A Biographical Sketch of an Infant 日本語題:幼児の日誌的スケッチ Charles Darwin(チャールズ・ダーウィン) ------------------------------------------------------- 【このファイルに関して】  この論文は、1877年に『MIND』(世界最初の心理学雑誌のひとつ)に発表されたものです。原文は以下のところからとりました。 http://psychclassics.yorku.ca/Darwin/infant.htm  一部《》によってルビをふってあります。また、[]によって、注があることを示してあります。なお、注はこのテキストでは終わりにつけました。  First published in Mind, 2, 285-294.  SOGO_e-text_library責任編集。Copyright(C)2001 by SOGO_e-text_library  この版権表示を残すかぎりにおいて、商業利用を含む複製・再配布が自由に認められます。  最新版はSOGO_e-text_library(http://www.e-freetext.net/)にあります。  2001年3月4日、SOGO_e-text_library代表sogo(sogo@e-freetext.net)により入力。  2001年4月24日、プロジェクト杉田玄白登録に伴い正式版へアップ。  2003年12月26日、訳文手直し。  2004年8月22日、芝崎良典さんのご指摘により訂正。 -------------------------------------------------------  M.Taineが記述した、幼児の精神的成長に関する非常に興味深い知見――これはMINDの最新号(p. 252)に翻訳された――を見て、私自身の幼児たちを三十七年間にわたって観察した日誌に目を通そうと考えた。私は精密な観察ができるような状況にいたので、観察したものは逐一記録した。私は表現を主なテーマとしていて、ここで記録したものは、このテーマを扱った本に利用した。しかし、私は他の点にも注意を払っているから、M.Taineの記録や、将来他の人が作るであろう記録と比べると、あまりたいした関心を持たれないかもしれない。私自身は、私の幼児とともに見いだしたものから、その能力が発達する期間が、違う幼児では異なってくるだろうと考えている。  最初の七日間、新生児たちには、様々な反射作用、すなわちくしゃみをしたり、hickupしたり、あくびをしたり、のびをしたり、もちろんお乳をすったりきゃっきゃと笑ったりするなどの行動を行う様子が見られた。七日目に、私が紙の切れ端で一回だけ彼の裸足に触ると、紙から足を離し、同時につま先を巻いて、もっと大きい子どもがくすぐられたときにやるような動きをした。こういった反射的な動きの典型例は、自発的な動きが大きく欠けていることが、筋肉の状態やそれを調整する機構によるものではなく、意志が欠けていることによることを示している。この時期には、まだ初期の段階ではあるが、明らかに暖かくやわらかい手 (ここから286ページ) を顔に持っていって吸おうとしていた。これは反射的、もしくは本能的な動作と考えなければならない。なぜなら、その母親の胸に触ろうとする動作を遊びの中でもってすぐに見いだすような経験もしくは連想の存在を信じることができないからである。最初の二週間は、彼はよく突然の物音を聞き始め、まばたきをしていた。同じ事実が最初の二週間は他の幼児にも一部観察できた。かつて、彼が生後六十六日たった時に、私が偶然くしゃみをした。そうすると彼は、はげしく驚いて、眉をひそめ、びっくりしたように見え、そして大声で泣き出したのである。その後一週間、彼はもっと年をとった人においては神経質といわれる状態にあった。その間、どんなかすかな物音でも彼はびくっとした。この日の二・三日前に、突然現れた物体を見て、彼はびくっとした。その後は長いこと彼は音に対してびくっとして、何かを見たときよりも頻繁にまばたきをしていた。そうして、生後百十四日目になって、私は彼の顔の近くで、コンフィット[#注一]の入った厚紙の箱を振った。そうすると彼はびくっとした。