THE MERCHANT OF VENICE(TALES FROM SHAKESPEARE) 日本語題:ヴェニスの商人 Mary Lamb(M.ラム) ------------------------------------------------------- 【このファイルに関して】  この物語は、The Tales from Shakespeare:Designed for the Use of Young People(若き人々のためのシェークスピア物語)と題して、1807年に出版された本の中の一遍です。この本の著者はCharles&Mary Lamb(C&M.ラム)ですが、下に挙げた本の解説には、THE MERCHANT OF VENICEはMary Lambの執筆となっていたので、作者をMary Lamb単独にしました。  この翻訳は、評論社ニュー・メソッド英文対訳シリーズCー14「ヴェニスの商人・オセロ」(1993年1月20日発行)より、THE MERCHANT OF VENICEを翻訳したものです。原文が、作者が書いたままだということで、原文に関しては著作権がすでに切れていると判断しました。なお、翻訳の際には上記本についていた対訳および注記を参考にさせていただきました。  一部《》によってルビをふってあります。また、[]によって、注があることを示してあります。なお、注はこのテキストでは終わりにつけました。  SOGO_e-text_library責任編集。Copyright(C)2001 by SOGO_e-text_library  この版権表示を残すかぎりにおいて、商業利用を含む複製・再配布が自由に認められます。ただ、まだα版なので、正式版になるまで待った方が賢明だと思います。  最新版はSOGO_e-text_library(http://www.e-freetext.net/)にあります。  2001年7月5日、SOGO_e-text_library代表sogo(sogo@e-freetext.net)により入力。  2001年7月15日、katoktさんの指摘を反映。 -------------------------------------------------------  昔、シャイロックというユダヤ人がヴェニス[#注1]に住んでいた。シャイロックは高利貸しであり、キリスト教徒の商人に高い利子を付けて金を貸すことで大金持ちになったのだった。シャイロックは冷酷な心の持ち主であり、貸したお金の返済をとても厳しく要求してきたために、すべての善良な人たちに嫌われていた。その中でも特にアントニオというヴェニスの若い商人がシャイロックを憎んでいて、シャイロックもまたアントニオを憎んでいた。というのは、アントニオは困っている人によくお金を貸していて、そのお金に決して利息をつけなかったからである。このことから、このどん欲なユダヤ人と寛大なる商人アントニオは互いに激しい敵意を抱いていた。アントニオはリアルトー(すなわち取引所)でシャイロックに会うと、いつもシャイロックが高利で金を貸して厳しく取り立てることを非難していた。これをユダヤ人は、うわべは辛抱して聞きながら、心の中では復讐を考えていたのだった。  アントニオは、当時の人たちの中でも親切で気立ても優しく、礼儀を尽くそうと努力する心を持ちあわせていた。まったくもって彼は、イタリアに住む誰よりも古代ローマ人の名誉心をよく体現していた。  アントニオはヴェニスに住む人にとても愛されていたのだが、中でも親しくつきあっていたのはバサーニオという気立てのいいヴェニス人であった。バサーニオは親から財産を少しばかり相続したのだが、その財産をほとんど使い果たしてしまっていた。というのは、彼は自分の財産に似合わぬ派手な生活をしがちだったからである。財産を持たない若い貴族はよくそんなことをするのだ。バサーニオがお金に困るとアントニオは必ず彼を助けた。そのさまはまるで2人が1つの心と1つの財布を共有しているようだった。  ある日、バサーニオはアントニオを訪ねてこう言った。ぼくは財産を取り戻そうと考えている。愛する女《ひと》と富裕な結婚をしようと思うんだ。彼女のお父さんが最近亡くなってね、大きな財産をその人がたった1人で相続したんだ。お父さんがご存命だったころ、ぼくは彼女の家をよく訪ねていたんだ。そのとき彼女がぼくにときどきその目から無言の秋波を送っていたように思えてね、ぼくのことがまんざらでもないという感じだった。だがぼくには、大きな遺産を受け継いだあの女《ひと》の相手としてふさわしい風采を整えるだけの金がないんだ。そしてバサーニオはアントニオに懇願した。ぼくに対して親切にしてもらえるなら、3000ドュカート[#注2]用立ててくれないか。  アントニオはそのとき手元にお金を持っておらず、友だちに貸すことができなかった。しかし、商品を積んで帰ってくる船団があることを知っていたので、アントニオはこう言った。これから金持ちの金貸しであるシャイロックのところへ行こう。