The Bishop Murder Case (A Philo Vance Story) 日本語題:僧正殺人事件 S. S. Van Dine(S.S.ヴァン.ダイン) ------------------------------------------------------- 【このファイルに関して】 -------------------------------------------------------  地上は、すべての良心にとって、子供じみていてかつ痛烈、ばかばかしくも恐るべき「神秘劇」が演じられている「殿堂」である。--コンラッド 目次 1.「コック・ロビンを殺《や》ったのだあれ?」 2.弓術場で 3.思い出された予言 4.奇妙な書き付け 5.女の叫び声 6.「『私』ってスズメが言ったのよ。」 7.ヴァンス、結論を出す 8.第二幕 9.テンソルの公式 10.援助の拒絶 11.盗まれたピストル 12.真夜中の訪問 13.僧正の影に 14.あるチェスの試合 15.パーディーとの会見 16.第三幕 17.常夜灯 18.公園の壁 19.赤いノートブック 20.強敵 21.数学と殺人 22.カードの家 23.驚くべき発見 24.最終章 25.幕は下りぬ 26.ヒースの質問 登場人物 ファイロ・ヴァンス ジョン・F・X・マーカム ニューヨーク州地方検事 アーネスト・ヒース 殺人課の部長刑事 バートランド・ディラート教授 有名な物理学者 ベル・ディラート 教授の姪 シガート・アーネッソン 教授の養子、数学の助教授 パイン ディラード家の執事 ビートル ディラード家の料理女 アドルフ・ドラッカー 科学者で著述家 オットー・ドラッカー アドルフの母親 グレーテ・メンツェル ドラッカー家の料理女 ジョン・パーディー 数学科にしてチェスの名手。『パーディー流』の発明者 J・C・ロビン 弓術チャンピォン レイモンド・スパーリング 土木技師 ジョン・E・スプリッグ コロンビア大学の学生 ホイットニー・バスタード博士 著名な神経科医 キナン 「ワールド」紙の記者 マデレーン・モファット オブライエン警視正 ニューヨーク警察本部に勤務 ウイリアム・M・モーラン 刑事課課長 ピッツ警部 殺人課勤務 ギルフォイル、スニキトン、へネッシー、エメリー、バーク いずれも殺人課の刑事 デュボイス警部 指紋の専門家 エマヌエル・ドアマス博士 検死官 スワッカー 地方検事の秘書 カーリー ヴァンスの執事 僧正殺人事件 1.「コック・ロビンを殺《や》ったのだあれ?」 (四月二日土曜日 正午)  ファイロ・ヴァンスが非公式の捜査官として捜査に加わった中でも、もっとも邪悪で、もっとも奇怪で、一見してあらゆる点で納得がいかず、まちがいなくもっとも恐ろしかったあの事件は、のちに「グリーン家殺人事件」[#原注一]と称された事件の後で起こったのだった。グリーン家の古い屋敷で繰り広げられた惨劇は、十二月の末になって、その仰天するような結末をむかえた。そしてクリスマス休暇の後で、ファイロ・ヴァンスはウィンタースポーツをしようとスイスに出かけていた。ニューヨークに帰ってきたのは二月の末のことだったが、その後ヴァンスは長いこと心に引っかかっていたある文芸作品と長いこと格闘していた。ヴァンスは、今世紀はじめに見つかったエジプトのパピルスに書かれていた、メナンドロスの主要な断章を、まとまった形で翻訳しようとしてたのである。この報われない仕事に、ヴァンスは一ヶ月以上もその身を捧げていたのだ。  ずっとこの仕事に専念したとして、ヴァンスがこの仕事を完成させ得たかどうか、私には今もって判断できない。というのも、ヴァンスは文化的な熱意を持った人物ではあったが、その性格の中で、探求心と知的好奇心とが、学者の仕事に必要である単調な仕事をしようとする心と競っていたからだ。私が覚えているところでは、この前の年、ヴァンスはクセノフォンの伝記を書き始めていた――大学生活の中で『アナハシス』と『メモラビリア』を読んで以来、ヴァンスがずっと意気込んできたことである――のであるが、クセノフォンが歴史的退却を行い、一万人を率いて海へと至ったところで興味を失ってしまったのである。それはそれとして、実際にはヴァンスが手がけたメナンドロスの翻訳は、4月のはじめに突然中断されてしまったのである。続く数週間、ヴァンスは国中が恐怖に身震いすることとなったあの謎の殺人事件に没頭することとなったのである。  この新しい犯罪捜査の中でヴァンスは、ニューヨークの地方検事ジョン・F・X・マーカムのために一種の法廷助言者として活動したのであるが、事件はすぐに「僧正殺人事件」として知られるようになった。