それに対して、箱の中が空だったり他のものを入れたりして、同じ距離で振ったりもっと近くで振ったりしたときにはなんの効果も見られなかった。私たちは、こういったいくつかの事実から、まばたき――明らかに、彼らの保護に役立っている――は経験を通しては得られなかったものと考える。幼児たちは、音には敏感に反応するけれども、生後百二十四日に達するまでは音の方向を認識することができず、従って音を出しているものを直接見ることができないのだ。  視覚――彼の目は、生後九日目くらいの早期にはロウソクに固定されていた。四十五日目になると、そのような固定化は見られなかった。しかし四十九日目には、彼の視線は明るい色をしたふさに引きつけられた。このことは、彼の目がそこに固定されて、腕を動かさなくなったことによって示された。驚くべきことに、素早くゆれる対象を目に入れる能力を身につけたのはとても遅かった。生後七ヶ月半になるまでそれができなかったのだ。生後三十二日目には、三〜四インチ離れた母親の胸を知覚した。このことは、唇をつきだし、目がそこに固定されたことによって示された。しかし、私はこのことが視覚に関係しているかどうか疑わしく思っている。彼は確かに胸に触らなかった。彼がにおいとか暖かさの感覚とか、抱かれている位置関係によって導かれていないかどうか、私には全く分からない。  手足と体の動きは、長い間あやふやかつ無目的であり、普通はぐいと動かすようなしぐさをしていた。しかし、その例外がひとつあった。それは、非常に早い時期から生後四十日までの間、間違いなく手を自分の口へと動かしていたことである。生後七十七日目、彼はほ乳ビン(時々これで食事をしていた)を右手に取った。看護婦がどちらの腕で抱いていても、左手では取らなかった。 (ここから287ページ) その後一週間ほど左手でほ乳ビンを取らせようとしたけれども駄目だった。右手の方が左手より一週間早く成長しているようだった。けれども、この幼児はその後左利きと分かった。これは間違いなく遺伝ではない。彼の祖父も母も兄弟たちも右利きだったからだ。生後八十日から九十日にかけて、彼はいろんなものを口に入れた。二〜三週間のうちに、簡単にそうすることができるようになった。しかし普通彼はまずその物体を鼻につけ、それから口に持っていった。私の指を握り、口に持っていった後、彼の手は私の指を吸うのをやめた。しかし生後百十四日目、このような行動をした後、彼は手をすべり落とした。これは、口の中に指の先端を入れるための動作だった。この動きは何度か繰り返されており、明らかに偶然ではなく合理的な行動であった。手や胸を意図的に動かすことは、このように体や足の動きに先立って存在した。体や足の無目的な動きは非常に早くからあったけれども、普通は歩く行動として交互に行われた。生後四ヶ月目には、彼はよく熱心に自分の手と近くにある物体を見ていた。その間、目は内部で回転していて、たいていすごく目を細くしていた。この時から二週間後(例えば生後百三十二日目)には、私は、ある物体が自分の手と同じくらい近くに持ってこられると、彼はそれをつかもうとしたがよく失敗していたことを観察した。そして、彼はもっと遠い物体をつかもうとはしなかった。私は、彼の目の集中が彼に手がかりを与え、腕を動かそうという気を起こさせたことはほとんど間違いないと考えている。この幼児は非常に早い時期から手を使い始めたけれども、この点に関しては特別な適性を見せなかった。彼が二歳と四ヶ月になった時には、鉛筆やペンや他の物体を、その時生後十四ヶ月だった妹よりもうまく、効率的に持っていて、物を取り扱う生まれつきの適性を示していた。  怒り――どれくらいの時期から幼児が怒りを感じるかを決定するのは難しい。生後八日目に、彼は泣き出す前に眉をひそめ、目のまわりにしわを寄せたのだが、これは痛みとか悩みによるもので、怒りによるものではないかもしれない。生後十週間ごろになって、彼はかなり冷えたミルクを与えられて、それを吸うあいだじゅう額にわずかなしわを寄せていた。その様は、好きじゃないことを強要されるという試練を受けた大人のように見えた。生後四ヶ月近くたった頃(もしかするともっと早かったかもしれないが)、血が顔全体や頭皮に流れ出たときには簡単に激しく怒る状況になっただろうことは間違いなかった。