております。……しかし一九〇三年には私の労賃は二十五シリング六ペンスでした。そうしてその時から私は六人の子供をもっていますが、ちょうどそのおりの事です。私の家の隣に靴の製造及び修繕を業としておる者がいましたが、その人はそのころ業を失ってすでに数個月も遊んでいたのです。そのころ私の子供の靴は例のとおり修繕にやらなければならなくなっていましたが、金がないので修繕に出すことができません。それでしかたなしに自分でへたな細工をしておりますと、ある日のことです、ちょうど私は壁のこちら側で靴の修繕をやっていると、業を失った隣の人は壁の向こう側にいて、私がやむを得ずさせられている仕事を、自分にやらしてくれればよいのにという顔つきをしていました。私がその時の事情を考えた時に、私の心の中を通ったいろいろの感情は、私のいまだに忘れる事のできぬところです。それゆえあなたの靴業に関する議論を読むと、すぐにまた当時の事を思い起こして、ここにこの手紙をあなたにさしあげる次第です[#原注*]……。」 [#原注*] Chioza-Money, Rich and Poor, p. 133. [#ここで字下げ終わり]  これは一人の職工の短い手紙ではあるけれども、これを読むと、私は大家の筆に成った長編の社会劇を読んだ時と同じ印象を得《う》るような気持がするのである。  今日ダイヤモンドの世界産額のうち九割五分だけのものは南アフリカのキンバーレーという所の鉱山より産出されつつあるが、そこの鉱脈はすこぶる豊富で、掘り出せばまだいくらでも生産されるのであるが、しかしそうたくさんに売り出しては価格が下落してかえって利潤の総額が減るから、そこの鉱山会社ではわざとその産額を制限しているのである。南アのダイヤモンド生産は一会社の独占に帰していて、その生産制限が特に目立って行なわれているがために、今日は世界周知の事実となっておるが、もしもわれわれが、一段の高処に立って天下を大観したならば、これと同じようなる生産制限は、世界経済の至る所に、各種の事業を通じて、あまねく行なわれつつあるを看取するに難からぬであろう。これ有力なる機械の発明されたる今日、貧乏に苦しむ者のなお四方にあまねきゆえんである。 (十月十九日)        七の四  私は前回に縁の遠い英国の靴《くつ》製造業の事など持ち出して、しばらく問題を当面の日本から遠ざけておいたが、実は手近な所にも、同じように明瞭な実例がたくさんある。たとえば近ごろわが国に行なわれた米価調節なるものがそれである。米がたくさんできるということは実によろこばしい事で、現にこれがためには全国各府県に農事試験場などを設けてしきりにその生産増加を奨励しているのである。しかるにたくさんできると値段が安くなる。しかも安くなっては農家のもうけが減るというので、政府はいろいろに骨を折って、今度は米価をつり上げるくふうをしている。一方には日々の米代の支払にも困っている者がたくさんある。腹一杯米の飯をよう食わぬ者もおおぜいいる。それに政府は、米の値段を高くするために、委員会などを設け、天下の学者実業家を寄せ集めて、いろいろと骨を折らねばならなぬというのであるから、実に矛盾した話であるが、しかしこの一例によってみても、今日の経済組織の欠陥の那辺《なへん》にあるかはよくわかる。  世間社会問題を論ずる者、往々にして浅近の所に着眼し、貧乏を根治するの策は、一に貧民の所得を増加するにあるがごとく思惟す。さりながらいかに彼らの所得を増加したりとて、他方において富者の富がさらにいっそうの速度をもって増加する以上、貧富の懸隔はますますはなはだしきを加え、従うて天下の生産力が奢侈《しゃし》ぜいたく品の産出に吸収さるるの弊は、あえてこれがために匡正《きょうせい》さるることなく、その結果たとい貧乏人の貨幣所得は多少ずつ増加することありとも、生活必要品の価格はさらにそれ以上の速度をもって騰貴し、これがため彼らの生活はかえって苦しくなるばかりであろう。  これを要するに、今日生活の必要品が充分に生産されて来ぬのは、天下の生産力が奢侈ぜいたく品の産出のために奪い去られつつあるがためである。多数貧民の需要に供すべき生活の必需品は、少し余分に造ると、じきに相場が下がってもうけが減るから、事業家はわざとその生産力をおさえているのである。しかして余の見るところによれば、これが今日文明諸国において多数の人々の貧乏に苦しみつつある経済組織上の主要原因である。  さてかくのごとく論じきたる時は、私の議論はいつのまにか循環したようである。なぜというに、私は最初、今日なぜ貧乏人が多いかといえばそれは生活必要品の生産額が足らぬからだと言った。