The Corpus Delicti 日本語題:罪体《コーパス・デリクタイ》[#注一] Melville Davisson Post(メルヴィル・D・ポースト) ------------------------------------------------------- 【このファイルに関して】  この物語は、The Strange Schemes of Randolph Mason(ランドルフ・メイスンの奇妙な企み)と題して、1896年に出版された本の中の一遍です。この本の著者メルヴィル・D・ポーストは、自身の法律家としての経験を活かし、法の抜け道を知りぬいた悪徳弁護士メイスンを主人公とする7編の短編作品を発表し、一大センセーションを巻き起こします。  一部《》によってルビをふってあります。また、[]によって、注があることを示してあります。なお、注はこのテキストでは終わりにつけました。  SOGO_e-text_library責任編集。Copyright(C)2006 by SOGO_e-text_library  この版権表示を残すかぎりにおいて、商業利用を含む複製・再配布が自由に認められます。プロジェクト杉田玄白(http://www.genpaku.org/)正式参加作品。  最新版はSOGO_e-text_library(http://www.e-freetext.net/)にあります。  2006年7月29日、SOGO_e-text_library代表sogo(sogo@e-freetext.net)により入力。  2015年10月7日、注釈に「婚礼の合唱」のYoutube動画を追加。 ------------------------------------------------------- I  「あれがメイスンという男だ」サミュエル・ウォルコットが言った。「このクラブにおける謎の男だ。いや、それ以上に、このニューヨークにおいて、まさしく謎の男なんだ。」  「彼を見かけた時はほんとにびっくりしたね。」彼の友達のマーシャル・セント・クレアが言葉を返した。セント・クレアは優秀な弁護士で、シュワード・セント・クレア&ドゥムース法律事務所に属している。「何をしてるのか全然知らなかったんだ、運河会社のアメリカ人株主の顧問弁護士としてパリへ行ったって聞いてからはね。いつアメリカに戻ってきたんだろう?」  「四カ月くらい前に、昔の根城にひょっこり姿を現したんだ。」ウォルコットは言った。「尊大で、陰気で、しかもどことなく変な雰囲気なんだ。ナポレオンの全盛期を見ているみたいでね。クラブの若い奴らなんて、メイスンのことを『ザノナの再来』だなんて呼んでるくらいだ。メイスンはたいてい夜遅くに、周囲のものや人に全く気づかないみたいな感じで家中をうろついている。そうやって、目の前の仕事に深く集中して、せっせと考えるんだろう。意識が体から離れて行っちゃうんじゃないかって思ってしまうんだ。そんな風だから、いろんな伝説がメイスンのまわりで言われているんだ。実際、メイスンの立ち居振る舞いは予測がつけづらいし、いったん仕事に取りかかれば、全く驚嘆すべき独特な方法でやってのける。しかも、その道の専門家も度肝を抜く方法でね。どうしたって人の興味を引かずにはおれないんだよ。  メイスンが何かゲームをしているなんてことは全く知られていなかったんだが、ある晩、メイスンがデュブレ老提督とチェスをしていたんだ。君も知っての通り、提督はすばらしいチェスのチャンピオンだ。前の冬のトーナメントで、フランス、イギリス両国の士官たちを総なめにしたことで一躍脚光を浴びたんだ。それに、チェスという競技の始まりの手は、定跡研究によって科学的に、厳密に決まっていることも知っているよね。ところが、メイスンは盤の両端から駒を進めるという前代未聞の手で指しはじめた。これにはデュブレもいらついていたね。老提督はゲームを中断し、初心者に教え諭すように、そんな指し手は下手な手出し理屈にあわんよ、もっとまともな手で指しなおしなさいと忠告した。メイスンは笑みを浮かべ、こうやり返した。人間たるもの、信頼できる頭脳を持っているならばそれを使うべきです。それができんのでしたら、ましな頭を持っていた過去の偉人のやり方に乗っかるという手もあるでしょうがね。当然デュブレは怒った。できる限り速やかに、メイスンをうち負かそうと手を尽くした。途中までゲームはすいすい進んだ。メイスンはどんどん駒を失っていった。メイスンの始めの指し手はうち破られ、粉々にされた。観客の目からは全くばかげた手に見えたんだ。提督は笑っていたし、明らかにワンサイドゲームに見えた。ところが、突然提督を恐怖が襲った。いつのまにか、自分の王《キング》が罠にはまっているじゃないか。馬鹿げた指しはじめは、素晴らしい戦略の一部に過ぎなかったんだ。老提督は必死に立ち向かい、悪態をつき、あらゆる犠牲を払った。でも、すべては無駄だった。提督が負けちゃったんだ。メイスンは提督をわずか二手でチェックメイトに追い込み、退屈そうに立ち上がった。  『君は、いったいどこでこの素晴らしい手を覚えたのかね?』老提督は信じられないといった表情でメイスンに尋ねた。  その時のメイスンの返事がこうだ。『ここでですよ。チェスを指すには、まず相手を知ることです。過去の名人たちが指した定跡なんて、あなたに勝つためのどんな役に立つんですか? 彼らはあなたなど会ったことも見たこともないんですよ。』  そう言うとメイスンは、きびすを返して出ていったんだ。ねえセント・クレア、これだけの変人だったら必ずや、いろいろ奇妙な噂の的になるに違いないよ。そこには真実もあれば、作り話だってある。とにかくメイスンが、偉大な頭脳を持った変わり種だってことは言えるだろうよ。近頃メイスンは僕に対して、なぜだかわからんが好意を示してくれている。それどころか、クラブでメイスンが自分から話しかける相手と言えば僕しかいないんじゃないかな。正直に言って、あの男の存在は僕にとって大いに刺激的だ。惚れ込んでいるんだよ。彼こそはたぐいまれなる傑物だ、セント・クレア。並の才能じゃないよ。」  「今でも思い出すよ、」年下の男が言った。「パリに行ってしまう前には、メイスンはニューヨーク一の辣腕《らつわん》弁護士と目されていたし、法曹界には怨嗟の声が満ち満ちていた。たしか、ヴァージニアの出身だった。最初は重犯に問われた被告の弁護をしていたんだ。その弁護がとても強引で、しかも巧妙な論法を使っていたもんだから、たちまちのうちに有名になっちまったんだ。彼は法律の不備をかいくぐって依頼人の無罪を勝ち取っていった。その抜け穴がねぇ、専門家でさえも思いつかないところにあったりするんだよ。判事でさえも唖然とするくらいのね。その才能に、多くの大企業が引き寄せられていった。いろいろな問題を彼にぶつけたところが、メイスンは実に博識で、しかもあふれんばかりの知恵を持っていることを彼らは悟ったんだ。メイスンはクライアントに足かせとなっている法の網をかいくぐる方法を指南した。法は法として守りながら、その精神を踏みにじるあの手この手を教え、しかも、クライアントが最も望んでいた、法違反を犯さずにどこまで法律を曲げられるか、その限界点までも入れ知恵したんだ。パリに移る頃にはクライアントを大勢抱えていて、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。だけど、ニューヨークを去ってしまうと、たちまち話題に上ることもなくなってしまった。いくら大物だと言っても、この都会ではいないもののことをいつまでも覚えてなぞいないからね。何年かするうちにメイスンの名はすっかり忘れられてしまったんだ。今じゃもう、メイスンのことを覚えているのはベテラン弁護士くらいだろう。彼らにとっては、メイスンに苦汁をなめさせられた恨みは、一生忘れられないだろうからね。そのタフネスぶり、強引さ、まさに妥協のない闘士だった。それでいて世捨て人の風格があってね。」  「何というか……」ウォルコットは続けた。「メイスンを見ていると、世間をいつも斜めに見ている皮肉屋を思い出すよ。古代帝国の神秘をそのまま今に持ってきたようにすら見えるな。僕はメイスンの前に出ると、いつもその知性に気圧《けお》される思いがする。ねぇセント・クレア、ランドルフ・メイスンこそまさに、ニューヨークの神秘といえる男だよね。」  そのとき、メッセンジャーボーイが部屋に入ってきて、ウォルコット氏宛の電報を届けてきた。ウォルコット氏は立ち上がりながらセント・クレアに言った。「エレヴェイテッドの役員たちがお揃いだ、急がなくては。」  二人はコートを羽織ってクラブを出た。  サミュエル・ウォルコットは上流階級の振る舞いとはいささか趣を異にする男であったが、正真正銘クラブ員である。三十代後半にして独身、大通りに面した静かな大邸宅に住んでいる。この界隈《かいわい》では莫大な富を持つ資産家で通っており、小才がきき、進歩的な考えを持っている。巨大シンジケートに属する大会社の株もいくつか持っているが、彼の富の中核はなんといっても不動産である。大通りに面した屋敷を数多く持ち、いずれも第一級の資産価値を持っていた。中でも貿易商たちが集まる一角にある、エレベーター付きのビルは真の意味で金鉱と言える。いずれもはるか以前になくなった祖父の遺産として知られているが、当時はほとんど価値がなかったとされていた。ウォルコットは若いころに金鉱を探しに行き、行方しれずとなっていた。十年度突然ニューヨークに舞い戻り、祖父の遺産を継承し、その価値を何倍にも増やした。投資が面白いように図に当たり、不動産価格の高騰にも助けられて、あっという間に財産を大金持ちとされる水準にまで殖やしていった。ウォルコットの判断はひとかどの権威と見なされた。ウォルコットなら安心と、ビジネスパートナーたちにも絶大な信用を得ていた。