小さい原因は十分だった。従って、七ヶ月と少したった時、彼はレモンが滑り落ち、自分の手でつかむことができなかった事から怒りの声を上げた。生後十一ヶ月になって、 (ここから288ページ) 間違ったおもちゃが彼に与えられた時には、彼はそれを押しのけ、叩いた。私は、おもちゃを叩いたのは本能的な怒りのサインであり、ちょうど卵を取られた若いワニが顎を鳴らすようなものであり、彼がおもちゃを傷つけられると想像したわけではないと考えた。二歳三ヶ月になると、彼は本や棒などを、自分を怒らせた何かに向かって投げる名人となっていた。このような行動は彼以外の息子にも一部見られた。その一方で、私の娘には乳幼児の時にはそのような傾向は全く見いだせなかった。このことから私は、ものを投げる傾向は少年によって遺伝していくものと考えた。  恐怖――この感覚は、たぶん幼児が発達初期に経験する感覚の一つである。このことは、生後数週間足らずの時に、突然の物音でびくっとし始めて、そして泣き出したことに示されている。生後四ヶ月半がたつ前に、私は彼に多くの耳慣れない大きな音を近くで聞かせて慣れさせた。その時の音はすべてすてきな冗談とでもいえるようなものだったが、この期間のある日、私は前に聞かせたことのない大きないびき音を立てたことがあった。彼はすぐに心配そうな表情を見せ、そして突然泣き出した。二・三日後、私は前のことを忘れて同じ音を立てて、同じ結果を招いた。同じ頃(生後百三十七日目ごろ)私は彼に後ろ向きで近づいて、静止したままでいた。彼はとても驚き、心配になって、振り返らないでいるとすぐに泣き出した。それから、彼の顔はすぐに笑いでゆるんだ。もっと成長した子どもは、暗闇とか、大きいホールなどの薄暗い角といった、あやふやでよく分からないものから来る恐怖で苦しむことはよく知られている。私がこの問題を子どもに適用した例としては、以下のようなものがあるだろう。彼が二と四分の一歳になっていた頃、動物公園においてのことであるが、彼は自分が知っているようなあらゆる動物を見て楽しんでいた。ダチョウとか、アンテロープといったもの、あらゆる鳥類(ダチョウもその中にはいる)などである。しかし、ゲージの中にいる、より大きめのいろいろな動物にはとても驚いていた。彼は後でよく、もう一度行きたいと言っていたが、「家の中の獣」は見なかった。私たちは、この恐怖を説明できなかった。私たちは、あやふやだが真に迫った子どもの恐怖――これは経験からは完全に独立している――は、古代の野蛮な時期において本当の危険と救いがたい迷信を受け継いだ結果だとは思わないだろうか? これは、かつてはよく発達していた特徴の伝わり方に関して私たちが知っていることとよく適合している。そういった性質は、人生の初期段階で現れ、そして消えるものであるべきだ。  楽しい気持ち――幼児は吸うことによろこびを感じていると考えてもいいだろう。涙でいっぱいになった目の中の感情は、これがその事例だということを示していると思われる。最初の乳児は生後45日でほほえんだし、二番目の乳児は生後四十六日でほほえんだ。これらは真のほほえみであり、よろこびを表現しており、目は輝きまぶたはわずかに閉じていた。ほほえみは、主に母親を見るときに起こっていたから、たぶん心からのものだっただろう。 (ここから289ページ) しかし、その後もたびたびほほえんでいて、ある時間は、精神的な楽しさを知覚し、彼を刺激したり楽しくしたりする何事も起こっていないのにほほえんでいた。生後百十日目、彼は顔に投げられた小児用エプロンのおかげでご機嫌だった。その時突然エプロンが引っ込められた。その時私は自分の顔をむき出しにして、彼に近づいていった。その時彼は、笑いはじめの時に出す小さな音を口にした。ここでは驚きは楽しみの主な原因であった。以上の出来事は、成長した人の間では機転とされているものへと応用できる例である。私は、三〜四週間前に、急にあらわれた顔で楽しんでいたときの時間、彼の鼻や頬の上で起こった小さい危険をいい冗談として受け取っていたと信じている。最初は生後三ヶ月と少ししかたっていない幼児がユーモアを解すのにはびっくりしたけれども、私たちは子犬や子猫が非常に早くから遊び出すことを思い出すべきであろう。