しかるにさらに進んで、なぜ生活必要品の生産額が充分にならぬかと尋ねられると、それはほしいと思っている人はたくさんあっても、その人たちが充分な資力をもっておらぬからだと答えた。ところが充分に資力をもっておらぬ者はすなわち貧乏人であるから、つまり私の説によると、生活必要品の生産額が不充分なのは社会に貧乏人が多いからだということになる。すなわちなぜ貧乏人が多いかといえば、生活必要品の生産が足らぬのだと言い、なぜ生活必要品の生産が足らぬかと言えば貧乏人が多いからだと言っているので、なんだか私は手品を使って、この最難関をごまかしながら抜け出たように見える。しかしこれは私の議論が循環しているのではなくて、実際の事実が循環しているのである。いずれその事は後に至ってさらに詳論するつもりであるが、ともかく以上述ぶる所によって考うれば、貧乏問題は一見すれば分配論に局限されたる問題のごとくにして、実は生産問題と密接なる関係を有するものなる事を看取するに足るであろう。思うに世上社会問題を論ずるもの往々これをもって単純に富の分配に関する問題となし、その深く現時の生産組織と連絡するところあるを看過する者すこぶる多し。これ余が特に如上の点を力説して、しかる後問題の解決に進まんとせしゆえんである。 (十月二十日)        八の一  今や天高く秋深くまさに読書の好時節なりといえども、著者近来しきりに疲労を覚え、すこぶる筆硯《ひっけん》にものうし。すなわちこの物語のごときも、中絶することすでに二三週、今ようやく再び筆を執るといえども、駑馬《どば》に鞭《むちう》ちて峻坂《しゅんぱん》を登るがごとし。  それ貧乏は社会の大病である。これを根治せんと欲すれば、まず深くその病源を探ることを要す。これ余が特に中編を設け、もっぱらこの問題の攻究にあてんと擬せしゆえんである。しかもわずかに粗枝大葉の論を終えたるにとどまり、説のいまだ尽くさざるものなお多けれども、駄目《だめ》を推さばひっきょう限りなからん。すなわち余はしばらく以上をもって中編を結び、これより直ちに下編に入らんとす。下編はすなわち貧乏退治の根本策を論ずるをもって主題となすもの、おのずからこの物語の眼目である。  今論を進めんがため、重ねて中編における所論の要旨を約言せんか、すなわちこれを左の数言に摂することを得《う》。いわく、 [#ここから1字下げ] (一)現時の経済組織にして維持せらるる限り、 (二)また社会にはなはだしき貧富の懸隔を存する限り、 (三)しかしてまた、富者がその余裕あるに任せて、みだりに各種の奢侈《しゃし》ぜいたく品を購買し需要する限り、 [#ここで字下げ終わり] 貧乏を根絶することは到底望みがない。  今日の社会に貧乏を絶たざるの理由すでにかくのごとし。されど吾人《ごじん》にしてもしこの社会より貧乏を根絶せんと要するならば、これら三個の条件にかんがみてその方策を樹《た》つるのほかはない。  第一に、世の富者がもし自ら進んでいっさいの奢侈《しゃし》ぜいたく品を廃止するに至るならば、貧乏存在の三条件のうちその一を欠くに至るべきがゆえに、それはたしかに貧乏退治の一策である。  第二に、何らかの方法をもって貧富の懸隔のはなはだしきを匡正《きょうせい》し、社会一般人の所得をして著しき等差なからしむることを得《う》るならば、これまた貧乏存在の一条件を絶つゆえんなるがゆえに、それも貧乏退治の一策となしうる。  第三に、今日のごとく各種の生産事業を私人の金もうけ仕事に一任しおくことなく、たとえば軍備または教育のごとく、国家自らこれを担当するに至るならば、現時の経済組織はこれがために著しく改造せらるるわけであるが、これもまた貧乏存在の一条件をなくするゆえんであって、貧乏退治の一策としておのずから人の考え至るところである。  さてわれわれが今、当面の問題をば単に机上の空論として取り扱うつもりならば、われわれは理論上以上の三策に対してはほぼ同一の価値を下しうる。しかしながら、採ってもって直ちにこれを当世に行なわしめんとするにあるならば、おのずから別に周密なる思慮を加うるを要する。  たとえば、難治の大病にかかって長く病院にはいっていた者が、近ごろ次第に快方に向かったというので、退院を許され、汽車に乗って帰郷の途についたとする。しかるに不運にも汽車が途中で顛覆《てんぷく》してその人もこれがために重傷を負うて死んだとする。今この一例について考うるに、もし汽車が顛覆しなかったならば、この人はたしかに死ななかったはずである。しかしたとい汽車は顛覆しても、もしその病気が快方に向かわなかったならば、この人は退院も許されず、従って帰郷の途につくはずもなかったのであるから、やはり死をまぬがれたはずである。