富は富を呼び、たちまちのうちに膨れあがった。ウォルコットは独身である。財力の後光が年頃の娘を持つ母親たちのどん欲な目に映らぬはずはない。彼の元には招待状が殺到し、社交界の喧噪と奔流に巻き込まれるようになった。ウォルコットも時としてこれに応じるようになった。彼自身の馬やヨットで遊んでいたし、ステーキ店やクラブで彼が主催したディナーパーティーは文句のつけようがなかった。しかしながら、そういった席でもウォルコットはいつも物静かで、その目には深い憂いが漂っていた。その振る舞いは、彼自身が社交界が好きだからではなく、ただ孤独を忌み嫌い、そこから免れんがために正体に応じている節があった。間に立って口をきこうという話もずいぶんあったが、ごく自然に立ち消えになってしまう状態が長いこと続いていた。とはいえ、運命の女神[#注二]は底意地が悪い。もし彼女が人間の罠から犠牲者を救ったとすれば、それは彼を逃がそうとするからではなくて、彼女自身が仕掛けた罠に絡め取ろうと狙っているということなのだ。そしてまさしく、ヴァージニア・セント・クレアが、ミリアム・ステュヴィサント夫人が冬のさなかに開いたレセプションにおいて介添え役を務めていたのを見て、サミュエル・ウォルコットはこれ以上ないほどに深く、そして一途に首っ丈となってしまった。その場にいた他の招待者はたちまちのうちに敗者となった。ミリアム・ステュヴィサント夫人は内心|快哉《かいさい》を叫び、いわば自分自身に何度もアンコールの拍手を浴びせているようだった。礼儀正しい物静かな男が、社交界の新星の足下にひざまずく姿はまことに好ましいものだった。まさしく祝福を受けていた。年頃の娘を持つ他の母親でさえも、認めざるを得なかった。ミス・セント・クレアは茶色の髪を持ち、目も茶色い。口さがない世間の人たちも、背かっこうはまあまあかな、とまずまずの点をつけた。名門の出にふさわしく、立ち居振る舞いは上品で、礼儀作法もわきまえており、生まれながらにして貴婦人たる素質を備えている、と口々に噂した。  上流階級の一部には、ミス・セント・クレアの天真爛漫さはいささか古風でつまらないものだとか、ピューリタン的なご清潔ぶりがちとひっかかるだとかいう意見もあった。だが、そういう気質こそがサミュエル・ウォルコットの心をとらえたんだという見方が正しいと思われた。ともあれ、ウォルコットは恋に落ちた。深く傷を負った。かくして、昔から幾度となく繰り返されてきた悲喜劇の舞台に新たな役者が登場した。そして一途に、誠実に持ち役を演じ始めた。もし役をし損じたら、彼にとっては致命的なものとなるだろうと思われた。 II  セント・クレアとウォルコットが交わした先の会話からおよそ一週間がたつ頃、ランドルフ・メイスンはクラブが用意した書斎で、後ろ手をして立っていた。  外見は40代半ば、背は高く、相応に肩幅も広く、太くも細くもない筋肉質な体である。茶色の髪はやや薄く、白髪交じりである。額は高く秀でてかすかに赤みを帯びている。さほど大きくない目をキョロキョロと動かしている。鼻は鷲鼻《わしばな》でとても大きい。小鼻の両側から口角のあたりまで、深い皺《しわ》が走っている。口はきりりと締まり、あごは四角く張っている。  ランドルフ・メイスンの顔を上から見下ろすと、普段の顔つきからして冷たい皮肉屋といった感じである。下から見上げると、野蛮さとか執念深さを秘めて猛々しい。そして、正面からまともに対峙すると、誰しもがメイスンの見せる活力に息を呑み、そこに不敵な冷笑を読みとるに違いない。まさに、南部生まれの底知れぬ力を持つに違いなかった。  暖炉に薪がくすぶっていた。寒さに身が縮こまるような秋の夕方、来るべき冬の訪れを告げるどんよりとした空気が、この町中にまで漂っている。メイスンの顔は疲労でゆがんでいた。長く白い手を後ろできつく組んでいる。その表情には疲れ切ったような表情を浮かべていたが、目だけは違った。充血した目をキョロキョロと動かしていた。  同じ建物の奥にある食堂では、パーティが絶頂を迎えていた。サミュエル・ウォルコットは幸せだった。テーブルを挟んだ向こうにいるヴァージニア・セント・クレアは輝くばかりの美しさを称え、しかもほんのり頬を染めていた。それを見つめるミリアム・ステュヴィサント夫人とマーシャル・セント・クレアも、見るからに上機嫌だった。ウォルコットはヴァージニアを見つめていた。感動で胸がいっぱいだった。幾千もの堂々巡りを繰り返していた。いったいなぜ、僕みたいな人間を彼女は愛してくれるんだろうか。どんな奇跡があって、彼女は僕を受け入れてくれたんだろうか。いったい僕はどんな理由があって、自分の家の、自分のテーブルで、毎日彼女と向き合っていられるんだろう。  人々が席を立つ中、ウェイターが一人やってきて、ウォルコットに一通の封筒を手渡した。彼は素早くポケットに封筒をつっこんだ。帰宅するお客たちは気にもとめていなかったが、ウォルコットの顔は土気色になっていた。ミス・セント・クレアの魅惑的な肩にコートを着せかける手は激しくふるえていた。  「マーシャル……」ウォルコットは平静を装ったが、その声はうつろに響いた。「ご婦人方をお見送りしてくれないか…僕はどうしてもはずせない用事があるんだ…」  「いいとも、ウォルコット。」若者は気さくに答えた。「気遣いは無用だ、さぁ行った行った。」  「かわいそうに。」ウォルコットが友人に助けられて乗り物から降り、クラブに続く階段を駆け上がったのを見て、ステュヴィサント夫人はつぶやいた。「本当に上の空ね。殿方がああして恋に憑《つ》かれているさまは、なんともいえないものがあるわぁ。」  サミュエル・ウォルコットは運命に導かれて、あの書斎にまっすぐ向かい、ドアを開けた。部屋は暗く、暖炉の脇にひっそりと立つメイスンの姿は、ウォルコットの目には映らなかった。ウォルコットはつかつかと部屋を横切り、書き物机の明かりをつけると、ポケットから封筒を取り出し、封を切った。そして明かりに体を寄せて、手紙を読み出した。一通り読み終えたところで、あんぐり口を開けた。頬肉が頬からはがれ落ち、落ちてしまうかにすら思えた。ひざががくりと折れた。そのまま床に崩れ落ちた。床に落ちる寸前に、メイスンが長い腕を広げて抱きかかえた。ところで、人間の心理とは不思議なものである。新たな危険が身に迫ると、普段は無意識の領域で眠っている動物としての本能が、むくむくと頭をもたげてくるのである。ウォルコットは手紙を片手に握りしめ、メイスンの腕の中で振り返った。そしてちょっとの間、ワイヤーロープみたいに自分を締め付けるいかつい男を見つめていた。  「まんまと罠にはまりましたな。」メイスンは言った。「私の敵は悪辣この上ないやつでね。」  「あなたの敵?」ウォルコットはうめいた。「いつから関わり合いになったんですか? いったいどうして…あなたはこのことを知っているんです…あなたの敵とはどういうことですか?」  メイスンは驚きで丸まった目を見下ろした。  「私以上にそいつを知っているやつなんかいないでしょう。」メイスンは言った。「彼女が思いついた罠やもくろみを、すべて裏をかいてきたんですからな。」  「彼女、あなたに罠を仕掛けたんですか!?」ウォルコットの声はもはや恐怖の固まりだった。  「古いやりくちですよ。」メイスンはウォルコットにささやいた。「古典的だがとても卑怯だ。やつは背後からあなたを襲おうとしているんですよ。だが我々はその裏をかけますよ。なにせ、私が手助けすることを勘定に入れてなかったんですからね。私は彼女のことを知り尽くしていると言ってもいいでしょう。」  メイスンの顔は紅潮していた。その目は爛々《らんらん》と輝いていた。話をしながらメイスンはウォルコットの手を離し、暖炉の前に移っていた。サミュエル・ウォルコットは起きあがった。息を弾ませ、テーブルに手をついて寄りかかっていながらも、その目はメイスンに釘付けだった。もともとサミュエル・ウォルコットは強靱な精神を持っていたし、実社会に乗り出してからも厳しく鍛えられてきた男だった。そのため、やや落ち着きを取り戻し、素早く頭を巡らした。この怪しい男はいったいなにを知っているんだろう? 単にカマを掛けてるんだろうか? それとも、このことでもう何か知ってしまっているんだろうか? ウォルコットには知る由もなかったが、メイスンが『彼女』と呼んでいるのは運命のことであり、運命の女神に対して以上な敵対心を燃やしているだけなのであった。ウォルコットはこれまで、非常事態に直面しても自分は切り抜けられるであろうと信じ切っていた。だが事態は全く寝耳に水だった。虚をつかれてうろたえていた。とにかくこの人は自分を助けてくれると宣言した。きっとそれを実行してくれるだろう。ウォルコットはゆっくりと封筒(とその中身)をポケットに入れ、衣服の乱れを直し、進んでメイスンの肩に手を置いた。  「行きましょう。」ウォルコットは言った。「助けてくださるということならば、うちに来ていただかなければ。」  メイスンは無言でウォルコットの後を追った。ホールでオーバーコートと帽子をはおり、二人並んで外に出た。ウォルコットはタクシーを呼び止め、二人で乗り込んでウォルコットの屋敷に向かった。屋敷につくとカギを取り出し、ドアを開け、図書室までメイスンを案内した。そして明かりをともし、メイスンにテーブルにつくよう促した。そうしておいて彼は奥の部屋に行き、書類の束とブランデーのビンを持って来た。ウォルコットはブランデーをグラスに入れ、メイスンに勧めた。しかしメイスンは断った。するとウォルコットは、そのグラスの中身を飲み干し、ビンを棚に戻すと、メイスンと向かい合う席に腰を下ろした。  「メイスンさん…」ウォルコットの声は平静を取り戻していたものの、墓場からよみがえったみたいにうつろだった。「私は破滅です。神様はついに私を捕らえました。もはや逃れられませんよ。」  「私はあなたを助けるために来たんですよ。」