この命名は――あらゆる有名事件に対してレッテルを貼りたがるジャーナリスティックな本能の結果としてではあるが――ある意味では誤っていた。あの底抜けに残忍な事件にはなにも聖職者に関係したものはなく、ただ全国の人達に、恐ろしさのあまりに「マザー・グースの童謡」を読ませるようにし向けただけであった[#原注二]。それに、私が知る限り、僧正《ビショップ》という名前を持っている人は、僧正殺人事件と呼ばれたこの奇怪な事件にはちらっとでも関係していなかった。だが、そうであっても、この僧正《ビショップ》という名前はこの事件にはぴったりだった。というのもこの名前は、あるこの上ない冷酷な目的を達するために、殺人者によって使われた別名《ペンネーム》だったからだ。ついでに言っておくと、この別名《ペンネーム》は、結局ヴァンスをあのほとんど信じられない真実に導くとともに、警察史上でももっとも恐ろしく、そして複雑だったあの事件を終結させる助けともなったのである。  僧正《ビショップ》殺人事件は、薄気味悪く、互いに無関係な一連の出来事――それによって、ヴァンスの心はメナンドロスやギリシャの古代単行詩から引き剥がされることとなった――から成り立っていた。事件は四月二日の朝、グリーン家で起こったジュリアとアダの二重射殺事件から五ヶ月もたたないうちに始まった。その日はニューヨークに時々訪れる、暖かくて快適にすごせる、恵まれた一日のある日だった。ヴァンスは東三十八番街に建っていた自宅のアパートの、小さな屋上庭園で朝食を食べていた。時に正午近くだった(ヴァンスは時間を気にせずに仕事や読書に打ち込んでいた関係で、朝寝坊な生活を送っていた)。太陽は澄み渡った青い空から光を下界に降らせ、都市の上に気持ちよくウトウトしたくなるガウンを掛けていた。ヴァンスは安楽椅子に手足を伸ばし、かたわらの低いテーブルに朝食を置き、皮肉をこめた恨めしげな視線を、後庭の植木の梢《こずえ》に当てていた。  私にはヴァンスの心が簡単に分かった。ヴァンスは毎年、春になるとフランスに行くことを習慣としていた。もうずっと前から、ジョージ・ムーア同様に、パリと五月を一体のものとみなしていた。しかし、戦後アメリカの成金どもが大挙してパリに押し寄せ、ヴァンスの習慣を、そして彼が楽しんでいたものを汚すようになっていた。そしてこの前日、この夏はニューヨークに留まることにしたと私に告げたばかりだったのだ。  もう長いこと、私はヴァンスの友にして法律顧問、つまり、財政上の問題に関して会計士兼代理人的な立場を担っていた。私は父親が経営していたヴァン・ダイン・デーヴィス・アンド・ヴァン・ダイン法律事務所を辞めて、ヴァンスの仕事にかかりきりになっていた。蒸し暑い事務所で普通の弁護士として仕事をするよりも、はるかに私の性格に合っていたのだ。そして、自分の住居がウエストサイドのとあるホテルにあったけれども、ほとんどの時間をヴァンスの部屋で過ごすようになっていた。  その日の朝早く、私はヴァンスが起きる前に彼の部屋に来ていた。そして月初めの収支会計調べを調べ、ヴァンスが朝食を取っている間、ゆったりとパイプの煙を吹かしていた。  「いいかいヴァン。」ヴァンスは感情のないのろのろぶりで話し出した。「ニューヨークで春や夏を過ごすなんてのは、刺激もないし、ロマンチックでもない。まったくうんざりするようなもんだ。だけど、ヨーロッパ旅行をして、至る所にいる俗悪な観光客とともに過ごすなんて事態よりはうるさくはない……まったくもってイヤなもんだ。」  その後数週間、自分が過ごすことになる時間のことを、ヴァンスは夢にも知らなかった。もし知っていたら、戦前のパリで春を過ごす快楽でさえも彼の心を引きつけることができたかどうか、まったくもって疑わしい。なぜなら、あくことを知らないヴァンスの気性にとって、『複雑な問題』以上に好ましいものなどなかったからだ。ヴァンスがこんな事を話している間に、運命を操る神は、ヴァンスのために不思議で、かつ魅力あふれる謎を用意していたのである――この国を深い喧噪に巻き込み、犯罪史に新たな恐怖の一ページを書き加えることになるその謎を。  ヴァンスが二杯目のコーヒーを注ぐか注がないかのうちに、古くからの英国人の執事であり、家事全般を取り仕切っているカーリーが、観音開《かんのんびら》きのドアを開けて、移動式電話を運んできた。  「マーカム様でございます。」老人がすまなさそうに告げた。「緊急の用件と思いましたので、私の判断で、ご在宅だと申し上げました。」そして、電話を差し込み口に接続し、朝食が置いてあったテーブルの上に電話機を置いた。  「けっこうだ、カーリー。」ヴァンスは小声で返事し、受話器を取った。