すなわちこの人の死を救わんとすれば、われわれはこれら二条件のいずれか一をなくすればよいのであるが、しかし汽車をして顛覆せしめざるの方策を講ずるのはさしつかえないけれども、その人の病気をして快方に向かわしめざるの方策を講ずるというは間違いである。もし引き続きさような事をしたならば、その人は汽車でけがをして死ぬることこそなくとも、ついには病院の床の上で医者に脈をとられつつ死ななければならぬのである。思うに以上述べたる貧乏根治策のうち、あるいはこれに類するものなきやいかん。けだし上記三策の是非得失ならびにその相互の間における関係連絡に至っては、おのずからさらに慎重なる考慮を要すべきものならん。請う余をして静かにその所思一端を伸べしめよ。 (十一月十一日)        八の二  余は前回において貧乏根絶策として考えうべきもの三策あることを述べ、すでにその大要を説きおえたりといえでも、なおいささか尽くさざるところあるがゆえに、本日は重ねてまた同一事を繰り返す。  今日経済上の技術はすでに非常なる進歩を遂げたるにもかかわらず、何ゆえ生活必要品の生産が充分に行なわれずして、多数の人々はその肉体の健康を維持するに足るだけの衣食さえ、これを得《う》ることあたわざるの状態にあるかといえば、それはすでに述べしごとく、富者がその余裕あるに任せ、みだりに各種の奢侈ぜいたく品を需要するがゆえに、天下の生産力の大半がこれら無用有害なる貨物の生産に向かって吸収され尽くすがためである。さればもし世間の金持ちがいっさいの奢侈ぜいたくを廃止するならば、たとい社会には依然としてはなはだしき貧富の懸隔を存し、また社会の経済組織もすべて今日のままに維持せらるとも、私のいうがごとき貧乏人(すなわち金持ちに比較していう貧乏にあらず、肉体の健康を維持するだけの生活必要品をさえ享受することあたわざる状態にあるという意味の貧乏人なり)は、すべて世の中から跡を絶つに至るべきはずである。これ余が、富者の奢侈《しゃし》廃止をもって貧乏退治の第一策となすゆえんである。  しかしたとい今日の富者が自ら進んで倹素身を持するに至らずとも、もしなんらかの方法をもって、一方には富者のますます富まんとするの勢いをおさえ、他方には貧者(金持ちに比較していう貧乏人)をして次第にその地位を向上せしめ、かくて貧富の懸隔のはなはだしきを匡正《きょうせい》し、一般人の所得をして比較的平等に近づくを得せしむるならば、われわれはその方法のみによっても、貧乏退治の目的を達することができる。けだしすでに一般人の所得にしてはなはだしき差異なからんか、一国の購買力はおのずから社会の最大多数の人々の必要品に向かって振り向けらるべきがゆえに、たとい社会の経済組織は全く今日のままにて、すなわち貨物の生産者はすべて自己の営利をのみ目的とし、もっぱら需要ある貨物、言い換うれば金を出して買い手のある貨物をのみ生産するしくみとなりおるとも、今日のごとく無用有害の奢侈ぜいたく品のみうずたかく製造され、多数人の生活必要品の生産は捨てて顧みられざるがごとき悲しむべき状態は、幸いにしてこれを免れうるからである。これ余が、貧富懸隔の匡正をもって貧乏退治の第二策となすゆえんである。  しかるにさらに考うれば、たとい第一策にして行なわれず、まだ第二策にして行なわれずとするも、もし今日の経済組織を改造すれば、やはり貧乏退治の目的を達しうるがごとくである。少なくともそういう事を考え浮かぶ人がありうるはずである。何ゆえというに今日多数人の生活必要品が充分に生産されぬのは、貨物の生産というたいせつな事業が私人の金もうけの仕事に一任してあるからである。一国の軍備でも教育でももしこれを私人の金もうけの仕事に一任しておくならば、到底その目的を達し得らるるものではない。しかるに軍備よりも教育よりもなおいっそうたいせつなる生活必要品の生産という事業をば今日は私人の金もうけの仕事に一任しているから、それで各種の方面に遺憾な事が絶えないのである。ゆえに今日の貧乏を退治せんとすれば、よろしく経済組織の改造を企て、私人の営利事業のうち、国民の生活必要品の生産調達をつかさどるものは、ことごとくこれを国家事業に移すべしなどいう思想が出て来るのである。これ余が経済組織の改造をもって貧乏退治の第三策となすゆえんである。今余は便宜のため、以下まずこの第三策より吟味するであろう。 (十一月十四日)        九の一  「経済学は英国の学問にして、英国は経済学の祖国なること、たれ人も否むあたわざるの事実なり」(福田《ふくだ》博士の言)。