生後四ヶ月たつと、彼はピアノの演奏を聴くのが好きだと明白な方法で示した。これは明らかにastheticな感覚の初期の徴候であったが、明るい色に引きつけられる傾向――これも早くから表れていた――のことも考えておかねばならない。  愛情――この感情は非常に早くから起こっているだろう。もし、生後二ヶ月足らずで幼児を預かった人たちに彼がほほえむのを私たちが愛情と判断するならば、であるが。ただ、私は彼が人間を個々に識別している直接の証拠を生後四ヶ月近くまで認めることができなかった。生後五ヶ月近くなると、彼ははっきりと、自分の面倒を見てくれる看護婦の元へ行きたいという要望を示していた。しかし、一年と少したつまでは、自発的に愛情を見せるような行動、例えば、少しの間いなかった看護婦に何回かキスをするなどの行動はしなかった。同情のような感情については、生後六ヶ月と十一日目には明らかに見せていた。その時彼は憂鬱な顔をしていて、口の隅は下の方へ曲がっていた。看護婦が泣くふりをしていたのだ。嫉妬の感情は、私がある大きい人形をなで回したときや、彼の妹をはかりにかけた時にはっきりと見て取れた。その時彼は十五ヶ月半であった。嫉妬の感覚が犬においてどれほど強いかを見れば、たぶんそれが明らかになったよりも早い時期に幼児によって示されるだろう。ただ、正しい方法で判定された場合に限る。  思考・推量など――私が観察したような、実質的な推論のたぐいを行った最初の行動は、すでに言及している。すなわち、私の指を下にすべらせて、口の中に指先を入れたことである。これは生後百十四日目に起こった。生後四ヶ月半で、彼は私の姿と彼自身の鏡像を見て何度も笑っており、それらを本物とは見なしていないことは間違いない。しかし彼は、自分の後ろから聞こえた私の声に驚くという感覚を明らかに示していた。他の幼児のように、彼は自分の姿を見て大いに楽しんでいた。生後二ヶ月足らずで、それが (ここから290ページ) イメージであることを完全に理解していた。私がしかめっ面を見せて黙っていると、彼は急に私を見ようと振り返った。しかし彼は、生後七ヶ月になった時、ドアの外にいて、大きな磨き板ガラスの窓の中にいる私を見て、その姿がイメージなのかそうでないのか迷っているようだった。他の幼児たちでは、娘がちょうど一歳になった時には、そんなに鋭い方ではなかったから、鏡の中で後ろから近づいてくる人影を見て、完全にとまどっているようだった。もっと年を取った猿に対して、小さい鏡を使って私が実験した時とは明らかに違っていた。猿は鏡に手を置くことで、彼らがどう感じているかを示した。しかし、自分自身を見ることを楽しみとはとらえておらず、彼らは怒って、何もないように振る舞っていた。  生後五ヶ月の時、それぞれ独立した命令によって連想される考えが、彼の心の中に起こるようになった。そのため、帽子と外套を着た後、ドアの外へすぐに連れて行かれなかったときにはひどく機嫌が悪かった。ちょうど生後7ヶ月の時、看護婦とその名前を結びつけるというすごい段階を踏んでいた。そのため、私が彼女の名前を呼んだら、彼は看護婦の方へ振り向いていた。他の幼児は頭を横に振って楽しんでいた。私はそれを喜んでまねし、「頭を振ってくれ」と言っていた。その子が七ヶ月になった時には、時々だれにも言われることなくそうしていた。その後四ヶ月たち、前に言っていた幼児は多くのことを連想し、話をしながら動いていた。そうして、キスを要求したとき、彼は唇をつきだし、そのまま止まっていた。石灰岩や水をこぼしたりしていた時には、頭を振って、「あぁ」といった非難の声を出し、それによって汚いという概念を教えられた。つけ加えて言うと、生後九ヶ月を迎える二、三日前のことだが、彼は自分の名前と鏡に映った自分の像とを結びつけていて、名前を呼ばれた時には鏡から相当離れていても鏡の方を向いた。九ヶ月を二、三日すぎたころには、彼は手や他の物体が影の原因であり、目の前にある壁に落ちた影のもとを後で探そうとすることを自発的に学んだ。一歳にもならないうちから、わずかな言葉を間隔を置いて二、三回繰り返すだけで、彼の心の中には何らかの連想が起こっていた。M.Taineによって記述された幼児に関する記録{pp.254-256}では、考えを容易に結合させる猿はかなり後になってあらわれており、それ以前にでていた事例は全く見つけられなかった。