船に積んでいる商品を抵当にして金を借りることにするよ。  アントニオとバサーニオは2人でシャイロックのところへ行った。アントニオはユダヤ人にこう頼んだ。どんな利息をつけてもいいから3000ドュカート貸してもらえないか、今航海に出ている船団がのせている商品でもって返すから。  これを聞いてシャイロックはこう考えた。「もしこの男の弱点をつかめれば、積年の恨みをやっと晴らせるわい。やつはわしらユダヤの民を憎んでいる。やつは無利子で金を貸す。それに商人たちの間で、わしとわしが正当に稼いだ利益をののしり、わしの利益を高利と呼びやがる。わしがあいつを赦すくらいなら、わしの種族が呪われてしまうがいい!」  アントニオはシャイロックが自分の考えに沈み込み、何も答えないのを見て、お金を早く貸してもらいたくてこう言った。「シャイロック、聞いてるのかい? お金を貸してくれないだろうか?」  この質問にユダヤ人はこう答えた。「アントニオさん、あんたは取引所でそれこそさんざんわしをののしりなさったな、わしの金と高利貸しのことで。わしは辛抱強く肩をすくめてあんたの悪態を堪え忍んできました。忍従こそがわしら種族すべての徽章《きしょう》ですからな。それから、あんたはわしを無信心者とか極悪な犬とかいって、わしのユダヤ服につばを吐きかけ、野良犬を追い払うようにわしを足蹴にいたしましたな。ところで、あんたはわしの助けを必要としていなさるように見受けられますな。わしのところに来て、『シャイロック、お金を貸してくれ。』と言いましたな。犬が金を持っていますか? 野良犬が3000ドュカートを貸すことができますかな? 私は身をかがめて、こう申せというのですか?『だんな様、あなたはこの前の水曜日にわしにつばを吐きかけなさいましたね、それに、わしを犬とお呼びなさったこともありましたね、そういうご親切に対して、わしはあなた様にお金をお貸しいたしましょう。』などと。」  アントニオはそれに対してこう答えた。「私はまだお前をそう呼びたい気持ちだし、つばを吐いたり蹴飛ばしてやりたいとも思っている。もしお前が私にこの金を貸してくれる意志があれば、友だちとしてではなくて敵に対して貸すようにするんだね。そうすれば、もし私が約束を破ったら、お前はおおっぴらに罰金を取り立てられるだろうよ。」  「いったいどうしたんです。」シャイロックは言った。「ずいぶん怒鳴り散らしますな! わしはあんたと友だちになりますよ。そして仲直りしましょう。あんたがわしに加えた恥辱は忘れますよ。そしてほしいだけお金を提供しましょう。そのお金から利子は取りませんよ。」  この一見親切な申し出はアントニオをおおいに驚かせた。シャイロックはさらに、なおも親切そうな感じで、これはみんなアントニオの好意を得たいがためだと言い、こうつけ加えた。3000ドュカートお貸ししましょう、利子は頂かなくてけっこうです。ただ、アントニオが金貸しと一緒に公証人[#注3]のところへ行って、しゃれとして“もし期限までにお金を返さなかったら、アントニオは自分の体から、シャイロックの希望する部位の肉を1ポンド[#注4]切り取って与えなければならない”という証文に署名していただきたいのです。  「いいだろう。」アントニオは言った。「その証文に署名しよう。そして、このユダヤ人はとても親切だったと言おう。」  バサーニオは、自分のためにそんな証文に署名してはいけない、と言った。だがアントニオはこう主張した。ぼくは署名をするよ。支払いの日が来る前に、ぼくの船団が返済金の何倍もの価値を持つ商品を積んで帰ってくるからね。  シャイロックはこの言い争いを聞いてこう叫んだ。「ああ、父なるアブラハムよ[#注5]、このキリスト教徒たちはなんと疑い深いのでしょう! 彼ら自身が過酷な取引をしているから、他人もそうだと思いこんでいるのです。教えてくださいよ、バサーニオさん。もしこの人が期日までに金を払い込まなかったとして、このような罰を取り立てることで私は何を得るというのですか? 人間の体からとられた1ポンドの肉なんて、羊や牛の肉ほど利益も価値もありませんよ。ただ私は好意を得たいので親切にしているんです。受け入れていただけるならそうして下さい、その気がないならさようならです。」  バサーニオは、ユダヤ人が親切なことをいろいろ言ったのを聞いても、友人が自分のためにこの恐ろしい罰を払う危険を冒すのを好きになれなかった。だが、アントニオは証文に署名した。ユダヤ人が言うように、単なる冗談だと考えたのだ。  さて、バサーニオが結婚したいと考えていた例の金持ちの女相続人は、ヴェニスの近くのベルモントと呼ばれるところに住んでいて、名をポーシャと言った。その容姿も内面もとても優雅で、私たちが本で読むところの、ケイトー[#注6]の娘にしてブルータス[#注7]の妻であったあのポーシャにも決してひけを取らなかった。  バサーニオは、彼の友アントニオの、命を懸けた親切さのおかげでお金を調達してもらい、立派な随行団を率いてベルモントに向けて出発した。