今その英国に育ちたる経済学なるものの根底に横たわりおる社会観を一言にしておおわば、現時の経済組織の下における利己心の作用をもって経済社会進歩の根本動力と見なし、経済上における個々人の利己心の最も自由なる活動をもって、社会公共の最大福利を増進するゆえんの最善の手段なりとなすにある。しかるに、元来人は教えずして自己の利益を追求するの性能を有する者なるがゆえに、ひっきょうこの派の思想に従わば、自由放任はすなわち政治の最大|秘訣《ひけつ》であって、また個人をしてほしいままに各自の利益を追求せしめおかば、これにより期せずして社会全体の福利を増進しうるということが、現時の経済組織の最も巧妙なるゆえんであるというのである。すなわち現時の経済組織を謳歌《おうか》し、その組織の下における利己心の妙用を嘆美し、自由放任ないし個人主義をもって政治の原則とすということが、いわゆる英国正統学派の宗旨とするところである。さればいやしくも現時の経済組織の下において、多少にても国家の保護干渉を是認し、利己心の自由なる発動になんらかの制御を加えんとするかの国家主義、社会政策のごときは、これを正統学派より見れば、すなわちいずれも皆異端である。  個人主義者はすなわち説いていう。「試みにヨーロッパの世界的都市にきたりて見よ。そこには幾百万の人々が毎朝種々雑多の欲望をもって目ざめる。しかるに大部分の人々はなお深き眠りをむさぼりつつある時、はや郊外からは新鮮なる野菜を載せた重い車をひいて都門に入りきたる者があるかと思えば、他方には肥えたる牛を屠場《とじょう》に引き入れつつある者がある。パン屋ははや竈《かまど》をまっかにして忙しそうに立ち働いているし、乳屋は車を駆《や》って戸々に牛乳を配達しつつある。かしこには馬車屋が見も知らぬ客を乗せて疾走しているかと見れば、ここには来るか来ぬか確かでもない顧客を当てにして、各種の商店が次第次第に店を開き始める。かくて市街はようやく眠りよりさめ、ここにその日の雑踏が始まる。今この驚くべき経営により、幾百万の人々が、日々間違いなく、パンや肉類や牛乳や野菜やビールやぶどう酒の供給を受けて、無事にその生活を維持し行くを得《う》るは、そもそも何によるかと考えみよ。ひっきょうは皆利己心のたまものではないか。いかに偉い経営者が出て、あらかじめ計画を立てたとて、数百万の人々の種々雑多の欲望をば、かくのごとく規則正しく満たして行くということは、到底企て及ぶべからざる事である。」(ランゲ氏『唯物主義史論』中の一節を借る[#原注*])。個人主義者はかくのごとく観ずることによりて現代の経済組織を謳歌《おうか》するのであるが、げに今の世の中は、金ある者にとりてはまことに重宝しごくの世の中である。 (十一月十五日) [#原注*] Lange, Geschichte des Materialismus. Bd. II. S. 475.        九の二  げに今の世のしくみは、金ある者にとっては、まことに便利しごくである。現に私のごとき者も、多少ずつの月給をもらっているおかげで、どれだけ世間のお世話になって便利を感じておるかわからぬ。まず手近な食物について考えてみても、何一つ私は自分に手を下して作り出した物はない。私は春が来ても種子《たね》をまく心配もせず、二百十日が近づいても別に晴雨を気にするほどの苦労もしておらぬのに、間違いなく日々米の御飯を食べることができる。その米は、私の何も知らぬうちに、日本のどこかでだれかが少なからぬ苦労を掛けて作り出したものである。それをまただれかがさまざまのめんどうを見て、山を越え海を越え、わざわざ京都に運んで来てくれたものである。また米屋という者があって、それらの米を引き取って精白し、頼みもせぬに毎日用聞きに来てくれるし、電話でもかければ雨降りの日でもすぐ配達してくれる。かくのごとくにして、私はまた釣りもせずに魚を食い、乳もしぼらずにバタをなめ、食後には遠く南国よりもたらせし熱帯のかおり高き果実やコーヒーを味わうことさえできる。呉服屋も来る、悉皆屋《しっかいや》も来る。たとい妻女に機織りや裁縫の心得はなくとも、私は別に着る物に困りはせぬ。今住んでいる家も、私は一度も頼んだことはないが、いつのまにか家主《やぬし》の建てておいてくれたものである。もちろんわずかにひざを容《い》るに足るだけのものではあるが、それでも庭には多少の植木もあり、家には戸締まりの用意までしてある。考えてみると、私は私の一生を送るうちに,否きょうの一日《ひとひ》を暮らすにつけても、見も知らぬおおぜいの人々から実に容易ならざるお世話をこうむっているのである。しかしこれは私ばかりではない。