メイスンは声を荒《あら》げた。「私なら運命をひっくり返しますよ。なにが起こったか話してくださらんか。」  ウォルコットは身を乗り出し、両肘をテーブルにつけた。白髪まじりの髪はくしゃくしゃに逆立ち、顔は歪んでいた。しばらくの間、彼は無言だった。やがて暗がりに移動し、戻ってくるとメイスンの前に古びてすっかり黄色くなった書類の束を広げた。  「まず最初に言っておきますと」ウォルコットは話し出した。「私の人生は嘘の固まりです。犯罪そのものです。金メッキした偽物の人生、それが私なのです。どこにも正直さのかけらもないんです。すべてが嘘なんです。私は嘘吐《うそつ》きです。人間である前に泥棒猫なんです。私が持っている財産は私のものではありません。死んだ人間からかすめ取ったんです。私の名前にしたって、元々私のじゃなかった。犯罪によって生まれた贋の名前なんです。いいえそれ以上に――法に照らせば私は殺人者なのです。神の面前に出れば、間違いなく殺人者です。そして、神が創りたもうた何者にもまして私が愛している女性の前では、殺人者よりも罪深い人間なのです…」  ウォルコットはここで告白を中止し、顔の汗を拭った。  ここでメイスンが口を挟んだ。「ウォルコットさん、あなたの言ってることはすべて戯言《ざれごと》です、子供の与太話です。あなたが何者であるかはこの際置いときましょう。問題は、この場をいかに切り抜けるか、なんですよ、いいですね。」  サミュエル・ウォルコットはかがみ込み、ブランデーをグラスに作って飲み干した。  そしてまた、ゆっくりと話し出した。「そうですね…私の本当の名前はリチャード・ウォーレンといいます。一八七九年の春にニューヨークに来ました。そこでサミュエル・ウォルコットと――本物のですよ――知り合いました。当時は彼も若く、ちょっとした蓄えと、祖父譲りの財産を少々持っていました。私たちはすぐに友達になりました。そして、二人で西部に行くことにしました。二人で出来るだけのお金をかき集めて、カリフォルニアに金鉱を探しに出かけたんです。二人とも若かったし、なんといっても素人でしたから、どんどんお金が飛んでいきました。時は流れて四月のある朝、私たちはシエラ・ネバダの山奥にある、ヘルズ・エルボウという丸太小屋ばかりのちいさな部落にやってきました。そこで私たちは頑張りました。一年くらい食うや食わずの生活だったです。ここで進退窮まり、ウォルコットが成り行きでメキシコ人ギャンブラーの娘と結婚してしまいました。そのメキシコ人は飲食店を経営していましたが、ポーカー賭博もやっていました。そのあとも何年か食うや食わずの生活でした。メキシコ人一家とウォルコットと以外に知り合いはいませんでした。やがて、娘が私に意味深な色目を使ってくるようになってきました。ウォルコットも色目に気がついて、私に嫉妬するようになっていったんです。  ある日の夜、酔ったはずみでウォルコットとけんかになり、彼を殺してしまいました。夜も更けていましたから、家には女の他に、四人しかいませんでした。メキシコ人ギャンブラー、ケルビム・ピートという性悪の混血児、それにウォルコットと私です。ウォルコットが倒れたとき、混血児が素早く銃を取り、テーブルの向かい側から私を撃ってきました。ところがその瞬間、その女、ニーナ・サン・クロワがピートの腕を叩いたんです。弾はそれ、私のかわりに彼女の父親のメキシコ人が瀕死の重傷を負いました。私はピートの額を打ち抜き、女の方を見ました。私の方に飛びかかってくると思ったんです。ところが驚いたことに、彼女は窓を指さし、自分も後から行くから、村はずれの四つ角で待っていろと言ったんです。  たっぷり三時間は待ったでしょうか、ようやく彼女が四つ角にやってきました。ニーナは砂金袋を一つと、父親が持っていた宝石を少々、それと書類の束を持ってきていました。なんでこんなに時間がかかったんだと聞くと、ニーナは、二人がまだ死んでいなかったから、司祭を呼んできて、死ぬのを待っていたんだ、と言いました。これは本当でした。ですが、すべてではなかったんです。迷信からか、後に使えると思ったのかは知りませんが、ニーナは司祭を説き伏せて、誓書《せいしょ》を書き取らせて、厳重に封をさせたんです。その書類を彼女は持ってきていました。このことは私は後から知ったんです。ニーナと待ち合わせをしたときにはそんな致命的な書類のことなど全く知らなかったんです。  私たちは一緒に西海岸に向かいました。そのあたりは無法地帯でしてね。私たちがなめた辛酸はまさに筆舌に尽くしがたいものでした。時々ニーナは天才的な閃きと悪知恵を見せて、窮地に追い込まれたのを辛くも逃れたこともありました。しかもいつも、私に対しては献身的に尽くしてくれていました。犬が主人に対して示すような感じでした。この世界で私だけのことを愛していました。やがて、私たちがサンフランシスコに着いたときに、ニーナが私の手元に、この書類を寄越《よこ》しました。」そしてウォルコットは黄ばんだ書類を取り出し、テーブルの向こう側にいるメイスンの目の前に置いた。  「そして彼女はこう言ってきたんです。あなたがウォルコットの名を詐称しましょう。それから二人でニューヨークに行って、ウォルコットの財産を自分のものにしようと言われました。私が手元の書類を見ると、なんとそこには、ウォルコットが財産を受け継いだことを証明する遺言や手紙、どこからも文句を言われないだけの確かな身分証明書などが、一式そろっていたんです。その時は命知らずのギャンブラーと自負していましたが、ニーナ・サン・クロワが言ってきた大胆な計画にはさすがにひるみました。自分はリチャード・ウォーレンだ。ニューヨークではよく知られている。そんな詐称は成功する前に気づかれるし、きっと詳しく調査される。そうなれば、旧悪が白日のもとに晒されるに違いないと、反論しました。  するとニーナは、自分の計画に有利な点を数え上げました。私はウォルコットにそっくりだ。私たちが暮らしてきた十年あまりの人生を経験すれば、誰だって顔かたちは変わっていく。それに、彼の名を騙ったところで、シエラ・ネバダの人も通わぬヘルズ・エルボウで起こった人殺しにまで過去をたどってくることは誰にも出来ない。そして私を焚き付けました。どのみち私たちは宿無し。誰がどう見ても犯罪者だ。法に照らしても神の前に出ても、罰を受ける身なんだから、失うものなどなにもないさ。二人して底辺に沈んじまってるんだよ。やがて彼女は笑いだし、今まであなたを意気地なしだと思ったことはなかった。だけど、ここに来て怖じ気づいて逃げちまうようなら、もう一緒にやっていけないね。結局、私たちは砂金袋や宝石をサンフランシスコで売り払い、世間に出ても恥ずかしくないだけの身なりを整え、そのころ一番豪華だった蒸気船でニューヨークにやってきました。  いつの間にか私は、ニーナ・サン・クロワが持つギャンブラー魂に依存するようになっていきました。私には彼女が見せる荒削りな強さが必要でした。生まれも育ちもニーナはちょっと他で見ないたぐいの人間でした。ニーナはスペイン人のエンジニアの娘でしたが、メキシコ人ギャンブラーにさらわれて、その娘として育ったんです。リオグランデ沿いにあるさる修道院で最高の教育を受けてきました。やがて一人前の娘になった頃、父親とともにカリフォルニアの山中にまで逃げる羽目になったんです。  ニューヨークに着いたとき、私はニーナを妻として紹介するつもりでした。ところが彼女はそれは駄目だと言いました。『妻』の存在は人目を引く、ウォルコットの親戚の耳にはいると厄介だ、これがニーナの言い分でした。それもあって、私独りでニューヨークに行き、サミュエル・ウォルコットの名前を使って財産の所有権を主張すること、ほとぼりが冷めるまではニーナの存在を秘密のままにしておくことを取り決めました。  ニーナの計画は細かいところまで完璧でした。あっけないほど簡単に私は新しい人格になりすまし、財産を手に入れていきました。財産は放っておかれた間に大きく高騰していましたから、私、すなわちサミュエル・ウォルコットはすぐに大金持ちとなりました。その後で私はニーナ・サン・クロワのところに行き、たっぷりお金を渡しました。ニーナはそのお金で、ニューヨークの北のはずれに世間から身を隠すための家を買いました。それ以来彼女は世間から隠れ、ひっそりと生きています。一方私は都会に残り、大金持ちの独り者として暮らしてきたんです。  ニーナ・サン・クロワを捨ててしまおうと思ったことなどありませんでした。ですから、時々会いに行ってやりました。もちろん変装して、人に気づかれないようにすることには注意を払っていました。私がサミュエル・ウォルコットになりきってからも、ニーナは相変わらず私を愛してくれていました。いつも私のことを第一に考え、私を待ち続けることを生き甲斐にしているように思えます。さて、私の仕事はどんどん広がっていきました。みんなが私を追いかけます。私と手を組もうといろいろ持ちかけてきます。やがてニューヨークの紳士方やご婦人方と派手な生活を送るようになりました。そうすると、次第にニーナのことが疎ましくなってきました。言い訳をつけて会いに行くのを先送りするようになりました。やがて彼女は私を怪しみだし、自分を妻と認めるよう要求してきました。それは難しいとニーナに言いますと、一緒にスペインに行ってくれればいいと言うのです。そうすれば二人は結婚できる、それからまたアメリカに帰ってくれば、そんなに騒ぎにもならずに二人で暮らしていける、こう言ってきます。  私は、もう二人の関係はこれっきりにしようと決心しました。ニーナには、財産の半分をお金にしておまえに渡す、そのかわり、結婚はあきらめてくれ、と言いました。怒りで半狂乱になるかと思ったのですが、そうするかわりに、普段の態度で奥に引っ込み、二通の書類を持ってきて、読み上げたのです。一つはウォルコットとニーナを夫婦とする正式な結婚証明書でした。