彼はグレイシアーノという名の従者を一緒に連れていった。  バサーニオは求婚に成功し、ポーシャはすぐに彼を夫として受け入れることを承諾した。  バサーニオはポーシャに、自分は財産を持っておらず、ただ高貴な生まれと立派な祖先を誇りとしているにすぎないのです、と告白した。ポーシャはといえば、バサーニオの立派な資質のゆえに彼を愛しており、夫の財産に頼る必要がないくらいの富を持っていたから、しとやかに謙遜してこう答えた。私は今より千倍も美しくありたいですし、一万倍も金持ちでありたいと願っています、あなたにふさわしい妻でありたいですから。  それから、たしなみを持つポーシャは、けなげにもこう言って自分自身をけなした。私は教育のない女ですわ、学校にも行っておりませんし、しつけも受けていないのです。ですが、物事を学べないほど年をとってはおりません。何事にも立派なあなた様のご指示をあおぎ、従っていくつもりです。そしてこう告げた。「私自身と私の持ち物は、すべてあなたとあなたの持ち物へと変わりました。バサーニオ様、昨日までは、私はこの立派な屋敷の女主人でしたし、私自身の女王でした。そしてここにいる召使いたちの女主人でございました。ですが今では、この家も、召使いたちも、みんなあなた様のものです。私は一切をこの指輪とともに差し上げますわ。」そしてバサーニオに指輪を差し出した。  バサーニオは驚きと感謝のあまり感極まった。そんなに優雅な態度で、金持ちにして気品あるポーシャが、自分のようなほとんど財産を持たない男を受け入れてくれたのだから、当然であろう。そして、バサーニオをとても尊敬してくれた女性に対して、喜びと尊敬の言葉を言えなくなり、ただ愛と感謝とをとぎれとぎれにつぶやくばかりだった。バサーニオは指輪を受け取り、二度と手放さないことを誓った。  グレイシアーノとポーシャの侍女ネリッサとが、それぞれの主人にかしずいていた。ポーシャがしとやかに、バサーニオの従順な妻になろうと約束したとき、グレイシアーノはバサーニオとこの寛大な婦人におめでとうございますと言い、自分も同時に結婚する許しを願い出た。  「いいともいいとも、グレイシアーノ。」バサーニオは答えた。「お前が妻を得ることができれば、私はかまわんよ。」  そこでグレイシアーノはこう告白した。自分はポーシャ姫の美しい侍女であるネリッサ姫を愛しています。彼女も、ポーシャ様がバサーニオ様と結婚するなら、妻になってくれると約束してくれました。  ポーシャはネリッサに、それは本当ですかと尋ねた。ネリッサはこう答えた。「奥様、そのとおりでございます。奥様が認めていただければ、ですが。」ポーシャは喜んで同意し、バサーニオはうれしげに言った。「では私たちの婚礼の宴は、お前たちの結婚でもっと素晴らしいものになるね、グレイシアーノ。」  こういった恋人たちの幸福に、ちょうどそのとき1人の使者が来たことで悲しくも邪魔が入った。使者は恐ろしいことが書いてあるアントニオからの手紙を運んできたのだ。バサーニオがアントニオからの手紙を読んでいるとき、ポーシャは親しい友だちの死のことが書いてあるのかと心配した。それくらいバサーニオの顔が青白くなっていたからである。そしてポーシャが、あなたをそんなに苦しめたお知らせはなんですかと聞くと、バサーニオはこう言った。「おお、かわいいポーシャよ、ここには今まで紙に書かれたこともないくらいにひどすぎる言葉が並んでいるんだ。やさしい姫よ、私が最初にあなたに愛を告げたとき、ぼくは率直に、貴い家柄を除けば財産は何もないと話しましたね。でもぼくはあなたに、無一文であるばかりか借金をしていることをお話すべきでした。」  そしてバサーニオはポーシャに、これまですでに述べてきたことを話した。彼はアントニオからお金を借りていること、そのお金をアントニオはユダヤ人であるシャイロックに借りたこと、そのお金が一定の期日までに支払われない場合にはアントニオが1ポンドの肉を失うことを約束したあの証文のことを話した。それからバサーニオはアントニオの手紙を読んだ。その言葉はこうであった。  愛するバサーニオよ、私の船はみな難破した。ユダヤ人に約束した抵当は没収されるのだ。そしてそれを支払えば、私は生きていられないのだ。死ぬときには君に会いたいと願っているけれども、君の好きなようにしてくれたまえ。もし私への君の愛が、私に会いたいと思うほどではないのなら、手紙のことは忘れてくれ。  「おお、愛するあなた。」ポーシャは言った。「仕事を片付けて、急いで行ってあげてください。あなたは、借金を20倍にもして返せるだけの金貨をお持ちになってください、そして、バサーニオ様の過失でこの親切なお友達が髪の毛一本でも失うまえに返してあげてください。そんな高価に買われたのですから、私はそれだけあなたを愛したいと思っていますわ。」  それからポーシャは、バサーニオ様が出発するまえに結婚いたしましょう、あなたに私のお金に対する法律上の権利をあげたいですから、と言った。その日のうちに2人は結婚し、グレイシアーノもネリッサと結婚した。