「今朝みたいなうっとおしい単調さを壊すなら、何でも大歓迎さ。」それから、マーカムと話し出した。「ぼくだよ、ご老体。今まで眠らなかったというのかい。今ね、ぼくはオムレツ・オー・フィーヌ・ゼルフを食べていたところさ。これからどうだい。それとも、ただぼくの声が奏でる音楽にご執心だっただけかな―。」  そこでヴァンスは急に話すのをやめた。そのやせ細った顔から、いたずらっぽい表情は姿を消した。ヴァンスは典型的な北欧人タイプの顔を持っていて、面長《おもなが》で、顔の彫りは深く、広い間隔を持った灰色の目と、細い鷲鼻、まっすぐ下がった卵形のあごを顔に備えていた。口はすっと締まっていた。だが、そこに浮かぶ無慈悲な皮肉屋ぶりは、北欧人というより南欧人によく見られる感じだった。全体的には必ずしもハンサムだとは言えなかったが、がっちりとして、魅力を感じる顔だといえた。思想家と隠遁者によくある型であった。その厳格さが――同時に学究的、内省的なところが――ヴァンスと同僚との間に溝を感じさせていた。  ヴァンスは本来冷静なたちで、努めて感情を抑制しようとしていたのであるが、私が見たところ、この日マーカムから受けた電話を聞いている間、その話に興味を持っていることを隠しきれないでいた。軽く眉をひそめ、瞳に内心驚いている感じが出てきていた。ときどき小声で「驚いたね、」とか「それはそれは」とか「おったまげた話だ」とかいった、いつもの口癖の間投詞を小声でつぶやいていた。数分後、マーカムが話し終わったとき、奇妙な興奮がヴァンスの態度に表れていた。  「あぁ、ぜひそうしてくれ。」ヴァンスは言った。「メナンドロスの喜劇のはしくれなんてくそくらえだ……まったくどうかしてる……すぐに着替えるよ……Au revoir《オー ルヴォアル》。」  受話器を置くと、ヴァンスはベルを鳴らし、カーリーを呼んだ。  「グレーのツイードを出してくれ。」ヴァンスはいいつけた。「それから、地味なネクタイと、黒いホンブルグの帽子だ。」そうして、夢うつつといった感じでオムレツを食べだした。  何分かして、ヴァンスは不思議な顔をして私の方を見た。  「アーチェリーについて、君はなにか知ってるかぃ。」ヴァンスが聞いてきた。  私はアーチェリーについては、目標を狙って矢を撃つんだということしか知らなかったから、ヴァンスにそう言った。  「君に聞いても無駄だってところか。」ヴァンスはそう言うと、もの憂げな感じでRe-gie[#最初のeの上に'あり]煙草を一本とって、火をつけた。「ところで、アーチェリーがすこしは関係していなくもない事件があるらしいんだ。ぼくはその方面ではたいした権威じゃないけどね、オックスフォードにいたときに少しばかり弓をいじくったことがあるんだ。熱を上げるほど刺激的なもんじゃない――ゴルフより単純なくせに、驚くほど複雑なんだ。」そんなことを言いながら、夢うつつで煙草をくゆらせていた。さて、ヴァン君、書棚からエルマー博士のアーチェリーに関する大著を持ってきてくれたまえ――なかなか面白い事が書いてあるんだ[#原注三]。」  私は言われた本を取ってきた。ヴァンスはほとんど三十分はその本を読みふけっていた。たまに、アーチェリー協会とか、トーナメントとか競技法とかについて書かれた章を長いこと見ていたし、アメリカでの最高記録をまとめた図表を丹念に調べていた。やっと読み終えると、ヴァンスは椅子に背をあずけた。頭を悩まし、鋭敏な感性を働かせるべき何事かを発見したことが見え見えだった。  「まったくもって狂ってる。」目を宙に据えたままヴァンスが言った。「中世流の惨劇が、現代のニューヨークで起こるなんて! ぼくたちはバスキンを履いたり、革の胴衣を着たりなんてしないんだ。しかし……いやはや。」急にヴァンスは体をまっすぐに直した。「いかん、いかんぞ。まったく不合理だ。マーカムの話から漂う狂気にぼくまで毒されちまった……。」そしてコーヒーを口に入れた。だが、その表情から、頭に取り憑いている考えを、ヴァンスがふりほどけないでいることが私には読みとれた。  「もうひとついいかい、ヴァン。」やがてこう言った。「ドイツ語の辞書と、バートン・E・スティーブンソンの『家庭詩歌集』を持ってきてくれ。」  言われた本をヴァンスに渡したが、彼は辞書で言葉をひとつ調べると、辞書をわきに置いた。  「やっぱりそうだ、縁起が悪いが――ぼくは前から知ってたんだ。」  それからヴァンスは、子守歌や童謡を集めた、スティーブンソンの大著にあった一節をめくった。数分して、ヴァンスは本を閉じ、手足を椅子にながながと伸ばし、長い煙のリボンをあおむいた頭の上に吹き上げた。  