私よりももっとよけいの金を持っている者は、広い世間に数限りなくあるが、それらの人々は一生のうち、他人《ひと》のためには一挙手一投足の労を費やすことなくとも、天下の人々は、争うて彼に対しさらにさらに多くの親切を尽くしつつある。そこで金のある人は考える。今の世の中ほど都合よくできているものはない。だれが命令するでもなく計画したのでもないのに、世界じゅうの人が一生懸命になって他人のために働くという今日のしくみは、不思議なほどに巧妙をきわめたもので、とても人知をもって考え出すあたわざるところであると。ここにおいてか、いやしくも現代の経済組織を変更し改造せんとする者ある時は、彼らは期せずしていっせいにかつ猛烈にこれを抑圧する。  しかし気の毒なのは金のない連中である。ことわざに地獄の沙汰《さた》も金次第というごとく、金さえあれば地獄に落つべきものも極楽に往生ができるが、金がなくては極楽にゆくべきものも地獄に落ちねばならぬのが、今の世の中である。先ほども私は、世界じゅうの人が集まって私を親切にしてくれるとお話ししたが、しかしそれは私が多少ずつなりとも月給をもろうて金を持っているからである。家賃を滞らせば、ただ今の親切な家主も、おそらく遠からず私を追い出すであろう。一文もなくなったら、私は妻子とともに、この広い世界に枕《まくら》を置くべき所も得られぬであろう。私の寝ているうちに、毎朝早くから一日も欠かさずに配達してくれた新聞屋も牛乳屋も、もし私が月末にその代価を払わなくなったら、とてもこれまでのように親切にしてくれぬであろう。げに金のある者にとっては、今の世の中ほど便利しごくのしくみはないが、しかし金のない者にとっては、また今の世の中ほど不便しごくのしくみはあるまい。 (十一月十六日)        九の三  今の世の中は、金さえあればもとより便利しごくである。しかし金がなければ不便またこの上なしである。それが今の世のしくみである。それゆえ、一方にはその肉体の健康を維持するに必要なだけの衣食をさえ得ておらぬ者がたくさんいるのに、そんな事にはさらにとんじゃくなく、他方には金持ちの人々の需要する奢侈《しゃし》ぜいたく品がうずたかく生産されつつある。これをば単に金持ちの利己心の立場からのみ見たならば、誠に勝手のよい巧妙なしくみだといえるであろうが、もし社会全体の利益を標準として考うるならば、はたしてこれをこのままに放任しておいてよいものかという疑問が起こるのである。  しかし不思議にもわが経済学は、現代経済組織の都合よき一面をのみ観察することによりてこれを謳歌《おうか》し、その組織の下における利己心の活動をば最も自由に放置することが、やがて社会公共の利益を増進するゆえんの最善の手段であるという主張をもって、創始せられたものである。  思うに個人の私益と社会の公益とが常に調和一致するものなりちょう正統経済学派の思想の泉源は、遠くこれを第十八世紀の初頭に発せしもののごとくである。回顧すれば今より二百十余年前、一七〇五年、もとオランダの医者にして後英国に移住せしマンダヴィルという者は、自作の英詩に『不平を鳴らす蜂《はち》の群れ』という題をつけ、これを定価わずかに六ペンスの小冊子に印刷して公にした事がある。そうしてこの詩編は、それより八年後の一七一四年に、著者自らこれに注釈及び論文等を加え、『蜜蜂《みつばち》物語』[#原注*]と改題して再版するに及び、はなはだしく世間の攻撃を受け、従ってまた著しく世人の注意をひくに至ったものであるが、これがそもそも英国における利己心是認思想の権與《けんよ》である。 [#原注*] Manderville, Fable of Bees.  『蜜蜂物語』は一名『個人の罪悪はすなわち公共の利益なり』と題せるによっても明らかなるごとく、各個人がその私益私欲をほしいままにするという事がやがて公共の利益、社会の繁栄を増進するゆえんであると説いたものである。大正のみ代のかたじけなさには、二百十余年前遠き異国でものされたこの物語も、今日は京都大学の図書館にその一本が備え付けられてある。すなわち試みに蜜蜂の詩の末尾に置かれたる「教訓」と題する短詩を見るに、その末句は次のごとくである。 [#ここから2字下げ] 「さらば悲しむをやめよ、 正直なる蜜蜂の巣をして、 偉大ならしめんとするは、 ただ愚者のなす業《わざ》である。 「大なる罪悪なくして、あるいは 便利安楽なる世の貨物を享受し、 あるいは戦争に勇敢にしてしかも 平時安逸に暮らさんとするは、 ひっきょうただ脳裏の夢想郷である。      * 「かくのごとく罪悪なるものは、 そが正義もて制御せらるる限り、 誠に世に有益なる泉である。 