考えを関連づける機能は、命令とか自発的に起こった出来事から得られたものに依存しており、私には、過去に知られている、幼児の心や成熟した犬の中でも賢いものの心に関するあらゆる記録の中で、そういったことは熱心に記録されていないように思われる。幼児の心と比較できる記録としては、カワカマスに関する記録がある。これはProfessor Mobius[原注一]によって記録されたものである。その中で (ここから291ページ) はカワカマスは、他の雑魚とガラスで分けられると気絶してしまった。そして、罰を受けずに彼らを攻撃することはできないと分かった後、カワカマスを雑魚と同じ水槽に置くと、絶えず無意味な方法で彼らを攻撃する行動を見せなかった!  M.Taineの論評によれば、好奇心は幼児がまだ生まれて間もないうちから表現されており、幼児の心の発達には非常に重要である。しかし、私はこの項目については特に観察しなかった。模倣もまた遊びの中に入ってくる。私の幼児がまだ四ヶ月の時に、私は彼が音をまねようとしていると考えた。しかし、私は間違っていたかもしれない。なぜなら、彼が生後十ヶ月になるまで、私には彼がそうしているとは完全に信じられなかったからだ。生後十一ヶ月半になると、頭を振ったり、汚いものを見て「あぁ」と言ったり、「たたいてたたいてTの字つくれ」といった子供のようなリズムにのって、慎重にゆっくりと一方の手の人差し指をもう一方の手のひらに置くなどといった、あらゆる行動を簡単にまねすることができた。このようなことをうまくやった後の、彼がうれしがる表情を見ているのはおもしろかった。私には、幼児の記憶力についての証拠を示すことに価値があるかどうか分からないが、一応ここに述べておく。生後三年と二十三日がたったある日、彼に、それ以前六ヶ月は確実に会っていない、彼の祖父の彫刻を見せたことがある。彼は直ちに祖父のことを思いだし、祖父を訪ねたときに起こった一連の出来事を話した。そのことは、その六ヶ月間には全く話されなかったことだった。  道徳感覚――道徳的な感覚の最初の徴候は、生後十三ヶ月近くになったころにあらわれた。私はこう言った。「ドディー(彼のニックネーム)はかわいそうなパパにキスしてくれないんだね。いけないドディー。」間違いなく、この言葉を聞いて、彼はちょっといやがっていた。最後に、私が椅子に座り直すと、彼は唇をつきだし、私にキスする準備はできているよ、という様子を見せた。そして、私が近づいてキスを受けるまで、怒った様子で手を握りしめていた。似たようなことが数日にわたって繰り返された。仲直りしたことが彼に大きな満足を与えるように見え、その後何回か彼は怒った様子で私を叩き、私にキスすると言ってゆずらなかった。ここでは私たちは、多くの幼児が熱心に言うような、少し芝居がかったわざを持っている。このころになると、彼の感情を動かして、やって欲しいことを彼にやらせるのは簡単になった。二歳三ヶ月になると、彼はジンジャーブレッド[#注二]の最後の一枚を小さな妹にあげた後、このような自画自賛の言葉を叫んでいた。「親切なドディー、親切なドディー。」少し後(二歳と七ヶ月半だった)になって、私は (ここから292ページ) 彼が異常に明るい目をして、かなり不自然かつ気取った感じで食堂からでてくるのに出会った。そして私は、彼が今までいた部屋に入り、彼が砕いた砂糖を取っていたのを発見した。これは彼にやってはいけないと言ってきた事だった。彼はこれまでどんな形でも罰せられたことはなかったので、彼の変わった振る舞いは間違いなく恐怖によるものではない。私は、彼が良心と戦っていた時、彼はとても楽しい状態にあったんだと思っている。二週間後、私は彼が同じ部屋からでてくるのに会った。彼はエプロンを見ながらそれを慎重に巻いていた。その時も彼の行動がおかしかったので、私はエプロンの中に何があるのか見ようと考えた。彼はそこには何もないと言ったのだが、私は繰り返し「ほどきなさい」と命令し、ピクルスジュースのしみが付いているのを発見した。これは明らかに、故意にうそをつこうとしたものである。この子は単に、良心にのっとって生活するようしつけられただけだったから、すぐに正直になり、穏やかに要求されたことを実行したのだ。  