バサーニオとグレイシアーノは結婚後ただちにヴェニスへと急いで向かった。そしてバサーニオはアントニオが牢の中にいるのを見つけた。  支払いの期日は既に過ぎており、あの残酷なユダヤ人はバサーニオが差し出したお金をどうしても受け取ろうとはせず、あくまでアントニオの肉を1ポンド受け取りたいと主張した。ヴェニスの元首の前でこの恐ろしい訴えをさばく日が定められ、バサーニオは生きた心地もないままに裁判を待った。  ポーシャが夫と別れるとき、明るく夫に話しかけ、帰ってくるときに親友を一緒に連れてきてほしいと頼んだ。それでもポーシャは、アントニオはつらい目にあうなと心配しており、1人になったときに心の中でいろいろ思いめぐらしはじめた。愛するバサーニオの友だちを救うために、自分がどうにかして役に立てないだろうか、考えることにしたのだ。  ポーシャがバサーニオに敬意を表そうとしたときには、大変おとなしく、妻としての従順さをもって、何事もあなたの優れた知恵に従いますと言ったのであるが、今や尊敬する夫の友だちが危機に陥っているのだからみずから行動に移さねばならなくなっていたし、ポーシャは自分の力を信じ切っていたから、真実にして完全なる自分自身の判断だけに従い、すぐに自分がヴェニスに行き、アントニオの弁護をしようと決心した。  ポーシャはかつて法律顧問をしていた親戚を持っていた。名前をベラーリオというこの紳士に対して、ポーシャは手紙を書き、事件の内容を伝え、彼の意見を求めた。また、ベラーリオに、助言とともに法律顧問が着る服も送ってくださいと頼んだ。ベラーリオへの使者が帰ってきたとき、彼は、どのように訴訟を進めるべきかがつづられたベラーリオからの手紙と、法律顧問になるために必要なものをすべて持ち帰ってきた。  ポーシャは男装し、侍女のネリッサにも男装させた。そして法律顧問の服を着て、ネリッサを書記として一緒に連れていった。2人はただちに出発し、裁判が行われるちょうどその日にヴェニスに着いた。  裁判は元老院において、元首とヴェニスの元老院議員の御前にて今まさに審問されようとしていた。そのときポーシャが裁判所に入ってきて、ベラーリオからの手紙を差し出した。その中で、かの学識ある法律顧問は元首にこう書いていた。曰く、本当は自分がアントニオを弁護するためにそちらへ出かけるべきではあるが、自分は今病気でそちらに行けない。博学で若いバルサーザ(彼はポーシャをこう呼んでいた)に、自分のかわりにアントニオを弁護させることをお許しいただきたい。元首はこれを許したが、法律顧問の服と大きなかつらで巧みに変装した、この見知らぬ人がとても若く見えるのを大変不思議がっていた。  いよいよこの重大な裁判が始まった。ポーシャはまわりを見渡し、あの無慈悲なユダヤ人を見た。そしてバサーニオを見たが、ポーシャが変装していたので、バサーニオは彼女だと分からなかった。バサーニオはアントニオのそばに立っていて、友達の身にふりかかった事件によって引き起こされた心痛におののいていた。  優しいポーシャはとりかかった事件の重大さを思い、勇気を奮い起こした。ポーシャは自分がなそうとしていたこの義務に対して果敢に挑んでいった。まず最初に、彼女はシャイロックに話しかけた。ヴェニスの法律に従い、シャイロックは証文に書かれた抵当を取り立てる権利があることを認めた後、とても優しく“慈悲”という貴い徳性について話した。その優しさは、どのような人の心をも和らげるものと思えたが、あの無情なシャイロックの心には通じなかった。  ポーシャはこう言った。慈悲というものは、天からふりそそぐ慈雨のように下界に落ちて来るものだ。慈悲は与える人と受け取る人をともに祝福するのだから、二重の祝福となるのだ。慈悲という徳性は、神おんみずからが持つものであるがゆえに、その王冠よりも王者に似つかわしいのだ。慈悲がかたくなな正義をやわらげるにつれて、地上の力は神の力に近いものとなってゆくのだ。そしてシャイロックに、人が慈悲を求めて祈るときには、その祈りが他人に慈悲を垂れるよう私たちに教えていることを思い出すようシャイロックに頼んだ。  シャイロックは、証文通りの罰金を頂きたいとだけ答えた。「アントニオはそのお金を払えないのか?」とポーシャは尋ねた。バサーニオはそれに対して、ユダヤ人に3000ドュカートを何倍にもして返すことを提案した。だがシャイロックはそれを拒絶し、なおもアントニオの肉1ポンドを取ることを主張したので、バサーニオは、博学な若い法律顧問に対して、アントニオの命を救うために法律を少し曲げるよう努力してほしいと頼んだ。  しかしポーシャは厳かに答えた。ひとたび決定された法律は決して変えてはいけないのだ。シャイロックはポーシャが法律を変えてはならないと言うのを聞いて、彼女が自分のために弁護をしているように見えたから、こう言った。「ダニエル[#注8]様が裁きにいらっしゃったんだ! おお、賢く若い裁判官様、どんなにか私はあなた様を尊敬いたしますことか!まことにあなた様は、お見受けするよりずっと年功を積んでおられますなあ!」  