否国民にして大ならんとせば、 罪悪の国家に必要なるは、 人をして飲食せしむるに 飢渇の必要なるがごとくである。」 [#ここで字下げ終わり]  私は今この蜜蜂物語の内容をここにくわしく紹介する余白をもたぬけれども、以上の一二句によりて見る時は、個人の私欲はすなわち社会の公益をもたらすものなりちょう思想が、おおよそいかなる調子で説き出されてあるかがわかるであろう。  ともあれ、今より二百十余年前、英国に帰化したオランダの一医者が歌い出したこの一編の悪詩は、奇縁か悪縁か、後に至って正統経済学派の根本思想を産むの種子《しゅし》となったものである。はなはだあわれな出発点だが、わが経済学の素性《すじょう》を洗えば、実はかくのごときものである。 (十一月二十二日)        九の四  一たびマンダヴィルによって創《はじ》められた利己心是認の論は、その後ヒューム、ハチソンその他の倫理学者の手を経て、ついにアダム・スミスに伝えられた。  アダム・スミスはもとグラスゴー大学の道徳哲学《モーラルフィロソフィー》の教授であったが、のち職を辞して仏国に遊び、それより帰国ののちは、自分の郷里なるスコットランドの小都市カーコゥディーに蟄居《ちっきょ》し、終生ついに妻を迎えず、一人の老母とともに質素平和の生活を営みつつ、黙々として読書思索に没頭すること幾春秋、ようやく一七七三年の春になって、彼は一巻の草稿をふところにしてロンドンに向け出発した。しかしてこの草稿こそ、その後さらに三個年間の増補訂正を経、一七七六年三月九日始めて世に公にさるるに至ったところの有名なる『国富論《ウエルス・オブ・ネーションズ》』であって、わが経済学はまさにこの時をもってこれとともに生まれたものである。  スミスが仏国遊学後、自分の郷里なる田舎町《いなかまち》のカーコゥディーに引っ込んで送り得た約六年の歳月は、外から見ては誠に平静無事な六年であったが、彼自身にとっては実に非常なる大奮闘の時代であって、すなわち彼はこの間においてその肉を削りその血を絞りつつ、彼が終生の大著たる『国富論』の完成に熱中したのであった。されば稿ようやく成るののち、一七七三年の春、これをふところにしてロンドンに向かって立つや、彼は精力気力すでにことごとく傾け終えたるがごとき気持ちであった。その時彼は、ロンドンにたどり着く途中、いつどこの客舎で死ぬかもしれぬと思ったほど、気力の衰えを感じたのである。されば彼がまさにロンドンに向かって出発せんとせる時、同年三月十六日の日付をもって、エディンバラより友人ヒュームにあてたる手紙の中には、万一の場合の後事を委託し、かつ「もし私がきわめて突然に死ぬるような事のない限り、私は今私の持っている原稿をば(それがすなわち『国富論』の草稿である)間違いなくあなたに送らすように注意するつもりである」とさえ言ってあるのである。  私はスミスの伝を読んでこれらの章に至るごとに、古人の刻苦力を用うるの久しくしてかつ至れる、その勝躅《しょうちょく》遺蹤《いしょう》、大いにもって吾人《ごじん》を感奮興起せしむるに足るあるを磋嘆《さたん》するに耐えざる者である。しかしこの年代におけるスミスの衰弱の原因については、私は久しく多少の疑いをたくわえていた。元来スミスは浦柳《ほりゅう》の質であった、それが数年間引き続いて過度の勉強思索にふけったのであるから、はなはだしくその健康を害するに至ったのは、自然のなりゆきのようでもあるが、しかしそれにしても、彼は当時毎年充分の年金を得ていて、衣食のためにはかつて心を労する必要がなかった上に、おいおい年をとって来たとはいえ、ロンドンに向かって出発する時はまさに五十歳に過ぎなかったのである。いくら過度の勉強思索にふけったとはいえ、旅中にいつ死ぬかもしれぬと感ずるまでに弱り果てたというのは何ゆえであるか。これがすなわち私の疑問であって、私はこれに一応の解釈はつけながら、今日までなお充分の満足を得ざりし者である。しかるに近ごろになって私はようやくこの疑問を全く氷釈し得たるがごとくに思う。  けだしスミスは元来倫理学者である。その倫理学者が倫理学者として経済問題の攻究に従事しておるうちに、彼は経済上における利己心の活動を是認することにより、ある意味において、経済上におけるいっさいの人の行為を倫理問題の埒外《らちがい》に推し出したものである。かくて彼は倫理学以外に存立しうる一個独立の科学としてわが経済学を建立し、自らその初祖となったものである。すなわちカーコゥディーにおける蟄居《ちっきょ》六年間の彼の仕事は、倫理学者としての殻《から》を打ち割り、自己多年の面目を打破し、自己の力により自己の身を化して有史以来いまだかつて有らざりしところの全く新たなる種類の学者たる経済学者なるものを産み出さんがための努力であったのである。