無意識、内気――厚かましい作法で攻撃されることなく非常に幼い子どもと応対できる者は存在しない。幼児たちは新顔を見逃すことなく、それを見つめ続けるのだ。大人は動物や無生物に対してだけそのような方法で見るのだ。私はこう信じている。彼ら自身のことを何も考えていない幼い子ども達は、結果として少しも内気にならず、時々知らない人を恐がるだけなのだ。私は子どもが二歳と三ヶ月の時に最初の内気の徴候を見た。これは私に対して示された。十日ほど家にいなかった後、彼の目はわずかに私からそむけられていたのだ。だがすぐに彼はやってきて、私のひざに座ってキスをした。内気な感情は全く消え去っていた。  コミュニケーションの方法――泣いたりわめいたりする声は、涙が長い間は流れないことから、本能的な方法でももちろんなされるのであるが、彼が苦しいことを見せるのに役立っている。ある時期から、その音は飢えとか苦痛とかの原因によって異なってくる。この子が生後一週間になったときにそのことに気づいた。私は他の子については、もっと早くそうなっていただろうと信じている。さらに、彼はすぐに自発的に泣いたり、顔にしわを寄せたりすることを覚えたみたいだった。この行動は、彼が何かして欲しいことを示すためといった適当な機会をとらえて行われていた。生後四十六日目には、彼は最初は自分が喜んでいるといった意味のないまま、小さな声を出していた。しかし、それはすぐに変わった。笑いはじめは生後百十三日目に観察された。しかし、他の幼児ではもっと早かった。この日付において私は、すでに述べたことだが、彼は音をまねようと試み始めていたし、もっと後になれば間違いなく笑い出すだろうと考えていた。生後五ヶ月半の時、彼は明瞭に「だぁ」という声を発していたが、その言葉にはなんの意味も込められていなかった。一歳と少したったとき、彼は (ここから293ページ) 自分の要望を身ぶりで説明していた。簡単な例を与えるために、彼は紙切れを拾い、それを私に渡して火を指さした。彼はよく、紙が燃えるのを見て面白がっていたのだ。ちょうど一歳になった時、彼は食べ物を得るために“mum”という言葉を発明するというすごい段階を踏んだ。しかし、何が彼をそこに導いたのか私には見つけられなかった。ところで、飢えたときに泣き始めるかわりに、彼はそのことを示す言葉とか、「食べ物をちょうだい。」といった動詞を使った。この言葉は、M.Taineの幼児が生後十四ヶ月の時に使った食事時の言葉と一致する。しかし私の幼児たちは、広い意味を持つ名詞として、“mum”という言葉も使った。そのため彼は、砂糖を“shu-mum”と呼んだし、少し後で“black”という言葉を学ぶと、リコリス[#注三]を“black-shu-mum”(黒い砂糖の食べ物)と呼んだ。  私は特にある事実に心を打たれた。それは、彼が“mum”という言葉で食べ物をほしがる時に、「とても熱心に文の終わりに疑問の音をつけた」(これはその時書かれた言葉から写してきた)ことである。彼は「あぁ」という言葉――最初この言葉は、人の存在や鏡の中の自分を見たときに、驚いたときに私たちが使うような感嘆音として使っていた――も使った。私は注で、こういったイントネーションを使うことは本能的に起こっているようだ、と記録した。そして、この主題についてもっと深く観察しなかったことを残念に思っている。しかし、私の注によると、もっと後、つまり十八ヶ月目から二十一ヶ月目にかけて、彼は自分の声を断固として拒否する調子にして、反抗的な泣き声でもって「僕はしないよ。」とはっきり言っていた。M.Taineも、観察対象とした女児が、音色を非常に表現豊かにするという事を、話す事を覚える前に覚えた、と強く主張していた。私の子どもが食べ物を求める際に“mum”という言葉に込めた疑問の音は特に興味深い。もし誰かが、ただ一言、あるいはとても短い文をこのように使えば、その人は声の音楽的な高低が終わりでかなり上がる事を見いだすだろう。その後私はこのような事例を見ていないが、それが意味する見解を他のところで主張したことがある。その主張は、人類は、明瞭な言語を使う前に、類人猿Hylobatesが使うような真の音階で声の調子を口にしていた。  