もう一つは、彼女の父だったメキシコ人とサミュエル・ウォルコットが、いまわの際に残した宣誓書でした。紛れもなく、私が犯した殺人の証拠でした。書類は法的に整っていましたし、イエズス会の宣教師が署名しているんですからね。  書類を読み終わった後で、ニーナはいかにも親切な口調でこう付け加えました。ねぇ、あなた、あたしを喜んで妻に迎えるのと、サミュエル・ウォルコットの未亡人に財産をすべて譲って殺人罪で絞首刑にされるのと、どっちがいいのかしらね。  頭が真っ白になりました。そしてあの女が心底怖くなりました。私は完全にあの女の罠にはまりました。なんでも言うとおりにするから、お願いだから、その書類は破り捨ててくれ、と懇願しました。あの女は嫌よと言い、私は何度も何度も破り捨ててくれるよう頼み込みました。そんなやりとりの末に、ようやくあの女は、いかにも私を信じてくれたような感じで私に書類を渡してくれました。その場で私はびりびりに破いて火にくべてやりました。  それから三月《みつき》が経ちました。あの女の計画通りに、スペインに行く手はずを整えました。あの女が今朝船に乗り、私がその後で追いかける計画でした。もちろん、行くつもりは全くありません。私を陥れる書類はすべて破り捨てた、もうあの女のくびきからは自由だという気持ちで心が弾みました。私はあの女を説得して、あの女が先に船に乗って、私が後から追いかけることにさせました。あの女が行ってしまってから、セント・クレア嬢と結婚するつもりでした。もしニーナ・サン・クロワが帰ってきたら、私はあの女を精神病患者として病院に入れてしまえばいいと考えていました。ですが、それはあまりにも考えが甘すぎました。こんなことで、ニーナ・サン・クロワのような女を追っ払えると、本のしばらくでも思ってしまうとは、我ながら大馬鹿だと思っています。」  「先ほど、これを受け取りました。」そう言いながら、ウォルコットはポケットから封筒を取り出し、メイスンに渡した。「それを読んでどうなったか、あなたは一部始終を見ています。読んでいただければ、どうしてそんなことになってしまったのかお分かりになるでしょう。裏にあの女の名前が書いてあるのを見て、死に神に首根っこを捕まれたと感じたんです。」  メイスンは手紙を取り出した。手紙はスペイン語で書かれていた。彼はさっと字面を追った。  リチャード・ウォーレン様  親愛なるあなた。あなたは哀れなニーナをだまして一人でスペインに行かせようとしました。私が行ってしまえば、あのアメリカ美人と結婚するおつもりなのでしょう。私はそこまでお人好しではございません。どのみち私は大金持ちよ! そしてあなたは私のもの。大司教様も情けある教会も、人殺しはお嫌いでいらっしゃいますから。  ニーナ・サン・クロワ  まったくお馬鹿さんだこと。あなたが破り捨てたのは書類の写しですのよ。  N. San C.  便箋にカードが一枚留められていた。そこには流麗な筆跡で『大司教様は心からサン・クロワ夫人の訴えに耳を傾けます。ついては、金曜日の朝十一時に大司教様の元に来られたし』と綴られていた。  「もう終わりだ。どうしようもない。」ウォルコットの声はもう投げやりだった。「私はあの女をよく知っている。一度決めたことは必ずやり遂げるんです。あの女は本気で私の旧悪を暴くつもりです。」  メイスンは椅子に深く腰掛け、足を投げ出し、手をポケットに深く入れた。ウォルコットは俯きながらもメイスンに絶望的な視線を向けていた。心の中ではほとんどあきらめていた。顔は青白く、その表情は沈んでいた。暖炉の上に置いてあるブロンズ時計が、ことさらコチコチと耳障りな音を立てていた。ここでやおらメイスンが足を直し、二本の骨張った手をテーブルに置き、ウォルコットを見た。そして話し出した。  「ウォルコットさん、この種の問題を解決する方法はひとつしかありません。原因の種をバッサリと、しかも素早く切らなければなりません。まずはここを押さえておかねばなりません、といっても、これくらいは馬鹿でも分かります。もう一つ押さえておきたいのは、必ずあなた自身が実行しなければいけないということです。殺し屋を雇うことはあなたにとって死を意味します。やつらは馬蛭《ウマヒル》みたいなものです。いつまででもあなたを強請《ゆす》ってきます。ですから、一時しのぎにしかなりません。誰かを雇っても、問題がそいつに移るだけです。せいぜい刑の執行を遅らせるに過ぎません。普通犯罪を犯そうとする者なら、ここまでは考えてきます。さて、世間でいう悪党たちは、通常ここからさらに問題を二つに絞り込みます。  犯罪の実行方法。  犯行事実の隠蔽。  ところで、悪党たちはこれ以外の要点を無視し、目を向けようとはしません。殺害方法を考え、証拠をなにも残さず現場から立ち去る方法を考えついたら、これで問題は片づいたと信じ、思考停止してしまうのです。悪党の中の悪党と言われる犯罪者たちも、しばしばここで立ち止まり、致命的なミスをしてしまうのです。  どんな犯罪でも――重犯罪ならなおさらです――考慮すべき第三の問題があります。そして、これこそが犯罪計画の要と言えるのです。今までにしくじったやつらは、大悪党と言われていても、この第三の問題について考えるのを怠っていたか、あるいはそもそも考える分別に欠けていたのです。彼らは実に見事な方法で被害者を陥れます。天才のそれに匹敵する悪知恵でもって、追っ手を煙に巻いてゆきます。しかしながら、彼らの計画には、犯罪を取り締まる官憲の目から逃れる方法が抜けています。まさにその一点のために、計画に致命的な穴があって、そのために彼らは惨めな結末を迎えるのです。まさにそれ故にこそ、第三の問題の重要性があるのです。  それは、法律的に正当な抜け道です。」  メイスンは立ち上がり、テーブルのまわりをぐるっと歩いたあと、自分の手を力強くサミュエル・ウォルコットの肩に置き、話を続けた。「明日の夜にはけりをつけておかないといけません。明日中に仕事を整理して、医者の診断に従ってしばらくの間ヨットで外遊すると世間に言いふらしてください。外遊するためのヨットはもちろん用意してもらいます。乗務員には、スターテン島のどこかにヨットをつけて、あさって朝六時までそこで待つように指示してください。もしあなたがその時間までにヨットに乗り込まない場合、南アメリカのどこかの港までヨットで航海して、そこで次の指示を待つように言っておくんです。これだけやっておけば、しばらくあなたがここにいなかったことについての説明がつきます。それであなた自身は、ニーナ・サン・クロワのところに、いつもの変装で行って、する事を済ませた上でヨットに乗り込んでください。こうすれば、あなたはいったん別人に成り代わり、また本来のあなたに戻れるでしょう。証拠も残りません。私は明日の夕方またお宅に来ます。あなたが必要になる道具を持ってきます。あらゆる面を考慮した、完璧な、かつ、厳密な指示をさせていただきます。私がいうことをすべて、細心の注意を持って実行すること、これこそが、私の計画が成功するための必須条件なのです。」  メイスンの話を、ウォルコットは何も言わずに、身動《みじろ》ぎもせずに聞いていた。話が終わるとおもむろに立ち上がった。きっとその表情に抗議の色を見て取ったのだろう、メイスンは後ずさりし、手をかざした。そして冷たく言い放った。「いいですか、何も言わないでください。あなたはただ私の計画の実行役に過ぎないんです。実行役に頭脳は要りません。」言い終わるとメイスンはきびすを返し、ウォルコット邸を出ていった。 III  サミュエル・ウォルコットがニーナ・サン・クロワを住まわせるために選んだ家は、ニューヨークから北、遠く離れた田舎にあった。その家は非常に古く、庭の芝生はのび放題だった。家の形は正方形で、古い様式で作られたレンガ製。大通りからかなり奥まったところにあり、さらにまわりの木が通りから目隠しになっていた。まわりはぐるっと鉄さびが浮かんだフェンスで囲まれていた。ヴァージニアでよく見かけるような、没落貴族の屋敷みたいな感じだった。  ある十一月の木曜日、午後三時頃、小男が一人、荷車を引いていた。男はニーナの家の裏手にある路地で立ち止まった。男が勝手口を開けると、黒人の老家政婦が台所からやってきて、何か用かいと尋ねた。男は奥様は家にいるかと尋ね、老家政婦は奥様は今お昼寝中でお客に会うことは出来ないと答えた。  「そりゃぁいいや。」男が言った。「今なら大騒ぎになることもねぇや。実は奥様がおらの店に先週ワインを注文してくださったんだ。うちの旦那がすぐ届けろって言ってたんだが、うっかり今日まで忘れちまってたってわけさ。なぁおばさん、今から地下室にワインを置かせてもらえないかな、で、それを奥様に黙っててもらえば、ワインが注文通りに来なかったことに気づくはずもねえって寸法さ。」  これだけ言い終わると、男はポケットから一$銀貨を取り出して、おばあさんに渡した。「頼むよおばさん、お願い。奥様に気づかれたら俺の仕事がなくなっちまうからさ。何も言わずにとっといてくれよ。」  「まかせときな、あんた。」老家政婦の顔が五月の朝だったかのように輝いた。「地下室のドアは開いてるよ。そっと運んで、奥の方に入れておけば、いつ地下室に運ばれたかなんて誰にもわかりゃしないよ。」  老家政婦は台所に戻っていった。一方小男は荷車にある荷物を下ろしはじめた。ワインを五ケース地下室に運び込み、家政婦が言ったとおりに奥の方にしまい込んだ。それから、誰も見ていないことを確かめながら荷車にとって返すと、厳重に包んだ紙包みをさらに運び込んだ。小麦粉みたいな粉末がいっぱい入った包みを二つ、それから古新聞で包み込んだやや小さめのものである。それらの包みを、男はワインケースの後ろに慎重に隠して置いた。その後で男はドアを閉め、荷車に戻ると、そのまま路地を走り去ってどこかに行ってしまった。  