そのときポーシャはシャイロックに証文を見せてくれるように頼んだ。読み終わったとき、彼女はこう言った。「この証文は守られるべきである。この証文により、これなるユダヤ人は合法的に1ポンドの肉を、アントニオの心臓のすぐ近くから切り取って自分のものにできるのだ。」それからポーシャはシャイロックにこう言った。「慈悲を垂れたまえ。そこの金を取って、私にこの証文を破らせてくれないか。」  しかし、どのような慈悲もこの残酷なシャイロックは見せなかった。彼はこう言った。「私の魂に誓って申しますが、人間の舌には私の心を変える力はございませぬ。」  「そういうことならば、アントニオよ、」ポーシャは言った。「そなたは胸をナイフで切られなければならぬ。」そしてシャイロックがとても熱心に、肉を1ポンド切り取るために長いナイフを研いでいる間に、ポーシャはアントニオに言った。「なにか言うことはあるかね?」  アントニオはあきらめの表情を見せて静かに答えた。言い残すことは何もありません、もう死ぬ覚悟はできておりますから。そしてバサーニオにこう言った。「手を握らせてくれ、バサーニオ! さようなら! ぼくが君のためにこの不幸に落ちたことを悲しまないでくれたまえ。君の立派な奥さんによろしく。いかにぼくが君を愛していたか奥さんに言っておいてくれ。」  バサーニオは深い悲しみの中こう答えた。「アントニオ、ぼくは妻と結婚した。妻は命と同じくらいいとしい。だがぼくの生命も、妻も、そして全世界も、君の命ほど尊いものとは私には思われない。ぼくはすべて失おう。君を救うためならば、ここにいる悪魔にすべてをささげてもかまわないよ。」  ポーシャはこれを聞いて、とても優しい心を持つ女性だったから、夫がアントニオという真実の友だちに対して抱いている愛を表現するために、こういった強い言葉を使ったことに対して少しも怒ってはいなかったけれども、それでもこう答えざるを得なかった。「あなたの奥さんはあまりありがたいとは思わないでしょう、奥さんがここにいて、あなたがそんなことを言うのを聞いていたらどうするんですか。」  そのときグレイシアーノは、主人のやることをまねるのが好きなたちだったから、自分もバサーニオがやったような演説をしなければいけないと考えた。そして、ポーシャのそばで書記の格好をして記録を取っているネリッサが聞いているところでこう言った。「私には妻がおります。妻を愛していると誓います。ですが、妻がこの卑劣なユダヤ人の残酷な性質を変えるだけの力を乞い求めることができないのなら、妻には天国にいっていただきたいものです。」「あなた、奥様のいないところでそう願った方がいいですよ、さもないと、家にいざこざが起きてしまいますから。」とネリッサは言った。  シャイロックはいらいらしてこう叫んだ。「我々は時間を無駄にしております。どうぞ判決文を読み上げてください。」恐ろしい空気が法廷を支配し、その場にいる人の心はアントニオに対する悲しみでいっぱいになっていた。  ポーシャは肉を量るためのはかりを用意しているか尋ねた後、ユダヤ人に言った。「シャイロック、外科医を連れてきなさい。彼が血を流して死なないようにね。」シャイロックは、アントニオが血を流して死ぬことを願っていたので、こう答えた。「それは証文に書かれておりません。」  ポーシャは答えた。「証文には書かれていないが、それがなんだと言うんだ? それくらいの慈悲はかけてやってもいいだろう。」これに対し、シャイロックの答えはただこれだけだった。「そんなことは契約にありません。証文にはそんなことは書かれておりません。」  「では、」ポーシャは言った。「アントニオの肉1ポンドはお前のものだ。法律がそれを許し、法廷がこれを与える。お前は彼の胸から肉をとってもよろしい。法律がそれを許し、法廷がそれを与えるのだ。」  再びシャイロックは叫んだ。「おお、賢く正しい裁判官様! ダニエル様が裁きにいらっしゃったのだ!」そしてシャイロックは再び長いナイフを研ぎだした。そしてアントニオをじっと見据えてこう言った。「さあ、用意をしろ!」  「ちょっと待て、ユダヤ人。」ポーシャは言った。「まだ申し渡すことがある。この証文はお前に一滴の血も与えてはいないぞ。証文にはこう書いてある。『肉1ポンド』と。もし肉を1ポンド切り取るときに、キリスト教徒の血を一滴でも流したなら、お前の土地や財産は法律によってヴェニスの国家によって没収されることになるぞ。」  さて、シャイロックがアントニオの血を一滴も流すことなく1ポンドの肉を切り取ることはまったく不可能であったから、ポーシャが賢くも、証文に書かれているのは肉であって血ではないということを発見したことで、アントニオの命は救われたのであった。人々はみな、この便法を巧みにこしらえた、若い法律顧問のすばらしい賢明さをほめたたえたので、拍手喝采が元老院のあらゆるところから響き渡った。グレイシアーノは、シャイロックが使った言葉を叫んでいた。「おお、賢く正しい裁判官様! 聞けユダヤ人、ダニエル様がお裁きにいらっしゃったのだ!」  