「こんな事、真実なんかじゃありえない。」ヴァンスは自分自身に言い聞かせた。「途方もないことだし、無惨すぎる。めちゃくちゃにゆがんでる。血なまぐさいおとぎ話だ…そんなゆがんだ世界…一切の合理性が倒錯してる……ありえない。非常識だ。まるで黒魔術だ、妖術だ、奇術だ。完全にイカれてる。」  そしてヴァンスは腕時計に目をやり、立ち上がって室内へと入った。ヴァンスにしては例のない混乱を巻き起こした原因はなんだろうと、後に残された私は考えていた。アーチェリーについての論文、ドイツ語の辞書、童謡の選集、そして狂気と幻想についてヴァンスが発した不可解な発言――これらの間にあるべきつながりはなんなのだろうか? 私はせめてこれらに共通な分母を見いだそうとしたが、かすかな手がかりさえも得られなかった。このとき私がなにも分からなかったのも、後から考えれば当然だった。何週間か後で、議論の余地のない一連の証拠によって、真実があらわになった後でさえ、それを普通の人が受け入れるにはあまりに疑わしく、かつ邪悪なものだったからだ。  とりとめのないことを考えていると、またヴァンスが姿を現した。もう外出着に着替えていた。そして、マーカムがなかなかやってこないのにいらいらしていた。  「いいかい、たしかにぼくはなにか事件が起こってほしいとは思っていた。たとえば、ちょっと素敵な犯罪とかなんかをね。」ヴァンスはこう話していた。「だけどね――誓ってもいい――悪夢なんか望んでいたわけじゃない。もしも前からマーカムのことを知らなかったら、きっとぼくのことを茶化してるんじゃないかと思ってしまうよ。」  数分してマーカムが屋上庭園に入ってきた。マーカムが絶対的にまじめな人間であることは分かりすぎるほど分かっていた。一見して暗く沈んでいて、悩んでいるように見受けられた。いつもは心のこもったあいさつをしてくれるのに、今日はぶっきらぼうな、形だけのもので終わらせてしまった。さて、マーカムとヴァンスはもう十五年来の親友であった。二人の性格は対照的だった。一方はきわめて攻撃的で、率直にして無愛想、話し方も重々しく、かつ真剣そのものであった。もう一方はというと、気まぐれで、皮肉屋で、晴れやかで、世間の俗事とは距離をとっていた。二人は互いの内に、自分たちに足りないものを見いだしており、その事が、別れがたく、長続きする友情の基礎を形作っていた。  マーカムがこの事件までにニューヨーク州地方検事として活躍してきた一年四ヶ月間を通じて、マーカムはしばしばヴァンスに電話をかけ、重要な事件に見られる問題点を協議してきた。そしてそのたびにヴァンスは、マーカムが抱いているヴァンスに対する信頼を常に裏書きしてきたのである。さらにいうと、マーカムが、検事として在職していた四年間の間に起こった大事件をほとんど解決してきたのは、ほとんどヴァンスのおかげであるとも言えるのだ。ヴァンスが持っている、人間性に関する知識や、幅広い読書量とそれに裏打ちされた文化的素養、論理学に対する鋭い感覚、凡人ならばだまされるであろう状況から隠された真実を探し出す能力、すべてが犯罪捜査官としてうってつけのものであった。そんなわけで、ヴァンスはマーカムの管轄に入った事件において、非公式に協力することとなったのである。  ヴァンスが手がけた最初の事件は、読者もご記憶であろうが、アルヴィン・ベンスンが殺害された事件であった[#原注四]。ヴァンスの手助けがなかったら、まちがいなくその真実が明るみに出ることはなかったはずである。次の事件は、読者もよく知っている、マーガレット・オデール絞殺事件[#原注五]であった。この殺人事件も、警察の常道でもって捜査されていたら、迷宮入りまちがいなしだっただろう。そして、昨年起こったあの驚嘆すべきグリーン殺人事件(この事件はすでに言及してあるが)この事件でも、ヴァンスの関与によって犯人たちの最終的な意図を阻むことができなかったら、犯人たちの勝利に終わっていたことは疑う余地もなかった。  それゆえ、僧正殺人事件において、そもそもの始まりからマーカムがヴァンスに目を付けたのは当然のことと言えた。この頃になると、マーカムがヴァンスの援助を乞うことがますます多くなっていることに私は気づいていた。そして、今回の事件においてマーカムがヴァンスの助けを乞うたのは誠に幸運なことであった。人間の心に置ける、異常な心理学的兆候に関する個人的な知識――そういう知識をヴァンスは持ちあわせていた――をもってしてのみ、あのような腹黒く残忍な計画をうち破り、犯人を特定することができたのであった。  「案外くだらん事件なのかもしれないんだがね……」マーカムは自信なさげに話し出した。「きっと君は一緒に出かけてみたいんじゃないかと思ったもんでね……。」  