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V
聖マーク監督教会から、ローエングリンの『婚礼の合唱』[#注四]が高らかに鳴り響いた。だが、その澄んだ甘い音色は、結婚に対して警告するという逆説で貫かれているといっても過言ではなかっただろう。遙かなる天国を前に、今まさに結婚を誓約しようとしているこの舞台装置は、さながら一郡の税収にも匹敵するくらいのバラに覆われている荒れ地であると言ってもよかった。小切手支払い能力で格付けされた上流階級がこぞって婚礼に集い、パリ風の紫やら純白やらを基調にして、贅を尽くした装いを見せつけていた。
親族席の最前列で、ミリアム・ステュヴィサント夫人が、宝石をじゃらじゃらつけて、数多くの織工の手によって織られたドレスに身を包んでいた。明らかに威張っていた。女王然として振る舞っていた。夫人にとってこの婚礼は、あらゆる意味で凱旋行進であり、みなが自分の力を褒め称えている舞台であった。夫人は午後のお茶会でとりわけ目立っている自分の取り巻きに囲まれていた。このお茶についてある人曰く、すべてを忘れるレーデ川の水が振りまかれているんだろうとのことである。
「皇后様。」レジー・デュ・ピュスターが後ろから身を乗り出して耳元でささやいた。「素晴らしい結婚式ですね。」
「ウォルコットは素晴らしい人よ。」ミリアム・ステュヴィサント夫人は答えた。「悪党であるわけがないわ、そうでしょ、レジー。」
「そうですとも、陛下。」取り巻きが続けた。「罠にかかった潔癖屋ですよ。あ、純真無垢なお方が祭壇に上られました。ばんざーい、ばんざーい。」
航海に出ていたため今だ日焼けが残るサミュエル・ウォルコットが、名門であるセント・クレア家の紅一点と、祭壇の前に立っていた。その表情は明るく、誠実であり、声もしっかりしたものだった。ここにこそ真の人生があった。そこには嘘はなかった。墓場のふたは閉じられたが、彼はそこから間一髪抜け出してきた。今もこれからも、殺人罪に汚れた手はすっかりきれいなものであり続けるだろう。
司祭の言葉が続き、神の前で結婚の違いが執り行われた。この二人、純真な娘と卑劣な男は、今神の手によって一心同体となり、聖壇に跪《ひざまづ》いた。怨念の叫びが地からわき起こることはなかった。真昼の太陽が、二人の結婚を祝福すべく、窓から光を浴びせかけていた。
ミリアム・ステュヴィサント夫人の後ろで、レジー・デュ・ピュスターは親指を下に突き出した。そしてこう言った。「くそったれ!」
[#注四]Lohengrinは、リヒャルト・ワーグナーのオペラ。台本も作曲者による。10世紀前半のアントワープを舞台とする。以降に作曲された楽劇(Musikdrama)に対し、ロマンティック・オペラと呼ばれる最後の作品。バイエルン王ルートヴィヒ2世が好んだことで知られる。第1幕、第3幕への各前奏曲や『婚礼の合唱』(結婚行進曲)など、独立して演奏される曲も人気の高いものが多い。が、Lohengrinのあらすじを簡単に言うと、ブラバント王国の領主ゴットフリートを殺した嫌疑を受けているエルザは、夢で見た白鳥に乗った騎士ロ−エングリンの出現によって救われ、二人は結婚するが、その騎士ロ−エングリンの素性を尋ねる禁を犯したため、騎士はモンサルヴァートへ去っていったというものであり、『婚礼の合唱』(結婚行進曲)が歌われた後、次の日に離婚してしまう。しかも夫との約束である素性を尋ねてはいけないということを、結婚式当日に破ってしまうという罪まで犯すのである。考えてみると本当に逆説に満ちていると言えるかもしれない。タータータター、タータータター。
この物語は、The Strange Schemes of Randolph Mason(ランドルフ・メイスンの奇妙な企み)と題して、1896年に出版された本の中の一遍です。この本の著者メルヴィル・D・ポーストは、自身の法律家としての経験を活かし、法の抜け道を知りぬいた悪徳弁護士メイスンを主人公とする7編の短編作品を発表し、一大センセーションを巻き起こします。
原文も用意しました。ダウンロードはこちら。
一部《》によってルビをふってあります。また、[]によって、注があることを示してあります。なお、注はこのテキストでは終わりにつけました。