同じ日の午後八時頃、メキシコ人水夫が一人、正面玄関を素早く開けて、屋敷の横手に回り込んできた。その水夫は窓のそばで立ち止まり、指でコツコツと窓ガラスを叩いた。中から女性がすぐに窓を開けた。背高でしなやかで、目を見張るようなプロポーションの女性だった。スペイン系の顔立ちをしており、肌の色は浅黒く、髪の毛をすらっと伸ばしていた。水夫は窓から中に入った。それを見届けると女はカギを掛け、男の方に振り返った。その顔は笑っていた。  「あぁ、あなただったの。よく来てくれたわね。」  水夫の口調は素早かった。「俺以外に誰を待ってたんだ?」  「そうね、大司教様だったかしら。」  「ニーナ!」男の声がうわずった。そこには愛情やら引け目やら憎しみやらがこもっていた。黒く日焼けした顔が蒼白になった。  一瞬女がひるんだ。眉をひそめて後ずさった。「違うわよ。まだ大丈夫よ。」  男は暖炉のそばに行き、椅子に腰掛け、顔を手で覆った。女は静かに男の後を追い、男にもたれかかった。ものすごい苦しみからか、それとも素晴らしい演技のたまものか、男の首の筋肉は激しく引きつり、肩は震えていた。  「あぁ…」男はただつぶやくばかりだった。「私にはできない、私には…」  女はその言葉を聞きとがめ、誰かに顔を叩かれたみたいに素早く立ち上がった。男の前に自分の顔を突き出した。小鼻をふくらませ、目に怒りの炎をたぎらせていた。  「私にはできないですって!? つまりあの女を愛している訳ね! 駄目よ! 言うとおりにしてもらいますから! 分かった? あたしの言うとおりにするのよ! あなたは私の夫を殺した! 邪魔者を振り払ったの! でも、私は邪魔者扱いされるいわれはないわ! 証拠はそろっているのよ。大司教様には明日お見せします。あなたは縛り首間違いなしよ! いいこと? 縛り首よ!」  女のボルテージはしゃべるうちに盛り上がり、最後は金切り声だった。男はゆっくりと女の方に向き直り、顔は見なかったが、手を女に向けて広げた。女が立ち止まり、男を見下ろした。目の奥に燃える炎が消え、胸が波打ち、唇が震えはじめた。声を上げながら男の胸に飛び込んだ。首に抱きつき、男の頬に自分の頬をすり寄せてきた。  「あぁ、ディック、ディック!」女の声は涙声だった。「とってもあなたを愛してるの! あなたなしじゃもう生きていけないの! あなたがいない時間なんて! とっても…とっても欲しいの…捨てないでディック!」  男が素早く右手を動かし、袖から大ぶりのメキシカンナイフを取り出した。女の背中をゆっくりと撫でた。やがて心臓の鼓動をその手に感じると、ナイフを持ち直し、柄をしっかりと握りしめ、女の胸にその鋭い刃を突き通した。傷口から新鮮な血が噴き出し、男の腕から足まで血に染まった。女の体が、体温を保ったまま、男の腕の中を滑り落ちた。男は立ち上がり、女の体からナイフを引き抜き、ベルトにつけた鞘に入れた。女の服のボタンをはずし、服を脱がせた。そうしながら男は、床に落ちていた書類の束を手に取り、さっと斜め読みすると、ポケットにしまい込んだ。女の服を脱がし終えると、男は女の死体を抱き抱え、廊下に出て、階段を上りはじめた。死体は自分を支えないから、持っている人が体重をすべて支えなければならない。そのため、死体運びはとてもつらい作業となった。男はむごたらしくも死体を二つに折り曲げ、ひざをあごにつけた状態にして、一歩一歩確実に階段を踏みしめて、浴室に死体を運び込んだ。浴室のタイル張りの床に、死体を寝かせた。そして窓を開け、シャッターを下ろしてガス灯をつけた。浴室は狭く、窓の下にある浴槽はごく普通のほうろう引きのブリキ製だった。そして、足つきのため、床からおよそ六インチ浮いていた。男は浴槽に入り、ナイフで金属製の栓をこじり取り、かわりにポケットからその穴に合うように作られた陶器製の栓をねじ込んだ。この栓にはプラチナ製のワイヤーが取り付けられていた。男はワイヤーの端をつかみ、浴槽の外に固定した。これだけ済ませた後、男は死体のそばに行き、裸にして桶に放り込み、死体をメキシコナイフで解体しだした。ナイフの刃はカミソリのように研ぎ澄まされていた。男は死体の解体を手早く、かつものすごく丁寧に進めていった。  やがて死体はバラバラに刻まれた。男は鞘にナイフを収め、手を洗い、一階の廊下におりてきた。水夫は慣れた手つきでドアを開け、地下室に入り込んだ。地下室でガス灯をつけ、ワインケースをひとつ開封し、中のビンをつかめるだけつかんで、また浴室に戻ってきた。ビンの中身を浴槽の中の死体にすべて注ぎ、空きビンを手に地下室に戻ってくると、ワインケースにビンを戻した。この作業が繰り返された。ワインケースがあとひとつとなる頃には、浴槽の半分くらいまで中の液体がたまっていた。液体は硫酸であった。  男はまた地下室に戻り、最後に残っていた五番目のワインケースを開けた。五番目のケースには、本物のワインが入っていた。男はそのワインを、硫酸が入っていたビンにまんべんなく注いでいった。硫酸のにおいを飛ばしてしまおうというねらいだった。それから男はガス灯を消し、紙袋二つと小さいがずっしり感がある包みを持って浴室に上がってきた。紙袋の中身は硝酸ソーダだった。浴室のドアの前で男は荷物を下ろし、小さい紙包みを空けた。中から長いチューブがついた大きなガスバーナー――一般的なガスストーブについているバーナーとは見た目からして違うものである――が二つ出てきた。男はチューブを浴室の元栓につなぎ、浴槽の下にガスバーナーを置き、元栓を全開して火をつけた。そして、女の下着と、服をはいだときに見つけた書類の束を浴槽に投げ入れ、持ってきた硝酸ソーダをまんべんなく硫酸の上に撒いた。これだけ済ませると男はそそくさと浴室から出てきてドアを閉めた。  浴槽の中では早くも硫酸が死体に作用し、分解しはじめていた。ガスの火に燃やされて、硫酸が沸騰してきたために、恐るべき勢いで死体を溶かしていったのだ。時々男は注意深く浴室のドアを開けた。湿ったタオルで口と鼻を守りながら、このむごたらしい有様を見守っていた。夜も更けていき、浴槽の中身はどろどろになっていった。明け方4時に男が浴槽を見ると、浴槽には非常に濃い液体があるばかりとなっていた。ここで男は一気にガスの栓を閉め、また部屋から脱出した。たっぷり三十分は廊下で待っていた。やがて、硫酸が冷めてきて、ひどい臭いが収まってきた頃を見計らって、男は浴室に入り、プラチナワイヤーをつかみ、プリキ栓を抜き取って、浴槽の中身をすっかり流してしまった。それから風呂の蛇口をひねり、お湯できれいに浴槽をすすいで、もともとあった金属の栓を穴に戻した。そのあと、ゴムチューブを元栓から引っこ抜き、バラバラに切り刻んで、ブリキ栓を砕き、プラチナワイヤーをぐちゃぐちゃに丸めて、みんなまとめて下水口に流してしまった[#注三]  悪臭は完全に抜けていた。男は浴室に戻ると、自分が行った作業の痕跡が残っていないかどうか手際よく調べた。男は細心の注意を怠らなかった。浴室に何の証拠も残っていない事にようやく満足すると、ガスバーナーを二つとも持って、浴室から出てきてドアを後ろ手で閉めた。そして屋根裏部屋に行き、ほこりまみれの荷物の中にバーナーを隠し、一歩一歩屋根裏部屋から階段を下りて、一階の廊下までやってきた。男が、女を殺した部屋に足を踏み入れたまさにその時、警官が二人飛び出してきて男を捕まえた。男は罠にかかった動物みたいに悲鳴を上げ、その場にうずくまった。  「あぁ、無駄だった! なんて無駄なことを!」男が叫んだ。その後は我に返り、ずっと黙っていた。警官たちは男に手錠を掛け、パトロール中の警官に応援を頼み、男を警察署に連行していった。男は、自分はメキシコ人水夫のヴィクター・アンコーナだと名乗ったきり、一切の供述を拒んだ。翌朝、ヴィクター・アンコーナはランドルフ・メイスンを呼び寄せ、長いこと話をしていた。 IV  殺人の嫌疑を受けた無名の被疑者が、裁判の遅延に異議を申し立てる必要はほとんどなかった。ヴィクター・アンコーナが逮捕された朝、各紙こぞって長々と感情を詰め込んだ記事を掲載し、アンコーナを鬼畜とののしり、有罪と決めつけた。ちょうど大陪審が開かれている最中だったため、時を移さず審議に入り、事件は一足飛びに法廷にかけられた。起訴状は長文となった。その内容は、囚人をニーナ・サン・クロワを撲殺、刺殺、扼《やく》殺、毒殺、その他の方法で殺した廉《かど》により有罪とするものであった。法廷は三日間にわたった。その間、審理は検察側の一方的な攻勢が続いた。法廷には大勢傍聴人が詰めかけた。被告に対する憎悪から暴徒化しかねない雰囲気だった。そのため、警官隊もピリピリとしていた。検事の論告は芝居がかったもので、大げさに被告をなじった。実に横柄な態度で、求刑通りの罪を言い渡すよう迫るものだった。被告側弁護人であるメイスンはというと、一貫して審理の状況に関心を示さず、めんどくさそうな態度をとっていた。審理中ほとんど自分の席に座りっぱなしで、やせた体をよりいっそう縮め、長い足を椅子から投げ出し、その厳《いか》つい顔には疲労の色濃く、普段はキョロキョロ動く目を、悲劇の仮面よろしく陪審の頭上にずっと固定していた。傍聴人は――判事さえも――弁護人はこの事件の弁護をあきらめたものと受け取っていた。  証拠がすべて開示され、検察側がすべての立証を終えた。裁判での審理によって、以下のことが明らかになった。ニーナ・サン・クロワは長年、被告が逮捕されたあの家で暮らしていた。年取った黒人家政婦以外と二人だけで暮らす生活だった。ニーナ・サン・クロワの過去はよく知られていない。訪問客としては、逮捕されたメキシコ人水夫が結構な間隔をあけて訪ねてくるだけだった。被告人が何者なのか、どこ出身なのかなどを明らかにする書類は存在しない。被害者が殺される前の火曜日に、大司教はニーナ・サン・クロワから手紙を受け取っている。