最後の授業 アルザスの一少年の物語 アルフォンス・ドーデー Alphonse Daudet 桜田佐訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)木《こ》びき工場 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)内|弟子《でし》と [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#4字下げ]目次[#「目次」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#4字下げ]最後の授業[#「最後の授業」は中見出し] [#6字下げ]アルザスの一少年の物語[#「アルザスの一少年の物語」は小見出し]  その朝は学校へ行くのがたいへんおそくなったし、それにアメル先生が分詞法の質問をすると言われたのに、私は丸っきり覚えていなかったので、しかられるのが恐ろしかった。一時は、学校を休んで、どこでもいいから駆けまわろうかしら、とも考えた。  空はよく晴れて暖かった!  森の端でつぐみ[#「つぐみ」に傍点]が鳴いている。リペールの原っぱでは、木《こ》びき工場の後でプロシア兵が調練しているのが聞こえる。どれも分詞法の規則よりは心を引きつける。けれどやっと誘惑に打ち勝って、大急ぎで学校へ走って行った。  役場の前を通った時、金網を張った小さな掲示板の傍《そば》に、大勢の人が立ちどまっていた。二年前から、敗戦とか徴発とか司令部の命令とかいうようないやな知らせはみんなここからやってきたのだ。私は歩きながら考えた。 『今度は何が起こったんだろう?』  そして、小走りに広場を横ぎろうとすると、そこで、内|弟子《でし》と一しょに掲示を読んでいたかじ[#「かじ」に傍点]屋のワシュテルが、大声で私に言った。 『おい、坊主、そんなに急ぐなよ、どうせ学校には遅れっこないんだから!』  かじ[#「かじ」に傍点]屋のやつ、私をからかっているんだと思ったので、私は息をはずませてアメル先生の小さな庭の中へ入って行った。  ふだんは、授業の始まりは大騒ぎで、机を開《あ》けたり閉《し》めたり、日課をよく覚えようと耳をふさいでみんな一しょに大声で繰り返したり、先生が大きな定規で机をたたいて、 『も少し静かに!』と叫ぶのが、往来まで聞こえていたものだった。  私は気づかれずに席に着くために、この騒ぎを当《あて》にしていた。しかし、あいにくその日は、何もかもひっそり[#「ひっそり」に傍点]として、まるで日曜の朝のようだった。友だちはめいめいの席に並んでいて、アメル先生が、恐ろしい鉄の定規を抱《かか》えて行ったり来たりしているのが開いた窓越しに見える。戸を開《あ》けて、この静まり返ったまっただなかへ入らなければならない。どんなに恥ずかしく、どんなに恐ろしく思ったことか!  ところが、大違い。アメル先生は怒らずに私を見て、ごく優しく、こう言った。 『早く席へ着いて、フランツ。君がいないでも始めるところだった』  私は腰掛けをまたいで、すぐに私の席に着いた。ようやくその時になって、少し恐ろしさがおさまると、私は先生が、督学官の来る日か賞品授与式の日でなければ着ない、立派な、緑色のフロックコートを着て、細かくひだの付いた幅広のネクタイをつけ、刺しゅうをした黒い絹の縁なし帽をかぶっているのに気がついた。それに、教室全体に、何か異様なおごそかさがあった。いちばん驚かされたのは、教室の奥のふだんは空《あ》いている席に、村の人たちが、私たちのように黙って腰をおろしていることだった。三角帽を持ったオゼールじいさん、元の村長、元の郵便配達夫、なお、その他、大勢の人たち。そして、この人たちはみんな悲しそうだった。オゼールじいさんは、縁のいたんだ古い初等読本を持って来ていて、ひざの上にひろげ、大きなめがねを、開いたページの上に置いていた。  私がこんなことにびっくりしている間に、アメル先生は教壇に上り、私を迎えたと同じ優しい重味のある声で、私たちに話した。 『みなさん、私が授業をするのはこれが最後《おしまい》です。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました…… 新しい先生が明日《あす》見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです。どうかよく注意してください』  この言葉は私の気を転倒《てんとう》させた。ああ、ひどい人たちだ。役場に掲示してあったのはこれだったのだ。  フランス語の最後の授業!……  それだのに私はやっと書けるくらい! ではもう習うことはできないのだろうか! このままでいなければならないのか! むだに過ごした時間、鳥の巣を捜しまわったり、ザール川で氷|滑《すべ》りをするために学校をずるけたことを、今となってはどんなにうらめしく思っただろう! さっきまであんなに邪魔で荷厄介に思われた本、文法書や聖書などが、今では別れることのつらい、昔なじみのように思われた。アメル先生にしても同様だった。じきに行ってしまう、もう会うこともあるまい、と考えると、罰を受けたことも、定規で打たれたことも、忘れてしまった。  きのどくな人!  彼はこの最後の授業のために晴着を着たのだ。そして、私はなぜこの村の老人たちが教室のすみに来てすわっていたかが今分かった。どうやらこの学校にあまりたびたび来なかったことを悔んでいるらしい。