「そうさ、まったくそのとおりさ。」ヴァンスはマーカムに皮肉混じりの笑顔を向けた。「まず座りたまえ。そしてぼくに筋道立てて話をしておくれよ。死体は逃げないさ。現地におもむく前に、正しく事実を整理しておくべきだろう――たとえば、いったい当事者は誰なんだぃ? それに、どうして殺されてから一時間ほどしかたってないのに事件が地方検事局の管轄下にはいったんだぃ? 君が今までぼくに話してくれたことは、要するにまるで戯言《たわごと》じゃないか。」  マーカムは憂鬱《ゆううつ》そうに椅子の端に座り、葉巻の先を見つめていた。  「おぃおぃヴァンス、ウドルフォの謎式で初めてもらっちゃ困る。この犯罪は――もし犯罪だとしてだが――十分に明白なもんだよ。たしかに、普通じゃない方法で殺されたという点はぼくも認めよう。でも、そんなに常識はずれでもないさ。アーチェリーは最近かなり流行っている。弓も矢も、アメリカのあらゆる都市、そして大学で普通に使われているもんだったしね。」  「いいだろう。でもね、弓矢でもってロビンという人間が殺されてから、長い時間が経っているからねぇ。」  マーカムは目を細め、鋭くヴァンスを見つめた。  「やっぱり君もそれを考えたんだね。」  「ぼくがそれを考えたかって? 君が犠牲者の名前を言った瞬間に、真っ先にぼくの頭脳にはその事が浮かんだのさ。」ヴァンスはそう言って、しばらく煙草を吹かしていた。「『コック・ロビンを殺したのはだあれ?』しかも弓と矢でもって……おかしいね、子供のころに覚えたくだらん詩《うた》を、いつまでも覚えてるってのは。ところで、不運なミスタ・ロビンのファーストネームはなんて言うんだぃ?」  「たしか、ジョセフといったはずだ。」  「なにも啓発されんし、参考にもならん…ミドルネームは何だ?」  「いい加減にしろ、ヴァンス!」マーカムが怒りをあらわにしながら立ち上がった。「殺された男のミドルネームが、いったい事件に何の役に立つって言うんだ?」  「ぼくがすっかり気違いになったわけじゃないさ。ただね、気違いになろうってんなら、とことんまでその道を進む方がいいんだ。正気のかけらなんて、何の値打ちもないんだからね。」  そう言うとヴァンスはベルを鳴らし、カーリーに電話帳を取りに行かせた。マーカムは文句を言ったが、ヴァンスはそれに耳を貸そうとしなかった。電話帳が到着すると、ちょっとの間、親指でページをめくっていた。  「死んだ先生はリヴァーサイド・ドライヴに住んでいたのかね。」ようやくヴァンスは尋ねた。その指はヴァンスが見つけた名前のところに挟まっていた。  「たしか、そうだったと思うよ。」  「よしよし。」ヴァンスは本を閉じ、奇妙な、勝ち誇った視線を地方検事に向けた。「マーカム。」ゆっくりとヴァンスは言った。「リストにはジョセフ・ロビンという名前を持った人は一人しかいない。そいつはリヴァーサイド・ドライヴに住んでいて、そのミドルネームは…コクレーンだ。」  「それが何だって言うんだ?」マーカムの口調はほとんど怒っていた。「そいつの名前がコクレーンだったとしよう。君はそのことが、彼が殺されるのに大いに関係があったと言いたいのかね?」  「よく聞いてくれよ、ご老体、ぼくはまだ何にも言ってないよ。」ヴァンスはちょっと肩をすくめた。「ぼくはただ、事件に関係している事をちょっとあげてみただけだ。事実はこうなっている。ジョセフ・コクレーン・ロビン氏、つまり、コック・ロビンが、弓と矢で殺されたんだ。法律でこちこちになった君の頭にも、ひどく奇妙に響かないかぃ?」  「全然だ!」マーカムははっきりと否定した。「死者の名前はまったくもって普通のものだ。そんなことよりも、これだけ全国でアーチェリーが話題になってるのに、もっとたくさん弓矢で殺されたり傷つけられたりしない方が不思議だよ。それに、ロビンの死は、結局事故によるものだって事になるかもしれんのだよ。」  「いやいや、」ヴァンスはたしなめるように頭をふった。「事実そうだとして、その事が事情を明らかにする訳じゃない。むしろ妙なことになるだけだ。この素晴らしき全米には数千ものアーチェリー人口がいるのに、その中で、コック・ロビンという名前の人が、偶然弓と矢でもって死ななければならないなんて! そう仮定したら、我々は心霊学とか悪魔信仰とか、とにかくそういった得体の知れないものに迷い込まなきゃならんのだよ。ひょっとして君は、エブリスとかアザゼルとかのような、人間に悪魔的ないたずらを仕掛ける精霊の存在を信じてるのかね?」  「偶然を認めるには、イスラム教の神学者でなきゃならんのかね?」辛辣なマーカムの言葉だった。  