その中で彼女は、きわめて重大なことを告白したいとうち明け、大司教様にお会いしたいと表明している。これに対し大司教は、もし彼女が金曜日の十一時に大司教を訪ねる以降があるならば喜んで耳を傾けようと返事を出した。警官二人は次のように証言した。木曜日夜八時くらいに、ニーナ・サン・クロワの住居に被告人がやってきて、入り口から家の横手まで侵入し、家に招き入れられたのを見かけた。その外見やそわそわした挙動から、これは怪しいと思った。その時は、被告人が女主人の秘密の愛人なんだろうと思い、好奇心も手伝って、自分たちが屋敷に入り、なんとか部屋の中を見れるよう努力した。しかし中を見ることはできず、大通りに戻ろうとしたところ、女主人が大声で誰かをののしっている声が聞こえてきた。「あの女が好きだって事、私をのけ者にしたいんだって事は分かってるわ。でもね、言うとおりにしてもらいますから! あなたは私の夫を殺した! でも、私は殺されるいわれはないわ! 夫殺しの証拠はすべてそろっているのよ。大司教様には明日お見せします。あなたは縛り首間違いなしよ! いいこと? 夫殺しは縛り首よ!」これを聞いた警官の一人は、家の中に踏み込んでなにが起こっているのか確かめなければならないと同僚に言った。だが、もう一人は単なる痴話喧嘩にすぎんと言い、もし踏み込んだとしても逮捕できるような事はなにも発見できない、署長に笑われるのがオチだと主張した。二人はしばらくその場所にとどまって耳を澄ましていたが、もうなにも聞こえてはこなかった。それで大通りに戻り、屋敷を厳重に見張ることにした。  検察側はさらに、木曜日の夕方になって、ニーナ・サン・クロワがそれまで雇っていた老家政婦にそれまでの給金を払い、追って指示を出すまで暇をとらせていることを調べ上げた。老家政婦はこう証言した。自分は息子の家に身を寄せたが、その後で当面必要な衣服を何着か屋敷に忘れてきたことに気づき、屋敷に戻って今まで自分がいた部屋に入った。大体八時頃だった。その時、ニーナ・サン・クロワのけたたましい怒鳴り声が聞こえてきた。警官が述べたような言葉を使っていたことを覚えている。突然そんな罵声が聞こえてきたからとても驚き、出ていくのが怖くなったから、ドアにカギをかけて部屋に閉じこもった。少ししたら、誰かが階段を上る音が聞こえてきた。一歩一歩がゆっくりで、何か重いものを持っているみたいな感じだった。それを聞くとますます怖くなり、部屋の明かりを消してベッドの下に身を隠した。二階から長い間足音が聞こえていたのを覚えているが、どれくらいの時間だったかは分からない。朝四時半頃になって、ベッドから這い出し、ドアを開けて、階段を駆け下りて外に逃げ出した。外で警官に会ったので、屋敷を調べてくれと頼んだ。  警官たちは老家政婦と一緒に屋敷に行った。家政婦がドアを開けたちょうどその時、被告人が警官の目の前にやってきた。逮捕されたとき、ヴィクター・アンコーナは悲鳴を上げ、「あぁ、無駄だった! なんて無駄なことを!」と叫んだ。  警察署長はみずから屋敷に足を運び、徹底的な捜査を行うよう命じた。怒鳴り声が聞こえてきた階下の部屋で、一着のドレスが発見された。老家政婦は、このドレスはニーナ・サン・クロワのものだ、自分があの夜六時頃に最後に別れた時に着ていたものだと断言した。ドレスは血まみれだった。胸の左側に二インチくらいの長さの穴があった。穴の形状は、被告人が持っていたメキシカンナイフの形状と完全に一致した。一連の証拠品が法廷に提出された。もしこのドレスを誰かが着ていた場合、穴の位置は正確に心臓を貫いており、そのような傷は間違いなく死に至るものと認められた。部屋にあった椅子や部屋の床には大量の血が付着していた。被告人の上着やズボンの裾、メキシカンナイフにも大量の血が付着していた。それらの血は、専門家の手によって人間の血であると鑑定された。  女主人の死体は発見されなかった。厳密かつ長期にわたる捜査が行われたにもかかわらず、死体そのものの痕跡も、いかなる方法で死体を消滅せしめたかも、突き止めることができなかった。ニーナ・サン・クロワの死体は、空中に消えるがごとく完全に消え去ってしまったのだ。  検事がすべての論告を終わったところで、裁判長が物々しい態度でメイスンの方に向き直った。「弁護人は、被告側の証拠を提出してください。」  ランドルフ・メイスンはゆっくりと立ち上がり、裁判長を見つめた。  「裁判長…」メイスンは一語一語丁寧に宣言した。「被告側から提出する証拠は何もありません。」そして、みずからの陳述によって法廷にわき起こったざわめきが引くのを待って、こう続けた。「しかしながら裁判長、私は陪審に対して、被告人に無罪の評決を下されるように提議いたします。」傍聴席がさらにざわめいた。検事が失笑した。裁判長は眼鏡越しに鋭い目つきでメイスンを見つめた。  「その根拠は何ですか?」裁判長が言った。  「その根拠は、罪体《コーパス・デリクタイ》が立証されなかったことであります。」  「はぁ!?」裁判長は思わず我を忘れて叫んだ。  メイスンはひょいと腰を下ろした。ここで主席検事が素早く立ち上がった。  「異議あり! 弁護人は、罪体《コーパス・デリクタイ》が立証されていないということを理由に、そのような申立を行うというのですか? 冗談を言っちゃいけません! それとも、証拠のことを頭に入れておられないのですか? 罪体《コーパス・デリクタイ》とは法律用語でして、犯罪構成事実、あるいは犯罪が実行されたことを示す重要な証拠品のことを指すんです。この事件において、いかなる疑問があるというのですか? 確かに、被告人が被害者を殺害するところを目撃した者は誰もおりません。そして、被告人がきわめて巧妙な方法で隠匿した死体も今のところ発見されておりません。しかしながら、一連の状況はきわめて明白であります。個々の事実は相互に密接な関連を有し、犯罪の動機、犯罪行為、そして犯行の事実は疑う余地なく立証されているのであります。  事件の被害者は、被告人にとって不利になるであろう事実を告発しようとしていました。そのまさに前日に、被告人は被害者の住居に足を運んだのです。二人は争っていました。被害者の声が聞こえているわけですが、その声は大きな怒りの声でした。その声が、被告人を殺人者であると告発しているのです。さらに被害者は、その証拠を持っており、大司教に見せるはずだったのです。それが行われれば被告は絞首刑に処され、ために被害者は殺されずにすんだに違いありません。これこそがこの犯行の動機なのです。そこには一点の疑いもありません。血まみれのナイフ、血まみれのドレス、被告人が着ていた血まみれの衣服、これこそまさに被告人が犯罪を行ったことを示す証拠ではないのでしょうか? 被告人が犯罪を実行したことは一点の曇りもなく明らかであります。被告人の動機は十分すぎるほどに十分です。被告人の衣服には血液が付着しています。さらに、逮捕されたときに取り乱しております。これらの事実は被告人の有罪を、声を大にして告発しているのです。  人間は嘘をつくかもしれませんが、証拠は嘘をつけません。様々な希望や絶望や怒りなどにより、人は誰かを故意に欺きますし、偏見により間違ったことも証言します。しかしながら、一連の証拠が相互に密接かつ完全に明らかにしている所から推論した結果を、人間が誤認するなどあり得ません。それゆえ、偉大な先達たちも言っているように、そのような推論こそが、錯覚やペテンの入り込む余地を最小限にする、最も安全かつ強力な方法なのです。人間が正義を守ろうとする営みにおいて、事実に根ざすことのない妄想話について警戒することはできません。しかし、事実から推論するという行為は人間のあらゆる行動に付随しております。推論こそ、人間の知恵が真実に達する唯一の手段なのです。もしも陪審に対し推論を禁じるならば、それはまさに陪審員の両手を縛った上で仕事をしろと言っているに等しいのです。当然行われる推論を法が禁じるならば、この地に正義の終わりがやってきます。そして法廷は見捨てられ、クモの巣がかかる廃墟となるに違いありません。」  ここで検事は陳述をうち切り、ことさらメイスンにニヤリと笑いを浮かべ、みずからの席に着席した。裁判長は何も言わず熟考していた。陪審員たちは事の成り行きに身を乗り出していた。  「裁判長。」メイスンが再び立ち上がった。「これは明らかに法律の問題であります。ここニューヨーク州における法律において定められているのです。検察官たる者がそれを知らぬはずはありません。裁判長、問題はまったく簡単明瞭であります。罪体《コーパス・デリクタイ》、すなわち犯罪構成事実が立証された場合には、ニューヨーク州が定める法律により、この種の事件は陪審にゆだねなければなりません。立証されてない場合、法廷は陪審団に対し、被告人に無罪の評決を下すよう命じなければならないのです。これには自由裁量の余地はありません。裁判長におかれましては、殺人罪における罪体《コーパス・デリクタイ》の立証がいかにして行われるべきかについて、定められている原則を今一度考慮に入れ、厳格に適用していただけるよう希望いたします。  被告人はこの法廷で、最高位の犯罪に関する嫌疑を受けております。法律はまず最初に、犯罪が事実行われたことを立証することを求めております。被害者が本当に死んでいるという事実がまず立証されなければ、誰にも彼女に関する殺人罪を適用されるいわれはないのです。被害者の死亡に関して一抹の疑いが残る限りは、犯行が行われたものとは立証され得ません。状況証拠がいかに強力で、明白で、疑問の余地がないものであろうとも、それは同じなのであります。殺人罪においては、罪体《コーパス・デリクタイ》、すなわち犯罪構成事実は二つの要素から成り立っております。  死亡という結果。  原因となった他者による犯罪行為。  このことは、当ニューヨーク州において不変の法律として定められております。