この意味においてアダム・スミスはわが経済学の創設者である。正統経済学の第一祖である。 (十一月二十九日)        九の五  アダム・スミス以前にも、貨幣、商業及び土地の改良等につき有力なる論者は少なからずあった。しかしながら、これらのものは皆当面の事件をただ時事問題として取り扱ったのであるから、いずれも一時的のかつ離れ離れの、相互の間になんらの連絡統一なきものであった。それをばスミスは利己心是認の思想をもって連絡統一し、これに向かって組織的の解釈を下したので、それが彼の生命の大半を奪った仕事であった。しかし彼自身の生命が失われたために、死んだ離れ離れの材料に生命が流れて、始めて経済学という一個独立の学問が産まれたのである。彼が今日に至るもなお経済学の父と呼ばるるはこれがためである。  彼は各個人が各自の利益を追求することを是認し、これになんらの束縛を加えず、自然のままにこれを放任することによりて、始めて社会の繁栄を期し、最大多数の幸福を実現するを得《う》べしとしたのである。しかしてかの経済上における自然主義、楽天主義、自由主義、個人主義ないし自由競争主義等、およそ英国正統経済学派の特徴と見なすべき許多の色彩は、多くは皆|如上《じょじょう》の根底より発しきたれるものである。  スミス論じていわく「人間はほとんど絶えず他人の助力を必要とするが、しかしただ単に他人の恩恵によりてこれを得んとするも、決してその望みを達することはできぬ。これに反し、もしこれを他人の自利心に訴え、自己が他人に向かって要求するところのものを、他人が自己のためになしくるるは、すなわち彼ら自身の利益なることを知らしむるならば、容易にその目的を達し得らるるであろう。……われわれの飲食物は、肉屋、酒屋、パン屋等の恩恵にまつにあらずして、ただ彼らが彼ら自身の利益を重んずるがためにととのえらるるのである。われわれは彼らの慈善心に訴うるにあらず、ただ彼らの自利心に訴う。われわれは彼らに告ぐるに、決してわれわれ自身の必要をもってするにあらずして、ただ彼らの利益をもってするのみである。」(『国富論』キャナン校訂本、巻一、十六ページ[#原注*])。 [#原注*] Wealth of Nations, Cannan's ed., vol.1, p.16.  彼はかくのごとく、産業上社会万般の経営は皆これを各個人の利己心の活動にまつと観ぜしがゆえに、経済政策上においては、一二の例外を除くのほか、すべて官業に反対して民業を主張し、保護干渉に反対して自由放任を主張したものである。すなわち論じていわく「さればいっさいの保護干渉を取り去り、かくて自然的自由という明白簡単なる制度をして自然に樹立するところあらしめよ。しかしてこの制度の下においては、各人は、正義の法を犯さざる限り、自己の欲するがままにおのれ自らの利益を追求し、各個人は、他の何人の事業及び資本に対しても、自己の事業及び資本をもって競争することにつき全然その自由に放任さるるであろう。」(同上巻二、一八四ページ)。  私はスミスの思想についても、これをここに詳しく語るの余裕を有せぬが、わが賢明なる読者は、以上掲げし一二の抄録によって、その個人主義のほぼいかなるものなるかを推知せらるるであろう。  思うに個人主義、放任主義の広く人心を支配すること久し。しかれども、今や『国富論』の公刊をさることまさに百四十年、たまたま世界|未曾有《みぞう》の大乱起これるを一期として、諸国の経済組織はまさにその面目を一変せんとしつつある。  これそもそも何がゆえぞ。吾人《ごじん》にしてもし個人主義の理論的欠陥を知るを得ば、おのずから時勢の変のもとづくところを知るを得ん。請う吾人をしてその一斑を説くところあらしめよ。 (十一月三十日)        九の六  余ひそかに思うに、アダム・スミスの誤謬《ごびゅう》の第一は、氏自ら「経済学の大目的は一国の富及び力を増加するにあり」(『国富論』キャナン校訂本、巻一、三五一ページ)と言えるによっても明らかなるがごとく、もっぱら富の増加を計ることのみをもってすなわち経済の使命なりとなせし点である。けだし富なるものは元来人生の目的――人が真の人となること――を達するための一手段にほかならざるがゆえに、その必要とせらるる分量にはおのずから一定の限度あるものにて、決して無限にその増加を計るべきものではない。これと同時に、これを社会全体より見れば、富の生産が必要なると同じ程度において、その分配が当を得ていることが必要である。