ヴェニスの商人

訳者あとがき

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「ちょっと待て、ユダヤ人。」ポーシャは言った。「まだ申し渡すことがある。この証文はお前に一滴の血も与えてはいないぞ。証文にはこう書いてある。『肉1ポンド』と。もし肉を1ポンド切り取るときに、キリスト教徒の血を一滴でも流したなら、お前の土地や財産は法律によってヴェニスの国家によって没収されることになるぞ。」

さて、シャイロックがアントニオの血を一滴も流すことなく1ポンドの肉を切り取ることはまったく不可能であったから、ポーシャが賢くも、証文に書かれているのは肉であって血ではないということを発見したことで、アントニオの命は救われたのであった。人々はみな、この便法を巧みにこしらえた、若い法律顧問のすばらしい賢明さをほめたたえたので、拍手喝采が元老院のあらゆるところから響き渡った。グレイシアーノは、シャイロックが使った言葉を叫んでいた。「おお、賢く正しい裁判官様! 聞けユダヤ人、ダニエル様がお裁きにいらっしゃったのだ!」

シャイロックは、自分の残酷なもくろみが実行できなくなったことに気がついて、がっかりした顔つきで、お金を頂くことにいたしますと言った。バサーニオは、アントニオが思いがけず救出されたことをこの上なく喜び、こう叫んだ。「ここにそのお金がありますよ!」

だがポーシャはこう言ってシャイロックを止めた。「ちょっと待て、何も急ぐことはない。このユダヤ人にはあの罰金以外の何物も与えてはならぬ。それゆえ、準備しなさい、シャイロック。肉を切り取るのだ。だが、血を一滴も流さないように気をつけるのだ。また、ちょうど1ポンドより多くも少なくも切り取ってはならぬぞ。それよりわずか1スクループル[#注9]多くても少なくても、いや、もしそのはかりが髪の毛一本分でも余分に回ったら、お前はヴェニスの法律によって死刑を宣告されるのだ。そしてお前の財産はすべて元老院に没収されるのだ。」

「私に私の受け取るべきお金をください、そして行かせてください。」シャイロックは言った。「用意してあるぞ。」バサーニオは言った。「ここにある。」

シャイロックはその金を受け取ろうとした。そのときポーシャはまたこう言ってシャイロックを止めた。「待てユダヤ人。まだお前に申し渡すことがある。ヴェニスの法律によって、お前の財産は、ヴェニスの市民に対しその命を奪おうとする陰謀を企てたかどで、国家に没収されるのだ。そして、お前の命は元首の意のままとなっているのだ。それゆえ、跪いて、元首に赦しを乞うのだ。」

そこで元首はシャイロックに言った。「我らキリスト教徒の精神がお前たちと違うのだということを分からせるために、お前が命乞いをする前に、命を赦してやろう。お前の財産のうち、半分はアントニオのものだ。残りの半分は国家のものとする。」

そのときあの寛大なアントニオは言った。シャイロックの財産に対する私の取り分は、シャイロックが死ぬときに娘とその夫とに財産を譲るという証書に署名すれば放棄いたします。というのは、シャイロックには一人娘がいたのであるが、娘は最近父の意に反して、アントニオの友人で名をロレンゾという若いキリスト教徒と結婚していたのである。このことにシャイロックは激怒し、娘を勘当してしまったことをアントニオは知っていたのだ。

ユダヤ人は署名することを承諾した。こういった次第で復讐に失敗してしまい、財産も奪われてしまったシャイロックはこう言った。「わしは病気です。家へ帰らせてください。後から証文を送ってくだされば、私は財産の半分を娘に譲ると署名いたしましょう。」

「ではでてゆけ。」元首は言った。「しかと署名するのだぞ。もしお前がみずからの残忍さを悔い改めて、キリスト教徒となるのであれば、国家による財産の半分没収も免除してやろう。」

元首はアントニオを放免し、法廷を解散した。その後元首は、若い法律顧問の知恵と工夫をおおいにほめたたえて、自分の家での食事に招待した。ポーシャは、夫より早くベルモントに変えるつもりだったので、こう答えた。「元首殿、お心遣いは大変ありがたいのですが、私はすぐ出かけなければならないのです。」