また、当法廷が判例として仰ぐべきラロフ対検察事件における判決においても示されていることでありますが、罪体《コーパス・デリクタイ》の構成要素が二つとも状況証拠によって立証されることは許されないとはっきり規定してあります。罪体《コーパス・デリクタイ》の構成要素のうち、少なくとも一方については直接の証拠によって立証されなければなりません。一方が直接証拠によって立証されるならば、他方はそこから推論しても構わないでしょう。しかしながら、両方とも推論によって立証されてはならないのです。行われた推論が、いかに強力で、説得力があり、完全なものであろうとも、それは変わらないのです。言い換えると、当ニューヨーク州においては、犠牲者の死体が見つかって身元が確認されるか、被告人が犠牲者を死に追いやるに足る行為を行い、しかもそれによって死体の消失方法が説明できるような方法でなされたことを直接証明できない限り、何人も殺人罪に問われることはないのであります。」  裁判官の顔から当惑が去ったが、厳しい表情になった。法廷に居並ぶ面々の中には、メイスンが示した法の抜け穴にうすうす気づき、一言も聞き漏らすまいとするものがいた。聴衆は困惑していた。彼らはまだ事の本質を理解できていなかった。メイスンは検察官の方に向き直った。そのいかつい顔には軽蔑の表情が浮かんでいた。  「この三日間」メイスンが話し出した。「私は無益にして不経済な茶番劇に対し、大変な苦しみを覚えて参りました。検察側の面々がかかる役者揃いでさえなければ、今回の事件において、ニーナ・サン・クロワの死に顔を目撃した生き証人か、あるいは被告人が被害者の心臓にナイフを突き刺すところを目撃した者がこの法廷に現れぬ限り、そもそもヴィクター・アンコーナを殺人罪に処することはできないことくらい、当然知っていたはずであります。  今回の事件においては、状況証拠がいかに強力で、動かしがたいものであろうと、裁判長であるあなたや、陪審員や、その他私の声が聞こえるであろう皆様方が、それら状況証拠に対して合理的な疑問を投げかけた上でもなお被告人の有罪を確信していたとしても、それは問題にならないのであります。目撃者が現れぬ以上、被告人を有罪とすることはできません。従いまして、当法廷は陪審に対し、無罪の評決を被告人に出すよう命じなければならないのであります。」  法廷にいた傍聴人たちもようやくメイスンのいわんとすることを理解し、呆然とした。こんな論理が法律であるわけがない。彼らは常々、法律とは常識であると教えられてきた。だが、メイスンの言うことは彼らの常識とは全く異なっていた。  メイスンは周りを見回し、意地悪く笑いながらこう付け加えた。「心優しき法律により、無実のものは守られるのであります。偉大なるューヨーク州の法律は、その条文によって、被告人を絞首刑にと願う悪魔的陪審団たちから被告人を救い出してくれるのであります。」  そしてメイスンは着席した。法廷は静まりかえっていた。陪審員たちは驚きを隠さず、お互いを見合っていた。ここで検事が立ち上がった。怒りと驚きが頂点に達したのであろう、その顔は青ざめていた。  「裁判長! 今の答弁は詭弁です! かかる論法に従えば、殺人犯が罪を免れるためにはただ死体を隠すか、バラバラにするか、海の中に沈めてしまえばいいと言うことになりましょう! そして、殺人行為を誰にも目撃されなかった場合、法律は全く無力となり、殺人犯が大手を振って再び世間に舞い戻ることが可能となるのであります! 法律がこのようなものであるならば、最も重い罪に対して法律は無意味となってしまいます! 偉大なる州法そのものが、殺人を奨励し、秘密裏に人を殺し、そのことを世間に隠したならば、人はみな邪魔者を殺すべし、と命ずることとなってしまいます。裁判長、繰り返し申し上げます!」怒りに満ちた激しい声が法廷に響き渡った。「このような論法は、全くの詭弁であります!」  「ベストもストーリーも、その他多くの者たちもそのようなことを言っております。」メイスンが低い声でやり返した。「しかしながら、法律は今もそのように定められているのであります。」  「当法廷はこれ以上の議論を止めるように命じます。」ふいに判事が宣言した。  検事は検事席に戻った。勝利を確信した様が顔に出ていた。法廷は必ずや検察側を支持するであろう。  裁判官は一同を見回し、みずからの威厳を保つべく、一語一語はっきりとさせた口調で話し始めた。  「陪審員諸君。かのヘイル裁判官による判例は、当法廷にもその効力は及びます。私ももちろんその例に漏れません。法律は弁護側が申し立てたとおり定められております。殺人という罪が行われたことの確証を得るためには、被害者が死亡していることに関する直接的な証拠が求められます。つまり少なくとも、被害者の死体が発見され身元が確認されるか、死という行為を起こし、さらに死体を消滅させるという結果が起こるような方法で、犯罪行為が行われたことが確認されるか、いずれかを明らかにする直接証拠を、法律は求めているのです。そして、一方が直接証拠によって立証されたときに限り、他方を状況証拠によって立証することが認められているのです。これが法律です。私の判断で動かすことはできません。ここでその拠って立つ学説を説明することは差し控えます。かつてジョンソン最高裁判事も、当法廷の先例となる判例で、死亡という結果、死を招くような犯罪行為という原因、その両方について直接証拠を欠く場合、他にいかなる証拠を持ってしても、犯罪行為によって被害者が死亡したという事実を、確実性を持って立証するにはいたらず、また、このことを推論することさえできないのであるとこう述べておられます。そしてその状況においては、被害者死亡という事実を確証することはできず、被疑者有罪とするようなあらゆる状況証拠はその推論が拠って立つ根拠を失い、被疑者の罪を論ずるに当たって必要な要点を提示することはできないとも言っておられます。おそらく、このような判例を確立した理由としては、死亡という結果、死を招くような犯罪行為という原因、その両方について直接証拠なしに有罪が立証された場合、一般大衆が抱く先入観や、一時的興奮による思いこみが、法廷に提出される証拠の意味を誤って解釈する原因となるおそれが出てきてしまうので、これを排除しようということもあげられるでしょう。  本事件において、死体は発見されず、被告人が一連の犯罪行為を行ったものとする直接証拠も法廷に提出されておりません。もちろん、提出された状況証拠をつなげて考えれば、それにより推論される結果は明らかですし、そこには疑いを挟むことはできないでしょう。しかしながら、それらはすべて状況証拠であります。従って、ニューヨーク州の法律により、被告人に罪を負わせることはできません。ここに自由裁量が入る余地はありません。私たちすべてが、事実上被告人の有罪を確信するでありましょうが、法律はその確信によって被告人を有罪にすることを許しておりません。以上の理由により、当法廷は被告人の無罪を評決するよう陪審員に命じます。」  「裁判長。」陪審長が陪審席から飛び上がった。「そんな評決は出せません。我々は宣誓しているんです。被告人の有罪は明らかです。」  「陪審長。」裁判官が言った。「これは法律が命じることです。陪審員の心情は一切関係ありません。書記に被告人無罪の評決を用意させますから、あなたは陪審長としてそれに署名してもらいます。」  傍聴人たちの間にどよめきが走り、法廷がざわついてきた。裁判長は槌で机を叩き、廷吏に聴衆を静かにさせるよう命じた。やがて法廷が落ち着いてきたのを見計らい、陪審長に対し、書記が用意した評決文に署名させた。その仕事を済ませると、やおらヴィクター・アンコーナの方を向いた。その顔は険しく、嫌なものを見るような目つきだった。  裁判長は被告人に判決を言い渡した。  「被告人、あなたは悪逆非道な殺人の罪を犯した者として当法廷に起訴されました。あなたに突きつけられた証拠はとても強力で、圧倒的な説得力を持っていました。陪審員たち、否、当法廷で審理を傍聴していた者たちはみな、あなたが有罪であることを確信していることでしょう。  本件が当法廷に出頭している十二人の陪審員にゆだねられたならば、必ずやその評決は有罪で一致し、あなたに対して死刑が宣告されたことでしょう。しかしながら、公平無私な法律が、あなたと陪審員との間に割って入り、あなたを救う結果となったのです。私は法律の無力さを悲観する立場には立ちません。しょせん人間とは完璧な知恵を有するものではなく、人間が創造する法律も完全無比なものとはなりえないものでありましょう。私はむしろ、そういった法律の網を、狡猾なる手管《てくだ》によってくぐり抜けることを可能とする、悪魔的な才能が存在することに対して遺憾の意を覚えます。ヴィクター・アンコーナ、あなたを避難したり説教したりする言葉は差し控えます。ニューヨーク州の法律が命じるところに従い、私はあなたを無罪放免とします。これはただ法の代弁者として宣告するのみであり、私自身の感情を明らかにするのは差し控えます。私はただ、法が命じた言葉を話しているに過ぎないのです。  あなたはたった今、当法廷を解き放たれ、自由の身となりました。しかしながら、このことは法律的な意味で殺人罪に該当しないと言うことであり、あなたの罪がこのことによって取り除かれたという意味ではありません。人はあなたの眉間にカインの傷跡を見るでしょう。しかしながら、法律はそれに対して盲目であるということです。」  裁判長の宣告の意味について理解した傍聴人たちは、ただ呆然とするばかりで何も言えなかった。彼らはみな、ヴィクター・アンコーナが殺人罪を犯していることを知っていた。それなのに、目の前で被告人が無罪を宣告され、大手を振って堂々と法廷を出ていこうとしている。それでは、法律は犯人がへまをしたときにだけ正義を実行してくれるということになってしまったのだろうか? 