シャイロックは、自分の残酷なもくろみが実行できなくなったことに気がついて、がっかりした顔つきで、お金を頂くことにいたしますと言った。バサーニオは、アントニオが思いがけず救出されたことをこの上なく喜び、こう叫んだ。「ここにそのお金がありますよ!」  だがポーシャはこう言ってシャイロックを止めた。「ちょっと待て、何も急ぐことはない。このユダヤ人にはあの罰金以外の何物も与えてはならぬ。それゆえ、準備しなさい、シャイロック。肉を切り取るのだ。だが、血を一滴も流さないように気をつけるのだ。また、ちょうど1ポンドより多くも少なくも切り取ってはならぬぞ。それよりわずか1スクループル[#注9]多くても少なくても、いや、もしそのはかりが髪の毛一本分でも余分に回ったら、お前はヴェニスの法律によって死刑を宣告されるのだ。そしてお前の財産はすべて元老院に没収されるのだ。」  「私に私の受け取るべきお金をください、そして行かせてください。」シャイロックは言った。「用意してあるぞ。」バサーニオは言った。「ここにある。」  シャイロックはその金を受け取ろうとした。そのときポーシャはまたこう言ってシャイロックを止めた。「待てユダヤ人。まだお前に申し渡すことがある。ヴェニスの法律によって、お前の財産は、ヴェニスの市民に対しその命を奪おうとする陰謀を企てたかどで、国家に没収されるのだ。そして、お前の命は元首の意のままとなっているのだ。それゆえ、跪いて、元首に赦しを乞うのだ。」  そこで元首はシャイロックに言った。「我らキリスト教徒の精神がお前たちと違うのだということを分からせるために、お前が命乞いをする前に、命を赦してやろう。お前の財産のうち、半分はアントニオのものだ。残りの半分は国家のものとする。」  そのときあの寛大なアントニオは言った。シャイロックの財産に対する私の取り分は、シャイロックが死ぬときに娘とその夫とに財産を譲るという証書に署名すれば放棄いたします。というのは、シャイロックには一人娘がいたのであるが、娘は最近父の意に反して、アントニオの友人で名をロレンゾという若いキリスト教徒と結婚していたのである。このことにシャイロックは激怒し、娘を勘当してしまったことをアントニオは知っていたのだ。  ユダヤ人は署名することを承諾した。こういった次第で復讐に失敗してしまい、財産も奪われてしまったシャイロックはこう言った。「わしは病気です。家へ帰らせてください。後から証文を送ってくだされば、私は財産の半分を娘に譲ると署名いたしましょう。」  「ではでてゆけ。」元首は言った。「しかと署名するのだぞ。もしお前がみずからの残忍さを悔い改めて、キリスト教徒となるのであれば、国家による財産の半分没収も免除してやろう。」  元首はアントニオを放免し、法廷を解散した。その後元首は、若い法律顧問の知恵と工夫をおおいにほめたたえて、自分の家での食事に招待した。ポーシャは、夫より早くベルモントに変えるつもりだったので、こう答えた。「元首殿、お心遣いは大変ありがたいのですが、私はすぐ出かけなければならないのです。」  元首は、ここにとどまって自分と一緒に食事する暇がなくて残念だと言い、アントニオの方に振り返ってこうつけ加えた。「この方にお礼を言うんだね。私の考えでは、そなたはこの方に恩義があるのだからね。」  元首と元老院議員たちが法廷を去った後、バサーニオはポーシャに言った。「もっとも尊敬すべきお方よ、私と友だちアントニオは、あなたのお知恵によって、つらい罰金を免れることができました。ですから、あのユダヤ人に払うはずだった3000ドュカートを受け取っていただきたいのです。」「私たちは、永遠の愛と奉仕において、3000ドュカート以上のことをあなたにしていただきましたから。」とアントニオも言った。  ポーシャは説得を聞いてもお金を受け取らなかった。だが、なおもバサーニオがお礼としてなにか受け取ってもらうように勧めたので、ポーシャはこう言った。「私に手袋をください。それを記念として身につけましょう。」  それを聞いてバサーニオが手袋を取ったとき、ポーシャはバサーニオの指に、自分があげた指輪を見つけた。実は、この機知にあふれた婦人は、夫バサーニオに再び会ったときに、楽しい冗談の種にするつもりで、この指輪をバサーニオから取りたかったのだ。だからポーシャは手袋がほしいと頼んだのである。ポーシャは指輪を見てこう言った。「それから、ご厚意に甘えて、この指輪をあなたから頂きましょう。」  バサーニオはこの法律顧問の希望を聞いてとても悩んだ。というのは、バサーニオが手放せないただ一つのものを望まれたからだ。バサーニオは大変とまどいながら答えた。この指輪をあなたに差し上げることはできません。これは妻からの贈り物なのです。それに私は、この指輪を決して手放さないと誓ったのです。ヴェニス中でもっとも高価な指輪をあなたにお贈りしましょう。ヴェニス中にお触れを出して見つけだして見せます。  これを聞いたポーシャは侮辱されたようなふりをして、こう言い残して法廷を出ていった。