「おぉ、親友よ! あのよく知られた偶然の長い腕も万能じゃないんだよ。つまりね、蓋然性の法則があってね、それは完全に明確な数学的公式からなるものなんだよ。ぼくは悲しいよ、ラプラス[#原注六]やツェーベールや、フォン・クリースのような人の生涯が無駄だったなんてね……とはいえ、現在の状況はね、君が思うよりももっと複雑なものになっている。たとえば、君は電話で、ロビンが死ぬ前に最後に会っていたことが分かっている人物の名前はスパーリングだと言っていたね。」  「その事に、なにか別の意味があるというのかね?」  「たぶん君は、『シュペルリング』がドイツ語でどういう意味があるのかは知っているだろうね。」ヴァンスが朗らかに言った。  「ぼくもハイスクールくらいには行ったさ。」マーカムが言い返した。その後、彼の瞳はわずかに開き、体がこわばった。  ヴァンスはマーカムの方にドイツ語の辞書を押しやった。「うん、とにかく、その言葉を調べてみることだ。年には念を入れろってことだ。ぼくも自分で調べてみた。想像力がぼくの心にいたずらしているんじゃないかと思ったんでね、はっきりとその言葉が白地に黒で印刷されているところを見たかったんだよ。」  マーカムは黙って辞書を開き、視線をページに走らせていた。少しの間、その言葉を見つめていたが、そのスペルを潰すがごとく、勢いをつけて本を閉じた。やがて再び話し出したとき、その言葉は挑発的だった。  「『シュペルリング』は英語で『スズメ』という意味だ。小学生なら誰でもそれを知っている。それがどうしたんだ?」  「いや、結構結構。」ヴァンスは力無く煙草に火をつけた。「そしてもうひとつ、小学生なら誰だって、『コック・ロビンの死と弔《とむら》い』という古い子守歌を知っているだろうねぇ?」それから、まだ無言で立っていたマーカムをじれったそうにちらっと見て、暖かい太陽光を浴びに外に出た。「君はきっと、その子守歌をよく知らないんだろうから、ぼくがその最初の一節を謡《うた》ってあげてもいいだろう。」  ぞっと寒気を覚えた。なにか目に見えない幽霊がいるかのごとく感じながら、ヴァンスがその古くから親しまれてきたあの童謡を歌い上げるのを聞いていた。 「コック・ロビンを殺《や》ったのだあれ?」 「私」ってスズメが言ったのよ。 「私の弓と矢でもって コック・ロビンを殺したの。」 2.弓術場で (四月二日土曜日 午後十二時半)  マーカムがゆっくりと視線をヴァンスに向けた。  「気違いだ!」マーカムが声をあげた。説明不可能な、恐怖を呼び起こす何物かに直面したみたいだった。  「おぃおぃ。」ヴァンスが軽く手を振った。「そりゃ泥棒だよ。最初にぼくがその言葉を言ったんじゃないか。」(ヴァンスはわざと明るく振る舞うことで、自分がとまどっていることを紛らわそうとしていた。)「そこで、ロビン氏の死を悼むinamorata(恋い焦がれる女)が実際いなきゃならんことになる。君は、たぶんあの歌の一節を思い出すだろうね。」 喪主はいったい誰なのかぃ? 「私」とハトが言ったのさ 「なくした恋を惜しむのよ 喪主には私がなりましょう。」  マーカムの頭がかすかに動いた。指でタタタンタンと神経質にテーブルを叩いていた。  「上出来だ、ヴァンス!事件には女がいるんだ[「いるんだ」に傍点]。事件の底にはきっと嫉妬がからんでいるに違いない。」  「いいねぇ、気に入った! どうやら、事件は大人の幼稚園の活人画とでもいったものになっていく可能性があるね。そうすると、問題はより簡単なものになっていく。ぼくたちはただハエを見つけだせばいいだけなんだからね。」  「ハエ?」  「学名で言うとMusca domesticaだね……マーカム君、君は忘れたのかい―― 死ぬのを見たのは誰なんだぃ? 「私」とハエが言ったのさ 「このちっちゃいお目目使って あいつが死ぬのを見たんです。」  「いい加減にしろ!」マーカムは激しく抗議してきた。「これは子供の遊びじゃないんだ。この上なく真剣な仕事なんだぞ。」  ヴァンスは上の空でうなずいた。  「子供の遊びはね、時には人生の中でこの上ないまじめな仕事になる。」その言葉は変な、夢見るような調子を帯びていた。「こんなのはまったく気に入らん――まったくもって好きになれん。あまりにも子供っぽすぎる――生まれながらに老成した、病的な子供なんだ。なにか忌々しい精神錯乱の兆しがある。」ヴァンスは煙草を深々と吸い、小さく嫌悪のポーズを取った。「もっと詳しく教えてくれ。このあべこべな大地にしっかりした足跡を見つけることにしよう。」  マーカムはまた座り込んだ。  「ぼくも詳しくは知らん。事件については、電話で君に話したことしか知らないんだ。