元首は、ここにとどまって自分と一緒に食事する暇がなくて残念だと言い、アントニオの方に振り返ってこうつけ加えた。「この方にお礼を言うんだね。私の考えでは、そなたはこの方に恩義があるのだからね。」

元首と元老院議員たちが法廷を去った後、バサーニオはポーシャに言った。「もっとも尊敬すべきお方よ、私と友だちアントニオは、あなたのお知恵によって、つらい罰金を免れることができました。ですから、あのユダヤ人に払うはずだった3000ドュカートを受け取っていただきたいのです。」「私たちは、永遠の愛と奉仕において、3000ドュカート以上のことをあなたにしていただきましたから。」とアントニオも言った。

ポーシャは説得を聞いてもお金を受け取らなかった。だが、なおもバサーニオがお礼としてなにか受け取ってもらうように勧めたので、ポーシャはこう言った。「私に手袋をください。それを記念として身につけましょう。」

それを聞いてバサーニオが手袋を取ったとき、ポーシャはバサーニオの指に、自分があげた指輪を見つけた。実は、この機知にあふれた婦人は、夫バサーニオに再び会ったときに、楽しい冗談の種にするつもりで、この指輪をバサーニオから取りたかったのだ。だからポーシャは手袋がほしいと頼んだのである。ポーシャは指輪を見てこう言った。「それから、ご厚意に甘えて、この指輪をあなたから頂きましょう。」

バサーニオはこの法律顧問の希望を聞いてとても悩んだ。というのは、バサーニオが手放せないただ一つのものを望まれたからだ。バサーニオは大変とまどいながら答えた。この指輪をあなたに差し上げることはできません。これは妻からの贈り物なのです。それに私は、この指輪を決して手放さないと誓ったのです。ヴェニス中でもっとも高価な指輪をあなたにお贈りしましょう。ヴェニス中にお触れを出して見つけだして見せます。

これを聞いたポーシャは侮辱されたようなふりをして、こう言い残して法廷を出ていった。「あなたは私に、乞食というものがどのような答えをされるべきか教えてくれましたよ。」

「バサーニオ君、」アントニオは言った。「あの人に指輪を差し上げるんだ。私の愛と、あの方が私にしてくれた立派な仕事にくらべれば、君の奥さんの不機嫌などはものの数じゃないよ。」

バサーニオは、大変な恩知らずのように見えるのを恥じて譲歩し、グレイシアーノに指輪を持たせてポーシャの後を追わせた。そのとき、書記に化けていたネリッサも、グレイシアーノにあげた指輪を要求した。グレイシアーノは(寛大さという点で主人に負けたくなかったので)指輪をネリッサにあげた。

2人の婦人は笑いあった。家へ帰ったときに、指輪をあげたことに対してどうやって夫をいじめようかと考え、また、夫に向かって、指輪を女に贈ったんでしょうと言ってやるつもりだったのだ。

ポーシャが家に帰ってきたとき、いいことをしたと自覚しているときに必ず感じるあの幸せな気分に浸っていた。心がうきうきしていたから、何を見ても楽しかった。月は今までにない輝きを見せていた。そのすばらしい月が雲の後ろに隠れると、ベルモントの家からやってきた明かりが、月を見たときと同じようにポーシャの愉快な心を喜ばせた。そしてポーシャはネリッサに言った。「私たちが見ているあの光は広間で燃えているのよ。あそこの小さいロウソクが、こんなところまで光を投げるのね。あのロウソクのように、善い行いはけがれた世の中に光り輝くものなのね。」そして家からもれてくる音楽を聴くとこう言った。「たぶん、あの音楽は昼間よりずっと美しく聞こえるのね。」

そしてポーシャとネリッサは家に入っていき、めいめい自分の服に着替えて夫の帰りを待った。すると夫たちはアントニオとともに返ってきた。バサーニオが自分の愛する友を妻のポーシャに紹介し、祝賀と歓迎の言葉が終わるか終わらないかのときに、一同はネリッサとその夫が喧嘩しているのを見つけた。