この短編を知ったのは、今から5年くらい前だったかと思います。『クイーンの定員T』(1992)各務三郎編(光文社文庫)の中に、「罪の本体」と題して収録されています。今回翻訳するに当たっては、同書の翻訳も参考にさせていただきました。
メルヴィル・D・ポーストがどういう人なのかについては、http://www.aga-search.com/118m.d.post.htmlが詳しいので参考にどうぞ。探偵小説の歴史においては、アンクル・アブナーを探偵役とした小説で有名です。古き良きアメリカを知ることができる小説として、お薦めにあげられるでしょう。
『クイーンの定員T』において、『ランドルフ・メイスンの奇妙な企み』は「探偵小説で初めての悪徳弁護士が登場した記念すべき短編集」として紹介されています。最初から読んだ方はお分かりかと思いますが、ランドルフ・メイスンという人は、自分がやっていることが法すれすれであることをよく理解していながら、依頼人に知恵を授け、助けていくのです。当時の人たちが悪事の片棒担ぎと避難されたのもうなずける内容です。
ちなみに、1896年といえば、第1回近代オリンピックがアテネで開かれた年です。
なぜ私がこの短編を訳そうと思ったのか、それは、法律の力と限界を思い知って、考えるきっかけとなった短編だからだと思います。本短編は、"Corpus Delicti" 『罪体』の立証の問題によって、殺人者を罪に問うことができなくなってしまうというアイデアでもって作られているのです。もちろん今はそんなことはありません。死体を硫酸で溶かしたけれども有罪を宣告された人はいます(http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text/haigh.html参照)。また、http://baldhatter.txt-nifty.com/misc/2006/05/__f139.htmlによれば、死体が本当になかったにもかかわらず殺人罪を言い渡した判決が少なくとも三十程度存在するそうです。もちろん、逆に『罪体』を立証できなかったものとして無罪判決を言い渡すこともあります(http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/hokkaidou.htm)。
念のため付け加えますが、私は別に法曹界に身を置いているわけでもなく、法学部出身でもありません。「死体は発見されず、被告人が一連の犯罪行為を行ったものとする直接証拠も法廷に提出されて」いなければ、状況証拠をいくら積み重ねようとも有罪を宣告することができないという状態でなくてよかったなと思うだけです。短編集の出版を契機にアメリカの刑法も実際に改正されているようです。しかしながら、少なくとも短編集が出版されるまではこの状況だったわけです。
法律によって犯罪行為と規定されていない限り、どんなことをしても犯罪とは認定されません。ルールが整備されていなければあり得ない結果が起こったとしても容認せざるを得ない。私はそのことを、ライブドア対フジテレビの一連の戦いの中で、東京地裁・東京高裁がともにライブドアの言い分をほぼ全面的に認めたときに改めて感じました。
「立会外取引によるニッポン放送株の大量取得は現行の証券取引法では違法には当たらない」
この文言に私の目は引きつけられたのです。
また、村上ファンドのインサイダー取引疑惑を村上さん本人が「宮内さんから『やりましょう』と聞いたのは事実です。証取法違反の構成要件にあたる」と認め、「プロ中のプロとしておわび申し上げたい」と何度も謝罪したあの会見もニュースで見ました。その時に、「あの村上さんでも法違反を認めざるを得ないのか」と、法律の力というものをまたまた感じてしまいました。
まぁ、そんなこんなで、法律というものを考えるには必要な短編であったことから、翻訳してネットにあげてしまおうと思うに至ったのです。構想五年執筆二カ月。久しぶりなので荒れていると思います。ぜひ指摘をお待ちしています。
2006.07.30
原作:The Corpus Delicti
原作者:Melville Davisson Post(メルヴィル・D・ポースト)(1869-1930)
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