太古の時代から、法律というものはあまたの賢人たちがその知恵を傾けて完全なものとするべく努力して創り上げられたものだと、治安判事からいつも聞かされてきたのだが、今目の前で奸智に長けた悪人が法の網をくぐり抜ける様を目の前にして、法律というものがいかに弱いものなのかを思い知らされていたのである。 V  聖マーク監督教会から、ローエングリンの『婚礼の合唱』[#注四]が高らかに鳴り響いた。だが、その澄んだ甘い音色は、結婚に対して警告するという逆説で貫かれているといっても過言ではなかっただろう。遙かなる天国を前に、今まさに結婚を誓約しようとしているこの舞台装置は、さながら一郡の税収にも匹敵するくらいのバラに覆われている荒れ地であると言ってもよかった。小切手支払い能力で格付けされた上流階級がこぞって婚礼に集い、パリ風の紫やら純白やらを基調にして、贅を尽くした装いを見せつけていた。  親族席の最前列で、ミリアム・ステュヴィサント夫人が、宝石をじゃらじゃらつけて、数多くの織工の手によって織られたドレスに身を包んでいた。明らかに威張っていた。女王然として振る舞っていた。夫人にとってこの婚礼は、あらゆる意味で凱旋行進であり、みなが自分の力を褒め称えている舞台であった。夫人は午後のお茶会でとりわけ目立っている自分の取り巻きに囲まれていた。このお茶についてある人曰く、すべてを忘れるレーデ川の水が振りまかれているんだろうとのことである。  「皇后様。」レジー・デュ・ピュスターが後ろから身を乗り出して耳元でささやいた。「素晴らしい結婚式ですね。」  「ウォルコットは素晴らしい人よ。」ミリアム・ステュヴィサント夫人は答えた。「悪党であるわけがないわ、そうでしょ、レジー。」  「そうですとも、陛下。」取り巻きが続けた。「罠にかかった潔癖屋ですよ。あ、純真無垢なお方が祭壇に上られました。ばんざーい、ばんざーい。」  航海に出ていたため今だ日焼けが残るサミュエル・ウォルコットが、名門であるセント・クレア家の紅一点と、祭壇の前に立っていた。その表情は明るく、誠実であり、声もしっかりしたものだった。ここにこそ真の人生があった。そこには嘘はなかった。墓場のふたは閉じられたが、彼はそこから間一髪抜け出してきた。今もこれからも、殺人罪に汚れた手はすっかりきれいなものであり続けるだろう。  司祭の言葉が続き、神の前で結婚の違いが執り行われた。この二人、純真な娘と卑劣な男は、今神の手によって一心同体となり、聖壇に跪《ひざまづ》いた。怨念の叫びが地からわき起こることはなかった。真昼の太陽が、二人の結婚を祝福すべく、窓から光を浴びせかけていた。  ミリアム・ステュヴィサント夫人の後ろで、レジー・デュ・ピュスターは親指を下に突き出した。そしてこう言った。「くそったれ!」 [#注一]"Corpus Delicti" は普通『罪体』と訳されるが、知らなければこれでもチンプンカンプンだろう。要は、殺人事件で言えば、被害者がまちがいなく死んでおり、その死の原因は他者の犯罪的な行為である(自然死や事故死や自殺ではない)事の証明である。犯人は○○だと指摘する前に、まずこれを確立する必要がある。犯罪構成事実。有罪認定証拠。証拠物件。 [#注二]運命の女神は通常3人いるとされる。すなわち処女、母そして老婆(あるいは創造者、守護者、破壊者)である。彼女らはそれぞれ過去、現在、未来を支配する。三相の女神の跡は、ほとんどすべての神話にたどれる。 [#注三]硫酸で死体が溶けるかという話になると、肯定派と否定派が現れる。しかしながら、酸の種類と濃度、温度によって結果がかなり変わるという結論が正解だと思う。実は硫酸は98%濃硫酸のときは脱水作用が高いので皮膚に付くと水分を奪って炭化させるが、酸としての力は弱いので物を溶解させる力は少ない。一方、希硫酸の場合は脱水作用はないが、酸として物を溶かす能力が高いようだ。このように、濃硫酸の方が濃度が濃いから強いだろうと思ってしまいがちだが、一概にそうは言えないらしい。 また、熱濃硫酸の場合はまた性質が変わって、酸化力が出るようになる(ただしこれは290度まで熱しないといけない)。常温の酸と100度近い酸でもかなり状況が違うと思われるし、色々な要素を考えなければいけない。 [#注四]Lohengrinは、リヒャルト・ワーグナーのオペラ。台本も作曲者による。10世紀前半のアントワープを舞台とする。以降に作曲された楽劇(Musikdrama)に対し、ロマンティック・オペラと呼ばれる最後の作品。バイエルン王ルートヴィヒ2世が好んだことで知られる。第1幕、第3幕への各前奏曲や『婚礼の合唱』(結婚行進曲)など、独立して演奏される曲も人気の高いものが多い。が、Lohengrinのあらすじを簡単に言うと、ブラバント王国の領主ゴットフリートを殺した嫌疑を受けているエルザは、夢で見た白鳥に乗った騎士ロ−エングリンの出現によって救われ、二人は結婚するが、その騎士ロ−エングリンの素性を尋ねる禁を犯したため、騎士はモンサルヴァートへ去っていったというものであり、『婚礼の合唱』(結婚行進曲)が歌われた後、次の日に離婚してしまう。しかも夫との約束である素性を尋ねてはいけないということを、結婚式当日に破ってしまうという罪まで犯すのである。考えてみると本当に逆説に満ちていると言えるかもしれない。どんな音楽かはhttps://www.youtube.com/watch?v=JbWRc-3N6osを参照(Youtube動画)のこと。タータータター、タータータター。 ------------------------------------------------------- 【訳者あとがき】  この短編を知ったのは、今から5年くらい前だったかと思います。『クイーンの定員T』(1992)各務三郎編(光文社文庫)の中に、「罪の本体」と題して収録されています。今回翻訳するに当たっては、同書の翻訳も参考にさせていただきました。  メルヴィル・D・ポーストがどういう人なのかについては、http://www.aga-search.com/118m.d.post.htmlが詳しいので参考にどうぞ。探偵小説の歴史においては、アンクル・アブナーを探偵役とした小説で有名です。古き良きアメリカを知ることができる小説として、お薦めにあげられるでしょう。  『クイーンの定員T』において、『ランドルフ・メイスンの奇妙な企み』は「探偵小説で初めての悪徳弁護士が登場した記念すべき短編集」として紹介されています。最初から読んだ方はお分かりかと思いますが、ランドルフ・メイスンという人は、自分がやっていることが法すれすれであることをよく理解していながら、依頼人に知恵を授け、助けていくのです。当時の人たちから悪事の片棒担ぎと避難されたのもうなずける内容です。  ちなみに、1896年といえば、第1回近代オリンピックがアテネで開かれた年です。  なぜ私がこの短編を訳そうと思ったのか、それは、法律の力と限界を思い知って、考えるきっかけとなった短編だからだと思います。本短編は、"Corpus Delicti" 『罪体』の立証の問題によって、殺人者を罪に問うことができなくなってしまうというアイデアでもって作られているのです。もちろん今はそんなことはありません。死体を硫酸で溶かしたけれども有罪を宣告された人はいます(http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text/haigh.html参照)。また、http://baldhatter.txt-nifty.com/misc/2006/05/__f139.htmlによれば、死体が本当になかったにもかかわらず殺人罪を言い渡した判決が少なくとも三十程度存在するそうです。もちろん、逆に『罪体』を立証できなかったものとして無罪判決を言い渡すこともあります(http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/hokkaidou.htm)。  念のため付け加えますが、私は別に法曹界に身を置いているわけでもなく、法学部出身でもありません。「死体は発見されず、被告人が一連の犯罪行為を行ったものとする直接証拠も法廷に提出されて」いなければ、状況証拠をいくら積み重ねようとも有罪を宣告することができないという状態でなくてよかったなと思うだけです。短編集の出版を契機にアメリカの刑法も実際に改正されているようです。しかしながら、少なくとも短編集が出版されるまではこの状況だったわけです。  法律によって犯罪行為と規定されていない限り、どんなことをしても犯罪とは認定されません。ルールが整備されていなければあり得ない結果が起こったとしても容認せざるを得ない。私はそのことを、ライブドア対フジテレビの一連の戦いの中で、東京地裁・東京高裁がともにライブドアの言い分をほぼ全面的に認めたときに改めて感じました。 「立会外取引によるニッポン放送株の大量取得は現行の証券取引法では違法には当たらない」  この文言に私の目は引きつけられたのです。  また、村上ファンドのインサイダー取引疑惑を村上さん本人が「宮内さんから『やりましょう』と聞いたのは事実です。証取法違反の構成要件にあたる」と認め、「プロ中のプロとしておわび申し上げたい」と何度も謝罪したあの会見もニュースで見ました。その時に、「あの村上さんでも法違反を認めざるを得ないのか」と、法律の力というものをまたまた感じてしまいました。  まぁ、そんなこんなで、法律というものを考えるには必要な短編であったことから、翻訳してネットにあげてしまおうと思うに至ったのです。構想五年執筆二カ月。久しぶりなので荒れていると思います。ぜひ指摘をお待ちしています。 2006.07.30 -------------------------------------------------------