「もう喧嘩ですか?」ポーシャは言った。「いったいどうしたの?」

グレイシアーノは答えた。「奥様、つまらぬメッキの指輪のことなのです。ネリッサが私にくれた物なんですが、それには刃物屋のナイフに刻んであるような、『愛しておくれ、棄てちゃあいやよ』なんて文句が彫ってあるのでございます。」

「そんな詩や値段がなんだっていうのさ?」ネリッサは言った。「あなた、私が指輪をあげたときに誓ったわよね、死ぬまで持ち続けるって。それを今、さる弁護士の書記にあげたなんて言うじゃありませんか。指輪を女にあげたに決まってます。」

「この手にかけて誓うが、」グレイシアーノは言った。「指輪は少年みたいな若者に差し上げたんだ。背の小さいやつで、お前と同じくらいの背丈だったよ。賢い弁護によってアントニオ様のお命を救った若い法律顧問のそばで書記をしていてね、そのおしゃべりな小僧がお礼に指輪をくれって言ったんだ。私にはどうしてもそれを断れなかったんだよ。」

ポーシャは言った。「お前がいけないわ、グレイシアーノ。奥さんの最初の贈り物を手放すなんてねえ。私は夫のバサーニオに指輪を差し上げましたけど、どんなことがあっても主人はそれを手放しはしないに決まってます。」

グレイシアーノは、自分の過失のいいわけにこう言った。「主人のバサーニオ様がご自分の指輪をあの法律顧問に差し上げたのでございます。するとあの書記の小僧が、自分も書き物に骨を折ったからと言って、私の指輪を欲しがったのでございます。」

ポーシャはこれを聞いて、非常に怒ったふりをして、バサーニオが自分のあげた指輪を手放したことを責めた。そしてこう言った。ネリッサは私に何を信じたらいいのか教えてくれました。きっと女が指輪を持っているんでしょうよ。

バサーニオは愛する妻をそんなふうに怒らせてしまったことをとても悲しみ、非常に熱心にこう言った。「違うよ。私の名誉に賭けて言うが、受け取ったのは女じゃない、法律博士なんだ。その人は、私が差し出した3000ドュカートを断って、指輪を望んだんだ。それを断ったら、その人は機嫌を損ねて出ていってしまったんだ。私に何ができたというんだい、愛するポーシャよ。私は恥ずかしい状況に追い込まれてしまったんだ、私が恩知らずに違いないってことにされたんだからね。だから、彼の後を追いかけて指輪を渡さなければならなかったんだ。私を許しておくれ、よき妻よ。お前がその場に居合わせたら、きっとお前もあの立派な博士に贈るために指輪を欲しがったに違いないんだ。」

「ああ!」アントニオは言った。「私が喧嘩の原因なのですね…。」

ポーシャはアントニオに、そんなことを心配なさらないでください、あなたが来られてうれしいんですよと頼んだ。そこでアントニオは言った。「私は一度バサーニオのために体をお貸ししました。ですが、もしもあなたのご主人が指輪を差し上げたお方がいなかったら、私は今では死んでしまっていることでしょう。私はあえて、魂にかけて保証いたしますが、あなたのご主人はもう二度とあなたとの誓約を破ることはございません。」

「だったらあなたが保証人になってもらえませんか。」ポーシャは言った。「あの人にこの指輪をあげてください。そして、最初に差し上げたものよりも大切にするように言ってください。」

バサーニオはその指輪を見て、自分が法律顧問にあげたものと同じだということに気づいてとてもびっくりした。するとポーシャは彼に話した。自分がその若い法律顧問だったんです。そしてネリッサが書記をしていたんです。そしてバサーニオはあることに気がつき、驚きのあまり絶句した。自分の妻が、貴い勇気と知恵を発揮してくれたおかげで、アントニオの命が救われたのだと分かったのだ。

ポーシャは改めてアントニオを歓迎した。そして、偶然に自分の手に入った手紙を差し出した。そこには失われたと思われていたアントニオの船団が、安全に港へ到着したことが書かれていた。そういったわけで、ここに書かれた金持ちの商人にふりかかった悲劇は、続けて起こった予期せぬ幸運のうちにすべて忘れられた。そして、指輪に関する喜劇めいた出来事や、夫たちが自分の妻を見分けられなかったことを笑うだけの余裕ができたのである。グレイシアーノは、一種の韻を踏んだ言葉でこう誓った。