もしその分配にして当を得ず、ある者は過分に富を所有して必要以上にこれを浪費しつつあるにかかわらず、ある者ははなはだしくその必要を満たすあたわざるの状態にありとせば、たとい一国全体の富はいかに豊富に生産されつつあるも、もとより健全なる経済状態といい難きものである。しかも富の生産をばその分量及び種類に関しこれを必要なる程度範囲に限定し、かつその分配をして最も理想的(平等というと異なれり)ならしめんとするがごときことは、現時の経済組織をそのままに維持し、すべての産業を民業にゆだね、かつ各事業家をしてもっぱら自己の利益を追求するがままに放任しおきたるのみにては、到底その実現を期しうべきものではない。  アダム・スミスの誤謬《ごびゅう》の第二は、貨幣にて秤量《ひょうりょう》したる富の価値をば、直ちにその人生上の価値の標準としたことである。氏は一国内に生産せらるる貨物の代価を総計した金額が多くなりさえすれば、それが社会の繁栄であって、これよりよろこぶべき事はないと考えたのである。しかして世間の事業家は、別に国家から命令し干渉することなくとも、ただ自己の利益を追求するがために、互いに競争してなるべく値段の高く売れる貨物を作り出すに決まっているから、もしわれわれが社会の経済的繁栄を計らんとするならば、すべてこれを私人の利己心の最も自由なる活動に一任しておくに限ると考えたのである。  しかし、すでに中編にて説明したるがごとく、最も高く売れる物が生産されて行くという事は、ただ社会の需要が最もよく満足されて行くという事に過ぎない。しかるにいわゆる需要とは、購買力を伴うた要求ということである。ただ金持ちの要求というだけのものである。しからば単に需要によりてのみ一国の生産力を支配し行くことの不合理なるは言うまでもない。第一に、要求のあるに任せてこれを満たすということは、必ずしも社会公共の利益を計るゆえんではない。おおぜいの者の要求のなかには、これを満たすことが本人のためになんらの益なきのみならず、他人のためにも害を及ぼすものが少なくない。次に、各種の要求のうち、そのいずれを先にすべきやを定むるに当たっても、単に需要の強弱(すなわちその要求者の提供しうる金額の多少)をもってのみその標準となさんとするは、分配の制度にして理想的となりおらざる限り、決して理想的に社会の生産力を利用するゆえんの道ではない。  以上述べたるところは、個人主義の理論上の欠点である。もしそれ、現代経済組織の下における利己心の束縛なき活動が、事実の上において悲しむべき不健全なる状態を醸成し、かくて一方には大厦《たいか》高楼《こうろう》にあって黄金の杯に葡萄《ぶどう》の美酒を盛る者あるに、他方には襤褸《らんる》をまとうて門前に食を乞《こ》う者あるがごとき、いやしくも皮下多少の血ある底《てい》の者が、シ乎《かいこ》として見て過ぐるあたわざる幾多悲惨の現象をいかにわれらの眼前に展開しつつあるやの実状に至っては、余すでにこの物語の上編においてその一斑を述ぶ。請う読者自ら前後を較量して、今の世に経済組織改造の論のようやく勢いを得んとすることの決していわれなきにあらざるを察知されん事を。 (十二月一日)        十の一  現代経済組織の下において個人主義のもたらせし最大弊害は、多数人の貧困である。しかも今日の経済組織にして維持せらるる限り、しかして社会には依然として貧富の懸隔を存し、富者はただその余裕あるに任せて種々の奢侈《しゃし》ぜいたく品を需要し行く限り、到底この社会より貧乏を根絶するの望みなきがゆえに、ついに経済組織改造の論いずるに至る。詳しくいえば、貨物の生産をば私人の営利事業に一任しおくがごとき今日の組織を変更し、重要なる事業は大部分これを官業に移し、直接に国家の力をもってこれを経営し行くこと、たとえば今日の軍備のごとくまた教育のごとき制度となさんとするの主義すなわちこれにして、余は先の個人主義に対して、かりにこれを経済上の国家主義という。学問上よりいわば、国家は社会の一種に過ぎざれば、国家というよりも社会という方もとより意義広し。されば個人主義に対するものは、これを名づけて社会主義といいおきてさしつかえなき道理なれども、わが国にては、そが一種特別の危険思想を有する者によりて唱道されたるためにや、通例社会主義なる語には一種特別の意義が付せられ――西洋にてもまた同様の傾向あれども、概していえば今日この語の意義は全く確定せず、従って社会主義はほとんど何物《エブリー・シング》をも意味するとさえ称せられつつあるが――そは経済組織の基本として国家の存在を認めず、もっぱら労働者階級の利益を主眼として世界主義を奉じ、はなはだしきは無政府主義を奉ずるもののごとく思惟せられつつあるに似たるがゆえに、余はこれと混同せられ