君と話したちょっと前に、ぼくはディラード老教授に呼ばれたんだ――。」  「ディラード? ひょっとして、バートランド・ディラード教授の事かね?」  「そうだ。悲劇は教授の家で起こったんだ――教授を知ってるのかね?」  「個人的に知っているわけじゃない。科学界が教授について知ってるだけしか知らないさ。現存するもっとも偉大な数理物理学者としてね。教授の本はほとんど持っている。どうやって教授は君に連絡してきたんだぃ?」  「二十年くらい前からの知り合いさ。教授について、コロンビアで数学を教えてもらったし、そのあとには教授のためにいくつか法律的な仕事をしたことがある。ロビンの体が見つかってすぐに、ぼくに電話してきたんだ。十一時半頃だった。ぼくは殺人課のヒース部長を呼びだして、事件をヒースの管轄下においた――ぼくも後から行くよとは言っておいたけどね。それから君に電話したんだ。ヒース部長と部下たちはディラード邸でぼくを待っているはずだ。」  「あそこの家庭の事情はどうなんだ?」  「君もたぶん知っているだろうが、教授は十年ほど前に教壇は退いている。以来、ずっとリヴァーサイド・ドライブ近くの西七十五番街に住んでいる。教授はお兄さんの子供、当時十五歳の少女だったんだが、彼女を引き取って同居している。今は二十五歳といったところだ。それから、シガード・アーネッソンがいる。教授の愛弟子で、ぼくの大学時代の同級生でもある。教授はアーネッソンが大学三年生の時に養子にしたんだ。アーネッソンは今四十になっていて、コロンビア大で数学教授をしている。彼はノルウェーから三歳の時にこの国に移住してきたんだが、その五年後に孤児になってしまったんだ。数学に関してはたしかに光るものをもっていた。ディラード教授はまちがいなく彼の中に偉大な物理学者になりうる素質を見いだしたから、彼を養子に取ったんだ。」  「アーネッソンについては聞いたことがある。」ヴァンスはうなずいた。「最近、動体の電気力学についてのミー理論を修正する論文を発表している……それでこの三人、ディラード、アーネッソン、その女性の三人だけで暮らしているのかい?」  「二人の従者がいる。ディラードは暮らして行くには十分すぎる収入を持っているようだ。しかも、孤独な暮らしをしているわけじゃない。屋敷は数学者の殿堂と化していて、ある種のクラブを形成しているんだ。それにね、教授の養女がいつもアウトドアスポーツに熱を上げているもんだから、彼女を中心にしたちいさなサークルが作られているんだ。ぼくは何度か教授の家に行ったことがあるが、いつも訪問者の姿を見かけたもんだ。二階の図書室で一人二人まじめな抽象科学の学生がいたかと思うと、階下の応接間には騒々しい青年たちが幾人もいるといった具合でね。」  「で、ロビンは?」  「ロビンはベル・ディラードを追っかける集団の中にいたんだ。若者と言っても年を取った方で、いくつかアーチェリー記録を持っていた……。」  「そうだ、それは知っている。ちょうど、アーチェリーに関する本を調べていてその名前を見かけたよ。J.C.ロビン氏は、最近の選手権大会で何回かハイスコアを叩き出しているみたいだね。もうひとつ気づいたんだが、スパーリング氏が、アーチェリーの大きなトーナメントの次点者に何度か名前を連ねているんだが…ディラード嬢もアーチェリーをやっているのかぃ?」  「そうだ、相当熱を上げている。実際、リヴァーサイド・アーチェリークラブの発起人なんだよ。クラブの常設練習場はスカースデールのスパーリングの屋敷にあるんだが、ディラード嬢はいつも、七十五番街の教授の屋敷内にある庭に、練習用の弓道場を作っている。ロビンが死んでいたのも、その弓道場なんだ。」  「そうか。で、君の話だと、ロビン氏と会っていた人として分かっているのは、スパーリングだったと言ったね。そのスズメは今どこにいるんだ?」  「ぼくは知らない。事件の少し前までロビンと一緒だったんだが、ロビンの体が発見された後は姿を消している。きっとヒースはそれについてなにかニュースを持っていると思うよ。」  「で、動機が嫉妬かもしれないって言うのはどこにあてはまるんだ? そんなようなことを言ってただろ。」ヴァンスのまぶたはもの憂げに垂れ下がっていた。ゆっくりと煙草を吹かしていたが、話の内容はちゃんとしていた。それこそ、マーカムの話にヴァンスが並々ならぬ関心を抱いている証なのだった。  「ディラード教授が自分の姪とロビンとが近しい関係にあると言っていた。それでぼくが、スパーリングとの間はどうだったのか、彼はディラード家の中でどんな立場にあったかを聞いてみると、教授はスパーリングも令状の愛を勝ち取ろうとしているライバルだとそれとなく明かしてくれた。