私が生きてるかぎりはずっと 続けることは大変だけど
ネリッサの指輪持ち続けよう これがどれだけつらいだろう。

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[#注9]scruple=20grains(grainは重量の最小単位)。これから、きわめて微量の意。


【このファイルに関して】

この物語は、The Tales from Shakespeare:Designed for the Use of Young People(若き人々のためのシェークスピア物語)と題して、1807年に出版された本の中の一遍です。この本の著者はCharles&Mary Lamb(C&M.ラム)ですが、下に挙げた本の解説には、THE MERCHANT OF VENICEはMary Lambの執筆となっていたので、作者をMary Lamb単独にしました。

この翻訳は、評論社ニュー・メソッド英文対訳シリーズCー14「ヴェニスの商人・オセロ」(1993年1月20日発行)より、THE MERCHANT OF VENICEを翻訳したものです。原文が、作者が書いたままだということで、原文に関しては著作権がすでに切れていると判断しました。なお、翻訳の際には上記本についていた対訳および注記を参考にさせていただきました。

一部《》によってルビをふってあります。

【訳者あとがき】

まずはじめに、翻訳に関してkatoktさんに指摘を頂いたことを感謝します。

イタリアに関する一連の作品で有名な、塩野七生《しおのななみ》さんが、ヴェネツィア共和国の歴史を描いた『海の都の物語(上)<中公文庫>』において、『ヴェニスの商人』に関してこう書いています。

『ヴェニスの商人』のアントニオは、困っていた友人に代って、高利貸のシャイロックから大金を借りてやる。担保は、彼自身の肉1ポンドだ。それが、持船が沈没して払えなくなったために起る話だが、ヴェネツィア商人の損害の分散方式は実に徹底していたので、持船の何隻かが沈没してしまったから一文無しになるというのは、なんとしても非現実的である。まずもって、一隻の船全部を所有していたということも、遠距離用の船ならば、ヴェネツィア有数の財産家でなければありえない。しかも、所有していたとしても、その船に自分の商品だけを満載して航海に出すというような事態は、ほとんどといってよいほど起りえない。また、シャイロックから借りた金《かね》は、三千ドュカートという大金である。高利貸から借りたとしても、このような大金をたった一人から借りたというのもうなずけない。必ず何人かに分散して、つまり担保をなるべく少額にして借りたはずである。
(以上、『海の都の物語(上)<中公文庫>』から引用)

持ち船が沈没したことで、借金を払えなくなることはそんなに現実離れしているとは思えないのですが(単に手元にかねがないだけとみなせばいい)、シャイロックだけから借りるというのは確かに現実離れしてるな、と感じました。

とはいえ、塩野さんも書いているように、戯曲が史実に忠実である必要は、出来栄えさえ良ければまったくないのです。ヴェネツィアを世界的に有名にするのに貢献したということで、独自の世界を味わえばいいのだと思います。

それにしても、シャイロックの方にかなり同情してしまいます。日頃から、自分の商売の仕方をさんざんに言われるだけでなく、犬といわれてつばをはかれて、足蹴にされるという惨状。これは肉一ポンドを担保にしたくなります。だいたいバサーニオはアントニオと仲がいいだけでいい目を見すぎです。派手な生活をして、素敵な奥さんを口説いて、結婚資金は友人持ち。ああうらやましい。

次があるとしたら、ヴェネツィアつながりで『オセロ』をやるでしょうね。ただ、たぶん今年中には訳されないでしょう。かなりいやになってます。

2001.07.05


原作:THE MERCHANT OF VENICE(TALES FROM SHAKESPEARE)

原作者:Mary Lamb

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この版権表示を残すかぎりにおいて、商業利用を含む複製・再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白正式参加テキスト。

翻訳履歴:2001年7月6日,翻訳初アップ。

2001年7月16日、katoktさんの指摘を反映。

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代表:sogo(sogo@e-freetext.net)