また、それは先生に対して、四十年間よく尽くしてくれたことを感謝し、去り行く祖国に対して敬意を表するためでもあった……  こうして私が感慨にふけっている時、私の名まえが呼ばれた。私の暗しょうの番だった。このむずかしい分詞法の規則を大きな声ではっきり[#「はっきり」に傍点]と、一つも間違えずに、すっかり言うことができるなら、どんなことでもしただろう。しかし最初からまごついてしまって、立ったまま、悲しい気持で、頭もあげられず、腰掛けの間で身体《からだ》をゆすぶっていた。アメル先生の言葉が聞こえた。 『フランツ、私は君をしかりません。充分罰せられたはずです……そんなふうにね。私たちは毎日考えます。なーに、暇は充分ある。明日《あす》勉強しようって。そしてそのあげくどうなったかお分かりでしょう…… ああ! いつも勉強を翌日に延ばすのがアルザスの大きな不幸でした。今あのドイツ人たちにこう言われても仕方がありません。どうしたんだ、君たちはフランス人だと言いはっていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか!…… この点で、フランツ、君がいちばん悪いというわけではない。私たちはみんな大いに非難されなければならないのです』 『君たちの両親は、君たちが教育を受けることをあまり望まなかった。わずかの金でもよけい得るように、畑や紡績工場に働きに出すほうを望んだ。私自身にしたところで、何か非難されることはないだろうか? 勉強をするかわりに、君たちに、たびたび花園に水をやらせはしなかったか? 私があゆ[#「あゆ」に傍点]を釣りに行きたかった時、君たちに休みを与えることをちゅうちょしたろうか?……』  それから、アメル先生は、フランス語について、つぎからつぎへと話を始めた。フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強い言葉であることや、ある民族がどれいとなっても、その国語を保っているかぎりは、そのろう獄のかぎ[#「かぎ」に傍点]を握っているようなものだから、私たちのあいだでフランス語をよく守って、決して忘れてはならないことを話した。それから先生は文法の本を取り上げて、今日のけいこのところを読んだ。あまりよく分かるのでびっくりした。先生が言ったことは私には非常にやさしく思われた。私がこれほどよく聞いたことは一度だってなかったし、先生がこれほど辛抱強く説明したこともなかったと思う。行ってしまう前に、きのどくな先生は、知っているだけのことをすっかり教えて、一どきに私たちの頭の中に入れようとしている、とも思われた。  日課が終ると、習字に移った。この日のために、アメル先生は新しいお手本を用意しておかれた。それには、みごとな丸い書体で、「フランス、アルザス、フランス、アルザス」と書いてあった。小さな旗が、机のくぎにかかって、教室じゅうにひるがえっているようだった。みんなどんなに一生懸命だったろう! それになんという静けさ! ただ紙の上をペンのきしるのが聞こえるばかりだ。途中で一度こがね虫が入ってきたが、だれも気を取られない。小さな子どもまでが、一心に棒を引いていた。まるでそれもフランス語であるかのように、まじめに、心をこめて…… 学校の屋根の上では、はと[#「はと」に傍点]が静かに鳴いていた。私はその声を聞いて、 『今にはと[#「はと」に傍点]までドイツ語で鳴かなければならないのじゃないかしら?』と思った。  ときどきページから目をあげると、アメル先生が教壇にじっとすわって、周囲のものを見つめている。まるで小さな校舎を全部目の中に納めようとしているようだ…… 無理もない! 四十年来この同じ場所に、庭を前にして、少しも変らない彼の教室にいたのだった。ただ、腰掛けと机が、使われているあいだに、こすられ、みがかれただけだ。庭のくるみの木が大きくなり、彼の手植えのウブロンが、今は窓の葉飾りになって、屋根まで伸びている。かわいそうに、こういうすべての物と別れるということは、彼にとってはどんなに悲しいことであったろう。そして、荷造りをしている妹が二階を行来《ゆきき》する足音を聞くのは、どんなに苦しかったろう! 明日《あす》は出かけなくてはならないのだ、永遠にこの土地を去らなければならないのだ。  それでも彼は勇を鼓して、最後まで授業を続けた。習字の次ぎは歴史の勉強だった。それから、小さな生徒たちがみんな一しょにバブビボビュを歌った。うしろの、教室の奥では、オゼール老人がめがねを掛け、初等読本を両手で持って、彼らと一しょに文字を拾い読みしていた。彼も一生懸命なのが分かった。彼の声は感激に震えていた。それを聞くとあまりこっけいで痛ましくて、私たちはみんな、笑いたくなり、泣きたくもなった。ほんとうに、この最後の授業のことは忘れられない……  とつぜん教会の時計が十二時を打ち、続いてアンジェリュスの鐘が鳴った。と同時に、調練から帰るプロシア兵のラッパが私たちのいる窓の下で鳴り響いた…… アメル先生は青い顔をして教壇に立ちあがった。これほど先生が大きく見えたことはなかった。 『みなさん、』と彼は言った。『みなさん、私は……私は……』  しかし何かが彼の息を詰まらせた。彼は言葉を終ることができなかった。  そこで彼は黒板の方へ向きなおると、白墨を一つ手にとって、ありったけの力でしっかりと、できるだけ大きな字で書いた。 『フランスばんざい!』  そうして、頭を壁に押し当てたまま、そこを動かなかった。そして、手で合図《あいず》をした。 『もうおしまいだ…… お帰り』