電話ではそれ以上立ち入ることができなかったけど、ぼくの印象ではロビンとスパーリングはライバル同士で、ロビンの方がいい位置に着けているという感じだったね。」  「そう言うわけで、スズメがコック・ロビンを殺したわけだ。」ヴァンスは胡散くさげに頭を振った。「そんなはずはない。事実を単純化しすぎている。そんなお話じゃ、コック・ロビンの詞をここまで完璧に再現したわけを説明していない。この事件にはより深く……暗く恐ろしげななにかがひそんでいる……で、ロビンを見つけたのはいったい誰だね。」  「ディラード自身だ。家の裏にある小さなバルコニーに出てきて、ロビンが練習場に横たわっているのを見つけた。もちろん、心臓を矢が貫いている状態でだ。教授はすぐに階段を下りていった。大変苦労しながらだったそうだ、と言うのも、教授は普段から通風もちだったからだ。そして、ロビンがすでに死んでいるのを見て、ぼくに電話してきたんだ……これが、今持ちあわせている情報のすべてだよ。」  「隠れた真実を照らすようなことはなんにもないが、なかなか示唆的だったよ。」ヴァンスが起きてきた。「ねぇマーカム君、もっと奇怪でいまいましいものを予想しておいた方がいいよ。事故とか偶然とかはここでは除外できる。普通のアーチェリー用の矢は――柔らかい木で作ってあって、小さく切った鏃《やじり》がついているから――中くらいの重さの弓で引っぱったって、人間の衣服や胸壁を簡単に突き通すことは事実だけどね、『Sparrow《スズメ》』という名の人物が、コクレーン・ロビンという名の人物を、しかも『弓と矢でもって』殺したなどと言う事実は、偶然の積み重ねによって起こるあらゆる組み合わせを排除するものだよ。実際、この信じがたい一連の事実は、この仕事全体が、微妙な、悪魔的な意図を持って計画されたものだという事実を証明している。」ヴァンスはドアの方へと歩いていった。「行こう。オーストリアの警察官僚が、学をひけらかしてsitus criminis《犯行現場》と言っているところへ乗り込んで、事件についてもっとなにか見つけてこよう。」  我々はすぐに屋敷を出て、マーカムの車で上町へと向かった。第五街でセントラル・パークに入り、七二番街の門を通り抜け、二,三分後にはウエスト・エンド街を回って七五番街に入っていった。ディラード家は三九一番地、行く手の右側にあり、そこを通り抜けると川に続く道にあった。ディラード家とリヴァーサイド・ドライブ通りの間には、大きな一五階建てのアパートメントがあった。教授の家は、まるで保護されているかのように、この巨大な構造物の陰にひっそりと隠れていた。  ディラード邸は灰色(雨風にさらされて黒ずんだ石灰岩造りだった)をしており、家というものが永続性と快適さのために建てられてきた時代の造りをしていた。敷地は間口が三十五フィートあり、そのうち家自身が二十五フィートを占めていた。残り十フィートは空き地――屋敷と他のアパートメントとはそれによって仕切られていた――であり、道路から屋敷を隔てるために高さ十フィートの石垣が造られていた。その中央に鉄の扉がついていた。  屋敷の建築様式はコロニアル様式に手を加えたものだった。段差の低い階段が、道路からレンガで作られたせまい玄関まで続いていた。玄関は四本の白いコリント風な柱で装飾されていた。二階には長方形のすりガラスをはめ込んだ開き窓が並んでいた。開き窓は屋敷の前面に端から端まで並んでいた(のちに私は、この窓が書斎の窓だと言うことを知った)。この場所一帯が、明らかに時代遅れではあったが、なぜか安らぎを覚える場所でもあった。ここが恐怖に身震いするような殺人現場だとはどうしても思えなかった。  我々が車で到着すると、入り口にパトカーが二台止まっていた。通りには一ダースくらい好奇心旺盛な野次馬が集まっていた。パトロール巡査が玄関の装飾柱のひとつに寄りかかり、目の前に集まった観客を、もううんざりとさげすむような目でじっと見つめていた。  年老いた執事が我々を招き入れ、入り口ホールの左側にある応接室に案内してくれた。そこには殺人課のアーネスト・ヒース部長と、他に二人の刑事がいた。部長は中央のテーブル近くに立って、チョッキの袖口に親指を突っ込んで煙草を吹かしていたが、前に出てきてマーカムを歓迎しますよといった感じで手を大きく広げた。  「あなたがここに来てくれてとても嬉しいですよ。」ヒースが言った。冷たげな青い目が心なしか少しリラックスして見えた。「あなたをお待ちしてたんです。この事件はどうも魚臭いですよ。」  そしてヒース部長は後ろの方で立ち止まっていたヴァンスの方を見た。その喧嘩っ早い顔つきに、満面の笑みを浮かべて微笑んだ。