最後になるが、私は、幼児の欲しい物は、最初は本能的な泣き声によって理解できるが、ある時間がたつと、一部は無意識に修正されるが、会話する意志を持って自発的に変えていく部分もあると信じている。たとえばそれは、気づかずに特徴を表現したり、しぐさや著しく異なるイントネーションによって表現したり、などである。最後には、一般的な言葉が彼自身によって自然に発明され、それからより正確な言葉を、自分が聞いた物からまねする。後者は、素晴らしく早い効率で習得する。幼児はある程度分かっており、 (ここから294ページ) 私は、幼児たちは早い時期から、自分を世話してくれる人の意図や感情を、その人たちの表情から理解していると信じている。笑いに関しては、このことはほとんど疑うことができない。そして私には、ここで記録した幼児は、五ヶ月を少し過ぎたくらいで同情的な言い回しが分かっているように思われた。生後六ヶ月と十一日の時、彼は明らかに泣きまねをした看護婦に同情を示していた。何か新しい特技を実行して喜んでいると――その時彼はほぼ一歳だった――彼は周りの人の表情を調べていた。たぶん表情の違いによるもので、顔立ちの違いによるものではないと思うのだが、ある人の顔は他の人よりも彼を喜ばせていた。六ヶ月をすぎたあたりからすでにそうだった。彼が一歳になる前のことだが、彼はイントネーションやしぐさを、いくつかの言葉や短い文と同じくらい理解していた。彼は一つの単語、すなわち彼を世話する看護婦の名前を理解し、ちょうど五ヶ月になる前に“mum”という最初の言葉を発明していた。そして、これは予期していたかもしれないが、私たちが下等動物について知っているように、話されていることを理解することを簡単に学習していた。 Charles Darwin. 脚注 [1] Die Bewegungen der Thiere, &c., 1873, p. 11. [#注一]コンフィット:果物またはクルミの入った球状の糖菓。 [#注二]ジンジャーブレッド:ショウガ風味のケーキまたはクッキー。 [#注三]リコリス:カンゾウ(甘草)風味のキャンディー。 ------------------------------------------------------- 【訳者あとがき】  この論文は、修士論文を書くついでに訳してしまったものです。なぜこんな事をしたかというと、論文を書くだけだとつまらないな、と思ったからです。なぜだか私は、やらなければならないことを後回しにしてある意味どうでもいいことを先にやってしまう傾向があるのです。  チャールズ・ダーウィンといえば、一般的には生物学の分野における偉大な学者と認識されています。しかし、最近調べて分かったのですが、心理学の分野でも、結構引用される業績を残しているんですね。その中でも、結構短めのこの論文は、自分の息子たちの観察によるものでして、一読して取っつきやすいという特徴があります。  ダーウィンが人間を論じるのは『種の起源』(一八五九)の十年以上後に出版された『人間の由来』と『人間および動物における感情の表現』(この二冊はもとは一冊にまとめられるはずだった)においてなのですが、それよりずっと前の千八百三十八年から、表紙に「Mノート」と記された、人間に関するノートをつけはじめています。Mノートの最後のページ(千八百三十八年十月初旬)には「赤ん坊の博物学」と記されているのですが、彼はその言葉通りに赤ん坊の観察記録をつけ始めています。千八百三十九年一月に結婚し、同年の十二月に長男ウィリアムが生まれると、本格的に乳児の観察に取り掛かり、生後三年間ずっと日記をつけ、その後次々に子どもが増えるにしたがって(十人生まれた)、その成長を比較研究したことが明らかになっています。  その後、イッポリト・テーヌが千八百七十六年に自分の娘の生後十八ヵ月間の成長報告をしており、その英訳が『MIND』に英訳掲載されたのを受けて、この論文を発表したのです。  心理学におけるダーウィンの影響をこれ以上論じることは、私の力量を超えています。とりあえず、チャールズ・ダーウィンの科学者的態度を楽しんでいただければ幸いです。 2001.03.07 -------------------------------------------------------