「あなたは私に、乞食というものがどのような答えをされるべきか教えてくれましたよ。」  「バサーニオ君、」アントニオは言った。「あの人に指輪を差し上げるんだ。私の愛と、あの方が私にしてくれた立派な仕事にくらべれば、君の奥さんの不機嫌などはものの数じゃないよ。」  バサーニオは、大変な恩知らずのように見えるのを恥じて譲歩し、グレイシアーノに指輪を持たせてポーシャの後を追わせた。そのとき、書記に化けていたネリッサも、グレイシアーノにあげた指輪を要求した。グレイシアーノは(寛大さという点で主人に負けたくなかったので)指輪をネリッサにあげた。  2人の婦人は笑いあった。家へ帰ったときに、指輪をあげたことに対してどうやって夫をいじめようかと考え、また、夫に向かって、指輪を女に贈ったんでしょうと言ってやるつもりだったのだ。  ポーシャが家に帰ってきたとき、いいことをしたと自覚しているときに必ず感じるあの幸せな気分に浸っていた。心がうきうきしていたから、何を見ても楽しかった。月は今までにない輝きを見せていた。そのすばらしい月が雲の後ろに隠れると、ベルモントの家からやってきた明かりが、月を見たときと同じようにポーシャの愉快な心を喜ばせた。そしてポーシャはネリッサに言った。「私たちが見ているあの光は広間で燃えているのよ。あそこの小さいロウソクが、こんなところまで光を投げるのね。あのロウソクのように、善い行いはけがれた世の中に光り輝くものなのね。」そして家からもれてくる音楽を聴くとこう言った。「たぶん、あの音楽は昼間よりずっと美しく聞こえるのね。」  そしてポーシャとネリッサは家に入っていき、めいめい自分の服に着替えて夫の帰りを待った。すると夫たちはアントニオとともに返ってきた。バサーニオが自分の愛する友を妻のポーシャに紹介し、祝賀と歓迎の言葉が終わるか終わらないかのときに、一同はネリッサとその夫が喧嘩しているのを見つけた。  「もう喧嘩ですか?」ポーシャは言った。「いったいどうしたの?」  グレイシアーノは答えた。「奥様、つまらぬメッキの指輪のことなのです。ネリッサが私にくれた物なんですが、それには刃物屋のナイフに刻んであるような、『愛しておくれ、棄てちゃあいやよ』なんて文句が彫ってあるのでございます。」  「そんな詩や値段がなんだっていうのさ?」ネリッサは言った。「あなた、私が指輪をあげたときに誓ったわよね、死ぬまで持ち続けるって。それを今、さる弁護士の書記にあげたなんて言うじゃありませんか。指輪を女にあげたに決まってます。」  「この手にかけて誓うが、」グレイシアーノは言った。「指輪は少年みたいな若者に差し上げたんだ。背の小さいやつで、お前と同じくらいの背丈だったよ。賢い弁護によってアントニオ様のお命を救った若い法律顧問のそばで書記をしていてね、そのおしゃべりな小僧がお礼に指輪をくれって言ったんだ。私にはどうしてもそれを断れなかったんだよ。」  ポーシャは言った。「お前がいけないわ、グレイシアーノ。奥さんの最初の贈り物を手放すなんてねえ。私は夫のバサーニオに指輪を差し上げましたけど、どんなことがあっても主人はそれを手放しはしないに決まってます。」  グレイシアーノは、自分の過失のいいわけにこう言った。「主人のバサーニオ様がご自分の指輪をあの法律顧問に差し上げたのでございます。するとあの書記の小僧が、自分も書き物に骨を折ったからと言って、私の指輪を欲しがったのでございます。」  ポーシャはこれを聞いて、非常に怒ったふりをして、バサーニオが自分のあげた指輪を手放したことを責めた。そしてこう言った。ネリッサは私に何を信じたらいいのか教えてくれました。きっと女が指輪を持っているんでしょうよ。  バサーニオは愛する妻をそんなふうに怒らせてしまったことをとても悲しみ、非常に熱心にこう言った。「違うよ。私の名誉に賭けて言うが、受け取ったのは女じゃない、法律博士なんだ。その人は、私が差し出した3000ドュカートを断って、指輪を望んだんだ。それを断ったら、その人は機嫌を損ねて出ていってしまったんだ。私に何ができたというんだい、愛するポーシャよ。私は恥ずかしい状況に追い込まれてしまったんだ、私が恩知らずに違いないってことにされたんだからね。だから、彼の後を追いかけて指輪を渡さなければならなかったんだ。私を許しておくれ、よき妻よ。お前がその場に居合わせたら、きっとお前もあの立派な博士に贈るために指輪を欲しがったに違いないんだ。」  「ああ!」アントニオは言った。「私が喧嘩の原因なのですね…。」  ポーシャはアントニオに、そんなことを心配なさらないでください、あなたが来られてうれしいんですよと頼んだ。そこでアントニオは言った。「私は一度バサーニオのために体をお貸ししました。ですが、もしもあなたのご主人が指輪を差し上げたお方がいなかったら、私は今では死んでしまっていることでしょう。私はあえて、魂にかけて保証いたしますが、あなたのご主人はもう二度とあなたとの誓約を破ることはございません。」  「だったらあなたが保証人になってもらえませんか。」ポーシャは言った。「あの人にこの指輪をあげてください。そして、最初に差し上げたものよりも大切にするように言ってください。」  バサーニオはその指輪を見て、自分が法律顧問にあげたものと同じだということに気づいてとてもびっくりした。するとポーシャは彼に話した。自分がその若い法律顧問だったんです。そしてネリッサが書記をしていたんです。そしてバサーニオはあることに気がつき、驚きのあまり絶句した。自分の妻が、貴い勇気と知恵を発揮してくれたおかげで、アントニオの命が救われたのだと分かったのだ。  ポーシャは改めてアントニオを歓迎した。そして、偶然に自分の手に入った手紙を差し出した。そこには失われたと思われていたアントニオの船団が、安全に港へ到着したことが書かれていた。そういったわけで、ここに書かれた金持ちの商人にふりかかった悲劇は、続けて起こった予期せぬ幸運のうちにすべて忘れられた。そして、指輪に関する喜劇めいた出来事や、夫たちが自分の妻を見分けられなかったことを笑うだけの余裕ができたのである。グレイシアーノは、一種の韻を踏んだ言葉でこう誓った。  私が生きてるかぎりはずっと 続けることは大変だけど  ネリッサの指輪持ち続けよう これがどれだけつらいだろう [#注1]イタリアの北東部、アドリア海北端のヴェネツィア湾に臨むところにある。日本では一般的にはヴェネツィアと称される。 [#注2]ヴェネツィアで造られた金貨。重さ3.56グラム、二十四金、純度0.997を誇り、1284年の製造以来、国際通貨としての地位を約500年間保ち続けた。 [#注3]民事の公正証書をつくり、私書した証書を認める権限を持つ特殊な公務員。 [#注4]1ポンドは約0.4536キログラム。 [#注5]ユダヤ人の祖先で、彼らの信仰の父とあおがれる人。 [#注6]B.C.95-B.C.46、ローマの哲学者兼愛国者。 [#注7]カエサルを殺害したあのブルータスである。 [#注8]Apocrypha(ギリシャ旧約聖書などに含まれる一経)の中に現れる、若くしてその才能を謳われた名法官。 [#注9]scruple=20grains(grainは重量の最小単位)。これから、きわめて微量の意。 ------------------------------------------------------- 【訳者あとがき】  まずはじめに、翻訳に関してkatoktさん(http://www.bekkoame.ne.jp/~katokt/)に指摘を頂いたことを感謝します。  イタリアに関する一連の作品で有名な、塩野七生《しおのななみ》さんが、ヴェネツィア共和国の歴史を描いた『海の都の物語(上)<中公文庫>』において、『ヴェニスの商人』に関してこう書いています。  『ヴェニスの商人』のアントニオは、困っていた友人に代って、高利貸のシャイロックから大金を借りてやる。担保は、彼自身の肉1ポンドだ。それが、持船が沈没して払えなくなったために起る話だが、ヴェネツィア商人の損害の分散方式は実に徹底していたので、持船の何隻かが沈没してしまったから一文無しになるというのは、なんとしても非現実的である。まずもって、一隻の船全部を所有していたということも、遠距離用の船ならば、ヴェネツィア有数の財産家でなければありえない。しかも、所有していたとしても、その船に自分の商品だけを満載して航海に出すというような事態は、ほとんどといってよいほど起りえない。また、シャイロックから借りた金《かね》は、三千ドュカートという大金である。高利貸から借りたとしても、このような大金をたった一人から借りたというのもうなずけない。必ず何人かに分散して、つまり担保をなるべく少額にして借りたはずである。 (以上、『海の都の物語(上)<中公文庫>』から引用)  持ち船が沈没したことで、借金を払えなくなることはそんなに現実離れしているとは思えないのですが(単に手元にかねがないだけとみなせばいい)、シャイロックだけから借りるというのは確かに現実離れしてるな、と感じました。  とはいえ、塩野さんも書いているように、戯曲が史実に忠実である必要は、出来栄えさえ良ければまったくないのです。ヴェネツィアを世界的に有名にするのに貢献したということで、独自の世界を味わえばいいのだと思います。  それにしても、シャイロックの方にかなり同情してしまいます。日頃から、自分の商売の仕方をさんざんに言われるだけでなく、犬といわれてつばをはかれて、足蹴にされるという惨状。これは肉一ポンドを担保にしたくなります。だいたいバサーニオはアントニオと仲がいいだけでいい目を見すぎです。派手な生活をして、素敵な奥さんを口説いて、結婚資金は友人持ち。ああうらやましい。  次があるとしたら、ヴェネツィアつながりで『オセロ』をやるでしょうね。ただ、たぶん今年中には訳されないでしょう。かなりいやになってます。 2001.07.05 -------------------------------------------------------